<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





グルメな時代劇というと、なんとっても池波正太郎の「鬼平犯科帳」。
とりわけ中村吉右衛門版鬼平には随所に美味そうなものが登場するのがドラマの魅力の1つになっている。
料理の中心になっているキャラクターは沼田爆演じる「ねこ殿」こと村松忠之進。
同心の村松は犯罪捜査よりも料理の研究に熱心で、その素材選び、料理方法、季節その他に関する知識と腕前がプロの料理人を凌駕しており、その描写がなんともいえず見ているものの食欲をそそる。
例えばしじみ汁であれば、
「このしじみ汁は、吾妻橋のたものとで捕れたばかりのシジミを真水で砂取をいたします。そして、それを鍋に入れ......…もう、なんとも言えぬ旨味が広がりまして」
と言った具合に展開し鬼平ならずとも、視聴者の我々までが、
「おお、吾妻橋といえばスカイツリー。あのへんでシジミが捕れたのか」
と考えながらそのしじみ汁を食べたくなってしまう。
ドラマのエッセンスとしては、出来すぎの塩梅なのである。

映画「武士の献立」は江戸時代の加賀藩を舞台にした賄い方担当武士の物語だ。
実のところこの映画、あまり観るのは気がすすまなかったのだが、カミさんがどうしても観てみたいというので付き合いで見てきたのだ。
なぜ、気がすすまなかったかというと、映画の前評判を週刊誌で読んでしまっていたことと、主役の上戸彩がどうしても時代劇にふさわしい女優さんであるとは思えなかったことだ。
アイドルでもない、かといって演技派とも思えない。
それでいてメディアへの露出も多い人なのだが、容姿がどうしても現代的で、時代劇の雰囲気がぶち壊しになっているのではなか、と思えてならなかったのだ。

で、実際に観てみると週刊誌で読んだような100点満点中60点ということはなく、それはそれで適当に見ていられる映画ではあったものの、ツッコミどころ満載の内容になっていた。
ある意味、ツッコミどころが満載であったために退屈せずに済んだという映画でもあった。
気がついたところを挙げると、

・手紙の朗読が現代語であった。
   劇中で読まれる手紙が現代語であったため、時代劇というよりも電子メールのなかった時代の現代劇という雰囲気が漂っていた。

・地域性がない。
   加賀藩という地方の街を舞台にし、そこへ浅草生まれの町人出身の主人公が嫁入りしてくるという設定なのに、全員が標準語を話しており、加賀地方の方言(関西弁の亜流)も江戸弁も使われないという、ホームドラマ的設定になっていた。良心的に評価するのであれば、どこへ行っても関西以外は標準語で話している時代劇「水戸黄門」のような設定、といえばわかりやすいと思う。

・主題が何か判然としない
   「武士の献立」というタイトルなので、料理が主題かと思いきや、例えば鬼平犯科帳のねこ殿が登場して解説するほどの料理のウンチクもなく、かといって主人公とその亭主の夫婦物でもないし、加賀騒動を描いているかというと、そうでもない。
土戸を切っても中途半端な、観ていると消化不良を起こしそうな時代劇だ。

・どの役にも不自然さがある
   映画なので不自然さがあって当たり前かもしれないが、それを感じさせないのが演出というもの。しかし、セリフが中途半端であったり、ある役者は棒読みであったりと、バラエティに富んでいた。

映画そのものは真面目に作られているだけに、あまりに現代人な上戸彩や、どこをどうみても三谷幸喜の映画に出てきた落武者の亡霊にしか見えない西田敏行や、山の中のどこかの一角としか思えない、江戸や金沢の風景は、まるで絵本の中で展開される江戸時代のお時話という感じが出てしまっていて、これまたある意味退屈しない重用な要素になっていたのであった。

武士の献立
まずはテレビを通じた時代劇楓現代劇、と思ってみれは楽しめないこともない映画なのであった。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )