平ねぎ数理工学研究所ブログ

意志は固く頭は柔らかく

武田邦彦さんにメールを送りました(2)

2013-09-09 16:06:45 | 武田邦彦
こんにちは。以前メールをお送りした平ねぎです。
今日の先生のブログ記事( 【普通の歴史】4-4大東亜戦争・・・その結果、戦後の状態)を読んでびっくりしました。つぎのようなことが書かれていたからです。

それに対して反日日本人を中心として、「日本は戦争をすべきではなかった」と言い、「アジア諸国の独立などどうでも良いじゃないか」と言う。

先生は、昭和天皇が戦争に反対していたことをご存じないのでしょうか。
先生の論でいくと、天皇陛下は反日日本人ということになります。

衝撃の未公開記録昭和天皇の独白八時間:文藝春秋12月号、平成2年、から昭和天皇が東條を総理大臣に任命した箇所を引用してみましょう。昭和天皇は以下のように語っています。

東條という人物はさきに陸軍大臣時代に、大命に反して北仏印進駐をした責任者を免職して英断を振った事もあるし、又宮中の小火事事件に田中東京警備司令官、田尻近衛師団長、賀陽宮旅団長以下を免職した事もあり、克く陸軍部内の人心を把握したのでこの男ならば組閣の際に、条件をさへ付けて置けば、陸軍を抑へて順調に事を運んで行くだろうと思った。
それで東條に組閣の大命を下すに当たり、憲法を遵守すべき事、陸海軍は協力を一層密にする事及時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事を特に付け加えた。時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事は、九月六日の御前会議の決定を白紙に還して、平和になる様、尽力せよと云ふ事なのだが、之は木戸をして東條に説明させた。そしてこの条件書の写を岡海軍軍務局長に渡させた、及川を別に呼んで、極力陸軍海軍協調を頼んだ。東條は私の意を汲んで組閣した、そして、来栖を華府の野村大使の許に送った<略>総理になった東條は、九月六日の御前会議を白紙に還すべく、連日連絡会議を開いて一週間、寝ずに研究したが…<略>

天皇から組閣を命じられた東條は、

田原総一朗:日本の戦争、小学館、より引用
***
天皇に「首相をやれ」といわれたとき、東條は足がふるえて、何がなんだかわからなくなった、と秘書官の赤松貞雄に洩らしている。東條は控え室に戻ると、赤松に車を用意させて、明治神宮、東郷神社、靖国神社を次々に回り、深く長く礼拝した。その間、一言も口をきかなかった。帰途、赤松に緊張し切った口調で「この上は神様の御加護により組閣の準備をするほかなしと考えて、このように参拝している」と語った。
陸相官邸に戻った東條は、武藤章・軍務局長、佐藤賢了・軍務課長、石井秋穂・軍務課高級課員、そして富永恭次・人事局長など陸軍省の有力な将校たちを呼んだ。そして、「天子様が…」という言葉を何度も使って、従来の路線を白紙還元し、日米交渉に全力を尽くすのだと、緊張と興奮のあまり、言葉を途中でとぎらせ、あるいは同じ言葉を何度も繰り返しながら伝えた。
<中略>
開戦前夜、東條は寝室に正座して泣いた。隣室の家族が異様に感じるほど泣いた。
<後略>
***

昭和天皇も東條も対米戦争を避けたかったのです。
尤も東條は平和主義者ではなく天皇一筋の軍人ですから、天皇の意思に応えることができなかったので号泣したのでしょう。

対米戦争に反対していた軍人は多くいました。数え上げればキリがありませんが、陸軍では栗林忠道大将です。彼はアメリカに留学していて彼我の国力の差を痛いほど知っていました。対米戦争になれば必ず負ける、それが彼の信念でした。堀江芳孝:闘魂硫黄島―小笠原兵団参謀の回想―、光人社NF文庫、から引用します。堀江参謀と栗林中将(当時は中将)との硫黄島での会話です。

「なんだ、君は鈴木さんの部下だったのか。頭のいい人だね。教育総監部で一緒だったよ」。中将はなつかしそうな顔でつづけた。「永田さん、今村さん、鈴木さん、あのころは君、教育総監部はそろっていたよ。相沢とか何とかという狂人が殺しちゃって、国宝を失っちゃったんだ、盲目の馬鹿めらが愛国だのヘチマだのといって、見さかいのつかないことをやるからこのざまだ」。語気が荒い。<中略>。「分からないものだね、人の運命なんて。かなり前のことだが大尉のころ三年もアメリカにいて、同じ隊の将校に運転を教わり、自動車を買ってあちこちまわったが、軍事と工業の連結は素晴らしいものであった。ボタン一つで全工業が動員され、実業家が陸軍長官や海軍長官になって軍需工業の裏づけをやるからたまらない。日本じゃバタ(歩兵のこと)が幼年学校を出て皇軍の根幹だと抜かして、はばを利かせて戦争指導だなんてやらかしているからどうしようもない」

