<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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日常的に自転車を遠乗りすることで健康づくりを始めて比較的順調に行っていると、ふと学生時代に半年だけ自転車で学校に通ったことを思い出した。

私が通っていた大阪芸大は堺市の自宅から片道15kmほどの距離にある。
南河内郡河南町というところで、どちらかというと大阪の田舎。
交通の便はお世辞にもいい場所ということはできない。
通常、JR天王寺か南海河内長野経由で近鉄長野線に乗り変え喜志駅から地元の金剛バスが運行してた学生専用バスに乗車して学校へ向かう。
午前中は駅から学校方面行きのみ。
午後は学校から駅方向のみの運行で、朝1時限目だけの授業の日の時は、帰りが大変だった。
学生専用バスが駅に向かって運行を始める昼過ぎまで待つか、一時間に1本ほどしかない路線バスに乗るか、歩くかのどちらかなのであった。
駅までは4kmほどあり歩くと1時間ほどかかるが、歩くこともあった。
今でこそ周辺にはカフェやショッピングゾーン等色々とあるけれども当時は何もなく学食か図書館で時間をつぶす必要があった。
まさに陸の孤島。
この大阪の中心部から隔絶された陸の孤島に学生を幽閉することで独特のアート精神を植え付けるのが学校側の目的であった、というような冗談か本気かわからないことを卒業生が謳っている。
実際に体験したことのある者には、あながちウソと思えない真実性がある。

なお、これらは向井康介著「破壊者は西からやってくる大阪芸大」(東京書籍)に詳しい。

そんなこんなで通い始めた私は電車通学に無駄な時間が多いので自転車で通うことに一旦決定したのであった。
一旦、と言ったのは開始半年で挫折してしまったからなのであった。

通学のルートは次の通りなのであった。

当時、大阪府堺市の三国ヶ丘に自宅のあった私は南海JRの三国ヶ丘駅付近から府道堺富田林線を美原町(現堺市美原区)の平尾というところまで進んで、ここから山道を越えPL学園横を通過して近鉄電車喜志駅へ進む。
外環状線と呼ばれる国道170号線をすぎ喜志駅前の踏切を越えるとすぐに当時のスクールバス乗り場があって、そこからはバス道である府道を大和高田方面に走る。
そして3kmほど行った太子四つ辻という交差点を富田林方面に曲がると500mほどで大学前のロータリーに到着。
という道筋なのであった。

まだ阪和道も南阪奈道路も無かった。
だから当然、それと並行して走るコンデションのいい一般道もなかったから片側1車線で歩道もほとんどない狭い府道を走るしかなかったのだ。
三国ヶ丘から平尾までの府道は今もほとんど変わらないが平尾から喜志駅までの様相は今とまったく異なるものなのであった。

平尾から富田林方面の府道から離れ、古い集落の間の狭い道を走る。
両側に農家と思われる家々が建ち並んでいるが道路そのものは普通自動車が1台やっと通れるほどの幅しか無い。
アップダウンがあって下っているかと思うと急勾配の上り坂がある。
自転車にはかなり酷な道路だった。
とりわけ集落を抜けて山の中に入ると勾配はさらにきつく、長くなる。
至るところにカーブもあって対向から自動車が来ると怖いし、後ろからの自動車に煽られることも少なくなかった。
なんといっても普通自動車が1台やっと通れるような山道である。
自転車は邪魔なのであった。

今、この山道は存在しない。
急勾配の道もなくなった。
地域全体というか山そのものが開発され「さつき野」という新興住宅街になってしまったのだ。

極めつけがこの狭い道を「さつき野」を開発するダンプカーが行き交う。
普通車がやっと通れる狭い道としか思えない道をダンプカーが走ってくるので自転車も避けようがない。
特に後ろからダンプがやってくるとスピルバーグの「激突!」を想像してしまう怖さがある。

しかし怖いところばかりではない。
外環状線に至るすこしまえ。
最後の坂を下っていると右手にPL学園がある。
ここで高校生の学生君たちにすれ違うと「こんんちわ」と挨拶をしてくるのだ。
最初のうちはビックリした。
「うちの学校は挨拶なんかせんかったぞ!」
と、その礼儀正しさにビックリしたのだ。
慣れてくるとこっちも「こんちわ」と言わざる得なくなったが、なんて良い教育をしている学校なのだろうと思ったものだ。
流石、甲子園の強豪校だと思ったのは言うまでもない。

通い始めて2ヶ月もすると夏が近くなり暑くなってくる。
汗は流れ、車が巻き起こす砂埃で汚れる、ダンプは怖い。
朝に授業があって夕方まで次の授業が無い時はいったん自宅に戻ったりして一日2往復走ることもないこともなかったが、もう大変で夏休みを境に電車で通うことに切り替えたのだった。

自転車通学は半年も持たず、やがて乗っていた自転車も手放してしまったのだった。
乗っていた自転車は今で言うクロモリタイプで前2段、後6段の12段変速。
決して悪い自転車ではなかったが、良い自転車でもなかった。
あの上り坂を上がるのに18歳の私がヘロヘロになったような自転車だったので、あながち運動不足だけが原因ではないと思う。

とはいえ、あの頃にすでに自転車を楽しむという素養はあったようで、今ならきっと挫折せずに走り続けることができたかもしれない。



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