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数年前に東日本大震災の復興が一向に進んでいないと言われていた頃。

それなら原爆を落とされた広島の復興はどうだったんだ、と調べてみたことがあった。
広島の原子爆弾と東日本の津波の被害を一概に比べることができないが甚大災害で街が無くなるくらいの破壊力だったということにおいては同様ではないかと思ったのだ。

で、調べてみたら驚くべきことがわかった。

広島に原爆が投下された8月6日以降、その復興スピードは半端ではなかった。
これも単純な比較はできないが、今の行政と当時の行政はどうしてこうも行動力と決断力が異なるのか。
巨大災害に立ち向かった同じ日本人とは思えないパワーなのだ。
進捗の過程の詳しくは次のブログで書くとして、今回はその頑強な精神力を示す大きな例の一つを一冊の文庫から知ることになった。

ノンフィクション作家・柳田邦男が著した「空白の天気図」である。

「空白の天気図」は原爆被害と原爆投下の一ヶ月後に西日本を襲った枕崎台風による広島市とその周辺の被害を広島気象台を軸に描いている傑作なのであった。
「マッハの恐怖」の柳田邦男がこのようなノンフィクションを書いていることを私は今回まで全く知らなかった。

まず、本書を読んで驚いたのはあの8月6日に原爆が投下された当日。
広島気象台がその後も通常業務を行っていたということだ。
もちろん甚大な被害を受けていた。
多くの職員が重症を負った。
行方不明になった人もいた。
それでも気象人根性というか科学者魂というか私達が極限の状況と思っていた原爆投下の広島で通常業務をこなしていたことに衝撃的な感動を受けたのだった。
投下後最初の午前10時の観測も実施。
その後の2時間おきの観測も当然実施していた。
つまり観測の抜けはまったくなく、今日に至るまでデータは一切中断することなく継続しているのだ。
私は広島の気象データは少なくとも原爆投下後の数週間は無いものと思っていたが、大きく違っていたのだ。

爆心地からたった3キロメートルほどしか離れていない広島気象台は当然原爆の破壊力を直接受けることになった。
ところが堅牢なその庁舎が気象台職員を守った。
多くが大怪我を負いながらも気象台としての任務を続行。
東京や大阪への気象情報の伝達は不可能だったが記録は継続されていたのだ。

気象台の壊れなかった風速計などが後に原爆の破壊力を科学的に究明する一つのデータになったことも興味深いものがあった。
市内中心部で被爆したであろう家族も顧みずに観測勤務を全うした職員の姿にも胸打たれるものがある。
これが作り話ではなく真実であったかと思うと当時の日本人の勇気と精神力には敬服するしかない凄みがあると思った。

これだけ興味深いことが書かれている本書のハイライトは実は原爆投下ではない。

本書のハイライトは原爆の一ヶ月後に広島を襲った枕崎台風に関するところだった。
私たちは広島の原爆は知っていても、そのたった一ヶ月後に超巨大台風が広島を襲って2000人以上もの死者・行方不明者を出したことを知らない。
原爆の破壊力をも凌駕する自然災害の恐ろしさ。
その被害の状況を原爆被害と合わせて足で調査した気象台職員の渾身の報告書はGHQの検閲に会い数年間日の目を見なかった。
こういうところが戦後の日本のおかしな文化をスタートさせてしまった根幹の一つなのだろう。
しかし、今日それは重要な資料として私たちは知ることができるのだ。

それにしても本書の中に記された多くの事例はなぜ昨年の広島の災害に役立てることが出来なかったのか。
そういう苛立たしさも感じさせさせる強烈な一冊なのであった。


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