近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

楠木正成物語 忍者・甲賀者の足跡を訪ねて

2006年11月10日 | 歴史
正成ネットワークの有力な一角を占めていたとされる、伊賀・甲賀忍者について、今回は甲賀忍者・甲賀者の足跡を訪ねた。



写真は、三重県・滋賀県ほか“忍者の里”地図。
忍者の起源は、修験道の行者によって創始された山伏兵法が根本にあり、正成も山伏兵法を学び、ゲリラ合戦に応用したと云われている。
南北朝の争乱に敗れた敗残者が三重県伊賀・滋賀県甲賀に逃げ延びて、自衛手段として山伏兵法をはじめ、各種武術・火術・薬術を学び、忍者に即応した形に体系化したと考えられている。



写真は、甲南町の忍者屋敷・望月家居宅。
ここ甲賀市の甲南町には、53家の甲賀忍者がかつて活躍し、その筆頭格が現在でも屋敷が残る、望月出雲守で、写真の居宅は元禄年間に建てられたもの。



写真は、忍者屋敷内の抜け穴。
外観はありふれた平屋建ての装いだが、屋内は3階に区階され、各部屋のあちこちに隠し戸棚・抜け穴・はしご・落とし穴・まわり戸など外敵に備えた特殊で複雑な仕掛けが施されている。




写真は、“甲賀流忍者屋敷”に保存されている、自衛手段として装着していた手裏剣及び忍び熊手。
甲賀忍者は、様々な特殊訓練を行い、写真のような特殊な道具も所持し、使いこなし、又火薬など化学の知識を持つ技術集団としての一面をも持っていた。
地域の有力豪族であった、有力忍者は大名・領主に仕えた諜報活動に伴う危険及び豪族なるが故に外敵も多く、自衛手段として、常に外敵侵入に備えていた。
忍者は戦うよりも逃げることに重点を置いていたため、少しでも身軽に、夜陰に紛れやすい衣装で敵地に忍び込み、内情を探り、破壊工作をする集団で、身体能力に優れ、厳しい規律に律せられた諜報集団でもあったと云う。

滋賀県甲賀・三重県伊賀は隣り合わせの地域だが、山に囲まれ、外敵が侵入しにくく、隠れすむのに好都合で、山伏兵法を活用するのに適した地形であった。
特に甲賀者は火薬・薬物の技術に秀でていた忍者集団と云われ、瀬古薬師堂に残されていた古文書には火薬の配合方法が記され、幻の流星は夏の風物詩として、配合通り復元したと云う。



写真は、毎年夏に打ち上げられる小型花火の写真で、忍者の緊急な合図として打ち上げられたものと見られている。
関ヶ原の合戦で、徳川方として伏見城に籠城して戦い、戦死した甲賀武士100人のうち、望月氏ほか10人の位牌が、甲南町慈眼寺に残され、石碑が建てられている。



写真は、慈眼寺に残された10人を祀る石碑。
これら戦死者100人の子孫は、甲賀百人組を組織し、江戸時代を通して、江戸城本丸・大手門の警護に起用されたように、崇敬を受けていたと云う。

以上のトピックは、10月29日に甲南町主催・甲賀市と滋賀県共催の“忍者の里山・ウォーク”に参加して、甲南町忍者ゆかりの地を訪ねた断片的体験記録。



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