近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

天理市の西殿塚古墳に纏わる謎とは!

2011年08月14日 | 歴史
西殿塚古墳は竜王山西麓の幅広い尾根の上に、南北方向を主軸にして築かれた前方後円墳で、前方部を南に向けている。

前方部の先端は箸墓古墳ほどではないが、三味線のバチ状に開いている。













写真は上から、西殿古墳の正面光景、同古墳全景、同古墳後円部からの光景及び周濠が柿畑と化した同古墳光景、同古墳脇の柿畑越しに望む二上山と奈良市街地及び同古墳前方部がバチ型に開いた墳形の上空写真。

墳丘の全長は約230m・後円部の径約145m・前方部の幅130mほどの、天理市南部の萱生町から中山町に所在する古墳群の大和古墳群の中では最大の規模をもち、柳本古墳群を含むこの地域では、渋谷向山古墳(伝景行陵)、行燈山古墳(伝崇神陵)に次いで大きい。

1992~1994年にかけて天理市教育委員会が発掘調査を行なった。

調査では、東側のくびれ部から前方部に向かって徐々に深くなる周濠の存在が確認されたが、後円部や前方部前面へはつながっていないようである。

段築は認められるが、前方部の段築がくびれ部付近で解消してしまい、後円部にはつながっていない。

後円部墳頂は広大な正円形の広場になっており、その中央に正方形の壇が設けられていたと云う。

後円部の方形壇は、一辺35m・高さ2.6mの正方形に造られ、前方部にも墳頂に同じ形で、一辺22m・高さ2.2mでやや小さい壇が営まれており、墳丘頂上で古墳祭祀が行われたことを物語っている。

後円部と前方部の方形壇の下にそれぞれ別人の埋葬施設が存在したという見方があり、方形壇は死者を埋葬してから、その上に祭祀用に広大な壇を造ったものとみられ、箸墓古墳の段階ではまだ造られておらず、壇の設営としては初期の頃のものと考えられる。

発掘調査では、古墳の周囲から葺石が見つかり、大型の円筒埴輪が大量に出土した。

一方、1998年の宮内庁の報告によれば、特殊器台や特殊壺が発掘調査以前に出土していることが明らかになっている。

これらの特殊器台や特殊壺は埴輪の起源となるもので、この古墳は埴輪出現以前に築造されたものであり、その築造時期は円筒埴輪だけを出土する渋谷向山古墳・行燈山古墳より古いとされている。

築造時期は、箸墓古墳に近い4世紀前半に遡るとの意見が多い。

天理市南部に広がる大和古墳群の中でも最大の大きさであり、延喜式で山辺郡にあったとされる“手白香皇女衾田陵”の位置にあたるため、明治9年、宮内庁により西殿塚古墳が、第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ)の衾田陵に治定された。

その根拠は不明であるが、宮内庁は、現在この古墳を手白香皇女衾田陵として管理している。

男大迹(おおど)王が北陸三国の地から迎えられて継体天皇として即位し、第24代仁賢天皇の娘・手白香皇女を皇后としたのは、西暦507年のこと。

手白香皇女の死亡時期は不明だが、6世紀前半に生きた女性であることは間違いない。

したがって、考古学的知見では4世紀前半とされるこの古墳の被葬者であることは絶対にないと云う。

こうした明々白々な事実を前にしても、宮内庁は頑なに治定の見直しをしようとしない。

そのため、手白香皇女は天皇家の祭祀を受けず、衾田陵の被葬者は人違いされて祀られている。

死せる両人にとってははなはだ迷惑な話であり、手白香皇女陵は天理市柳本町中山集落の東方丘陵上にある高槻古墳とすべきとの意見もあるが・・・。

しかし、高槻古墳は全長110m・後円部径65m・前方部幅60mの前方後円墳だが、出土した須恵器から、古墳時代前期の築造と推定されているため、手白香皇女陵墓とは時代が合わない。

西殿塚古墳は、箸墓古墳と同様の吉備様式の特殊器台が後円部に並び、埴輪や墳丘の形態等からも箸墓古墳に続く時期の大王墓という見方がある。

こうして築造時期は3世紀後半から4世紀初めごろと想定されている。

一方衾田陵は、延喜式でいう山辺郡でも推定築造時期が6世紀と考えられていることから、周辺唯一の古墳である西山塚古墳と考えられている。

箸墓古墳に続く大王墓と見る立場から、被葬者を推定する試みもある。

まずは箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と考え、台与らその次世代の王を西殿塚古墳の被葬者と考える。

また崇神陵の陵守が衾田陵を合わせて守っていたという記録から、西殿塚古墳こそが崇神天皇陵であったという解釈もあるが???

現在、本古墳は宮内庁が管理しており、研究者や市民の立ち入りは禁じられている。

一方で宮内庁管轄の陵墓なのに、古墳の前に出られる整備された公道はない。


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