このように軍部を痛烈に批判しています。栗林大将は対米戦争に反対していたので、先生の分類によると反日日本人に該当するのでしょう。

今上陛下と皇后陛下は平成6年に硫黄島を訪れ、つぎのような歌を詠まれています。

精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇陛下)
慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ(皇后陛下)

反日日本人の栗林大将とその部下のために慰霊の歌を詠まれた両陛下も、先生の定義によると反日日本人になるのでしょうか。

海軍にも戦争に反対する軍人は多くいました。その筆頭は最後の海軍大将井上成美でしょう。海軍の名参謀井上成美、新人物往来社、から引用します。

新名>最後に、太平洋戦争というものに対するお考えをおきかせください。
井上>われわれが歴史を勉強する目的は、過去のことを正確に分析して、そこから現代の役に立つ教訓をくみとることにあるはずです。ところが、かつて明治時代に、日清・日露という二つの大きな戦争をやり抜きましたが、そのあとで歴史家や軍人たちが、二つの戦争とも、戦闘では勝っても戦争では負けていたと見るべきだったのに、勝った勝ったと有頂天になり、「シナ何するものぞ」「ロシアくみしやすし」という空気をうみだしてしまい、それが昭和までもちこされてしまいました。そして、満州事変、シナ事変となり、ついに米英を敵にまわす戦争に突入してしまったわけです。歴史を学ぶということ、真実がどこにあるかということを見極めることが、これほど大事な意味を持っているんだということを、二十年前の八月十五日がまざまざと教えてくれたと思っています。(「人物往来」昭和四十年八月号所載)

先生の分類によると、井上成美は反日日本人どころか国賊や売国奴の範疇に属すのかもしれません。

昭和天皇が蛇蝎のように嫌っていた松岡洋右も対米戦争は避けるべきだと思っていました。Wikipediaから引用します。

松岡は常々からイギリスとの戦争は避け得ないと考えていたが、アメリカとの戦争は望んでいなかった。彼は「英米一体論」を強く批判し、イギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた。1941年(昭和16年)12月8日、日米開戦のニュースを聞いて「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びのしようがない」と無念の思いを周囲に漏らし号泣したという。

先生の分類によると、松岡洋右は対米戦争を望んでいなかったので反日日本人になります。軍国主義の代表人物のレッテルを貼られている松岡が反日日本人であったという事実は面白いですね。笑

先生の定義に該当する反日日本人は枚挙にいとまがないので、反日日本人探しはこの辺で止めておきます。

戦争に負けたけれども、戦後大発展したので良いじゃないか、という言い方は酷すぎると思います。戦争で亡くなった300万人の方々は戦後復興の恩恵を享受できないのですから。
これについても、長くなるのでこれ以上言及しません。

最後に、先生の論の組み立ては乱暴だと思います。なんの参考文献もなく、先生の思い付きをまるで事実であるかのような筆致で書いておられます。私は技術者です。論文や技術報告を書くときに注意していることは、事実と意見を明瞭に書き分けるということです。意見を事実のように書いてはいけません。私はこのことを、木下是雄:理科系の作文技術、中公新書、から学びました。先生も参考にされるとよいと思います。名著です。

追伸

まことに勝手ながら、私がよく利用している技術士掲示板に「武田先生に問う-対米戦争に反対する者は反日日本人か-」と題するスレッドを立てました。お忙しい中たいへん恐縮ですが、議論に参加して下されば幸甚に存じます。
URLはつぎのとおりです。
http://www.play21.jp/bbs/saguchi/index.html

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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
武田氏のウソ (魔法使い)
2013-09-13 04:29:00
武田氏に関する認識はこれが正解です。
環境問題のウソもこの通りです。

先生の論の組み立ては乱暴だと思います。なんの参考文献もなく、先生の思い付きをまるで事実であるかのような筆致で書いておられます。私は技術者です。論文や技術報告を書くときに注意していることは、事実と意見を明瞭に書き分けるということです。意見を事実のように書いてはいけません
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Unknown (魔法使い)
2013-09-13 05:12:22
前言をひるがえすようですが、武田さんのhttp://takedanet.com/files/syusen01tdyno.341-(11:36).mp3

