縄文時代に栄えた青森市の「三内丸山遺跡」の集落が、約4200年前に滅んだのは、2度の気温低下が原因だった可能性が高いことが、今回の発掘調査でわかったと云う。
それまで豊富だった食料用の木の実などが、この寒冷化で激減したらしい。




写真は、青森市三内丸山遺跡の平成17年当時の復元現場、同復元された掘立柱建物、同遺跡から出土した縄文ポシェット及び板状土偶。
縄文時代当時、これまで想像されてきた以上に高い生活文化レベルや祭祀様式などを暗示させる出土遺物として注目される。
三内丸山遺跡は陸奥湾の南約3kmにある、縄文時代最大規模の集落跡。約5900年前に成立し、約1700年後に消滅した。
本遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉にわたる日本最大級の大規模集落跡で、当時日本の首都とでも云える中心都市であったと云われている。
しかし、長期にわたる気候変動の詳しいデータがなく、集落の盛衰と気候の関連は不明だった。
この遺跡から約20km離れた陸奥湾で、水深61mの海底から堆積物を採取。プランクトンがどのような物質をつくっていたかを手がかりに、当時の海面水温を推定した。
その結果、海面水温は5900年前から約1700年かけて、約22度から約24度まで徐々に上昇したが、4200年前ごろ、約22度まで急激に低下した。気温の低下も、おなじ約2度とみられる。
堆積物中の花粉などを調べたところ、温暖期には陸上では食用に適したクリなどが多く育ち、海中には魚が多く生息できたが、寒冷化して、その環境が失われたことがわかった。
この寒冷化は、この地域に吹く南西からの暖かな季節風が弱まったことなどが原因らしい。「2度の寒冷化の影響は、思いのほか大きい。数度の温度変化でも、農業などの1次産業は大きな影響を受ける可能性がある」と云われている。
それまで豊富だった食料用の木の実などが、この寒冷化で激減したらしい。





写真は、青森市三内丸山遺跡の平成17年当時の復元現場、同復元された掘立柱建物、同遺跡から出土した縄文ポシェット及び板状土偶。
縄文時代当時、これまで想像されてきた以上に高い生活文化レベルや祭祀様式などを暗示させる出土遺物として注目される。

三内丸山遺跡は陸奥湾の南約3kmにある、縄文時代最大規模の集落跡。約5900年前に成立し、約1700年後に消滅した。
本遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉にわたる日本最大級の大規模集落跡で、当時日本の首都とでも云える中心都市であったと云われている。

しかし、長期にわたる気候変動の詳しいデータがなく、集落の盛衰と気候の関連は不明だった。
この遺跡から約20km離れた陸奥湾で、水深61mの海底から堆積物を採取。プランクトンがどのような物質をつくっていたかを手がかりに、当時の海面水温を推定した。
その結果、海面水温は5900年前から約1700年かけて、約22度から約24度まで徐々に上昇したが、4200年前ごろ、約22度まで急激に低下した。気温の低下も、おなじ約2度とみられる。
堆積物中の花粉などを調べたところ、温暖期には陸上では食用に適したクリなどが多く育ち、海中には魚が多く生息できたが、寒冷化して、その環境が失われたことがわかった。

この寒冷化は、この地域に吹く南西からの暖かな季節風が弱まったことなどが原因らしい。「2度の寒冷化の影響は、思いのほか大きい。数度の温度変化でも、農業などの1次産業は大きな影響を受ける可能性がある」と云われている。
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