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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

京都府亀岡市の出雲遺跡とは!そのⅠ

2009年10月06日 | 歴史
出雲遺跡は、亀岡市千歳町に所在する、弥生時代後期(2世紀後半)から古墳時代に属し、平成19年7月の発表では、ここから六角形の竪穴住居跡が見つかった。







写真は上から、出雲遺跡の2年前の発掘現場。圃場整備事業に伴い、田圃に様変わりした現在の姿及び周辺の亀岡盆地田園風景。

竪穴住居は、円形か四角形が大半で、六角形は珍しく、丹波地方で4例目と云う。

府教委は「有力者の住居か集会所のような建物で、集落の中心的な施設!」と推測している。六角形の住居跡は対角線の長さが7.8~8m・一辺が4~5mで、広さ約50㎡。

平地から約50mの高さの丘陵斜面にあり、当時主流の水田耕作を中心とする生活には不向きだったらしい。

この住居跡は盆地を見下ろす山の中腹に造られていた。

邪馬台国が日本国内を統一する直前の「倭国の大乱」の時期にあたり、「防御性の高い土地に住むことを強いられた状況がうかがえる」としているが、住居の中には使える状態の土器がそのまま残されていた。

倭国動乱の中、敵が迫ったため、住民が何も持たずに逃げ出した可能性もあると見られる。

これが大乱による緊急避難の痕跡かどうかはわからないが、生活必需品を置き去りにしているところを見ると、何か切迫した状況であったことには間違いない。

住居跡の中からは甕や壺など土器類15点が確認された。いずれもほぼ完全な形で残されており、散らばった状態の米も数多く見つかった。米はすでに炭化していたが、脱穀されていたと云う。

こうしたことから府教委は、住居は住民がいなくなって、そのまま放棄されたと判断。しかし、まだ使用できる貴重な甕や壺をそのままにして住まいを放棄するのは、当時としては異例で、これまでの発掘調査でも火災を受けていないケースはほとんど確認されていないという。

「魏志倭人伝」などによれば、邪馬台国の女王、卑弥呼が倭国を統一する前、日本国内は100国以上に分裂、戦いを繰り広げていた。

発掘調査で見つかる、この時期の竪穴住居には、戦闘で火災に遭い焼け落ちた状態のものもあるが、今回の遺構には火災の跡はなかった。




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