を聞きました。今回の武田発言はそんなにおかしな発言ではないというのが私の印象です。

ちょっと違和感があったのは太平洋戦争も日本が独立の為に戦った戦争だという言い分ですが、
武田さんは「日本は独立のための戦争から列強と同じ地位を獲得するための戦争へ移行していったという意味のことを言っています。
日清日露が独立戦争だったかどうかの認識には疑問も感じますが、大東亜戦争に関してなのか、太平洋戦争に関してなのか、はわかりませんが、多分中国との戦争は侵略戦争だったという認識、というか、全体として、ブロック経済網への戦いだったという認識なのではないかと思います。
誤字を訂正しました。前文は削除してください。
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Unknown (平ねぎ)
2013-09-15 12:11:47
武田先生から返信メールを頂きました。

>ありがとうございます。よく読みました。
軍人で戦争に反対していた人は、(吉田松陰の考え方なら)戦争が始まったときに自決するべきでしょう。「自分は反対したが、軍が方針を決めたからそれに従った」というなら、一貫して戦争に賛成しなければなりません。元々軍人が戦争に賛成するとか、反対するというのは任務ではなく、軍事に対する情報や判断を提供したら、決定者に任せるべきです。
また昭和天皇は「戦争を避けられれば避けたい」というご意向で、最終的には戦争を認めました。人間の大切なことは「自分の意見が本当なら、自分の態度にだすこと」でしょう。
武田

返信する
Unknown (平ねぎ)
2013-09-16 15:36:22
>軍人で戦争に反対していた人は、(吉田松陰の考え方なら)戦争が始まったときに自決するべきでしょう。「自分は反対したが、軍が方針を決めたからそれに従った」というなら、一貫して戦争に賛成しなければなりません。

何故自決しなければならないのでしょう。理解できませんね。
>「自分は反対したが、軍が方針を決めたからそれに従った」というなら…
こんなことはいうまでもないです。みんなそうしたのです。
先生はもう少し勉強されたほうがよいと思います。
堀江芳孝:闘魂硫黄島―小笠原兵団参謀の回想―、光人NF文庫、から引用します。

生還した混成第二武蔵野工兵隊長は次のように語っている。<中略>
栗林兵団長は六月十六日着任以来約一ヵ月間私と一緒に起居をともにしておられた。公務以外のときは同僚と同じように語ったり笑ったり、実に平和な学者肌の将軍であった。あるとき「ぼくは米国に五年ほどいたが平和産業が発達していて、戦争ともなれば一本の電報で数時間を要せず軍需産業に切り換えられる仕組みになっているのだ。こんな大切なことを日本の戦争計画者たちは一つも頭においていない。僕がいくらいっても一向お分かりにならない。この戦争はどんな慾目で見ても勝ち目は絶対にない。しかし、われわれは力のあるかぎり戦わなくてはならない。血の一滴まで戦わなくてはならない」といわれた。
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Unknown (魔法使い)
2013-09-19 06:49:12
自決する必要は無いよねえ。
どうしても反対なら軍人をやめればいい。それをひきょうだと言うなら、それは卒業と同時にさっさとリタイアした全共闘が在学中にだけそう言っていた事と少しも変わりません。
 ただ、軍隊と言うところは一般社会と違って組織の命令には絶対服従で、それが守られなければ軍と言う組織は崩壊しますよね。そういう意味で軍人は組織の命令に従うのは当然だし、軍人は徹底的にそういう教育を受けて育っているので無い物ねだりというか、軍人にそんな事を求めること自体が間違ってます。
では何が間違っていたのか、どこでボタンをかけ間違えたのか?全くの直感ですが、岩倉大久保を中心にした西欧使節団が帰国したあたりから、ボタンの掛け違いが始まったように思います。
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Unknown (平ねぎ)
2013-09-19 08:21:41
>自決する必要は無いよねえ。
私もそう思います。武田先生は意外に短気ですね。
栗林大将は親米派と言われていて、アメリカに多くの友人がいたけれど、一旦戦争になった軍人だから戦うしかないです。
軍人をやめることはできません。やめるといったら軍法会議にかけられて死刑になるでしょう。
栗林大将の最期についてはいろいろな説があります。
ノイローゼ状態になって、降伏しに米軍に行こうとしたところを、海軍の中根参謀らに斬殺されたというものもあります。
ロス五輪で金メダルをとった西竹一男爵は、男前なのでアメリカ社交界の人気者になり、多くの友人がアメリカにいたけれど、硫黄島で戦死しました。
「バロン西、我々はあなたを殺したくない。投降しなさい」という米軍からの呼びかけを無視し、壮烈な最期を遂げたと言われています。
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