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tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

ふぞろいのミカンたち

2013-02-05 22:50:29 | 日記

 

ミカン食べると風邪引かないと子供の頃言われてた。
コタツに入るといつも、上に置いてあるミカンに手を伸ばし、手足が黄色くなるまで食べてた。
ミカンの皮を剥き、実を2つか3つに分割して丸かじり。もちろん、スジもフクロもそのまま・・・。
ポンカン、伊予かん、文旦、夏みかんと柑橘系はみんな好きだ。冬になるとミカンがコタツの上に登場するのが楽しみだった。

普段、あまり買い物などしないのだが、パラグライダーをしに伊豆に通っていて、無人のスタンドやらでミカンが売られていると足を止めてしまう。
さすがに、駅前の土産物屋よりはずっと安いけど、かつての記憶からすると、ちと高いような気がしていた。
地元のスーパーなんかでも、ずいぶん高い。

ミカンが高くなった理由をあげるなら、いくつもの理由を簡単に思いつく。
伊豆では、ミカンの木は民家の庭、畑、公園、山など、どこでも目につく。1本の木には、およそ200~300個のの実。 だが、ミカン畑は往々にして日当たりのよい急斜面。収穫したミカンをカゴに入れ、運ぶ作業はかなりの重労働だ。高齢化した農家では収穫は難しい。
オレンジの輸入解禁に対抗するため、高く売れる品種に変えた農家もあるのだろう。
価格が上がる理由はいくつでも思いつくが、価格が下がる要因は物流のコストダウン以外、何一つ思いつかない。

ミカンは産地や畑、あるいは農家によってかなり味に違いがでる。
子供の頃、食べていたミカンは、小粒ですっぱく、ひとつひとつ甘さが違っていた。だから、外観だけで甘いミカンを見分けるのが、兄弟間の競争のひとつだった。だが、最近のミカンは大粒ぞろいで、糖度はそこそこあるが、個性に欠ける。ぼんやりとした味だ。
もう、あのパンチの効いた昭和のミカンの味には、お目に掛れないのだろうか。


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河津@嵐の湯 湯治の館

2013-02-04 22:09:57 | 露天風呂(できるだけ秘湯)めぐり

 

なんだかわかんないけど、遠い昔からあったよね
住所 静岡県賀茂郡河津町谷津398-4
 022-397-3141
  入浴料 900円、営業時間:10:00~22:00

海まで徒歩5分。桜で有名な花の町、河津桜並木沿いにある「鉱石ミネラル嵐の湯 湯治の館 2号館」。

・・・鉱石ミネラルって何?
科学技術振興機構のさきがけ21(戦略的創造研究推進事業)でも採択されたことのある「ミネラルの構造と生体:川田 薫 理博)によれば、生命の誕生をつかさどるケイ酸っつうことらしい。
千葉のど田舎じゃあ、砂埃を毎日浴びて暮らしてるから、ケイ酸ってとくに健康に良いってことはないと思うが・・・。
温泉の広告曰く、「15種類の薬鉱石で造られた床に50~80℃の温泉をかけ流して蒸気化し、温泉と薬石から出るミネラル成分を体内に取込んで活性化させる」とのこと。

温泉でもなく、サウナでもなく、岩盤浴でもない薬鉱石浴場は、温泉熱源の上に15種類の砂利を敷き詰めた浴場で、そこに入ると瞬く間に汗腺が全開して汗が流れだす。つまり、ウェットサウナ。

・・・確かに、浴場から出てきた後はすかっとさわやか、爽快感でまるでスポーツをした後のよう。
こうした蒸気を利用した蒸風呂って、光明皇后(大宝元(701)年 - 天平宝字4(760)年)が建設を指示した大衆浴場(法華寺の浴堂)にさかのぼる。
当時の入浴は湯に浸かるのではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂。
風呂はもともと室(むろ)がなまったもので、密閉されている空間での蒸気浴を意味する。仏教とともに大陸から伝わってきた習慣だ。広島や山口でも、その遺跡が発見されている。

一方、お湯に浸るようになったのは江戸時代後期。庶民の暮らした貧乏長屋はもちろん、お屋敷に住む町民や下級武士の家にも、たいてい内風呂はなかった。したがって、湯屋。今でいう銭湯。
江戸時代末期になると江戸の町内に湯屋が一軒はあり、結構繁盛していたようだ。当時の湯屋は混浴で、町人や下級武士の娘も、職人たちと一緒の風呂に入っていた。
当時、板で囲まれた浴槽は、灯油皿に火が一つ灯っているだけで薄暗く、チカンが出るのも、もっぱらこの浴槽のなかだった。
「物騒と知って合点の入込み湯」
こんな川柳も残っている。
・・・鉱石ミネラル嵐の湯も歴然とした混浴。ただし、浴衣を着ての入浴(入室?)。湯気でレンズが曇って何が何だかわからない写真を撮っちまったが、ちょうどその写真は江戸の湯屋にイメージが似てた。
さて、河津桜のつぼみも膨らんできた。もうすぐ春だ。


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雪の平泉

2013-02-01 22:25:11 | プチ放浪 山道編

 
 

雪の中尊寺。最も美しい季節のひとつ。
屋根に雪を乗せた本堂では、しんとする冷気の中、朝の勤行の声明が響く。
そして、数ある寺院群は、その凛とした姿が雪により一層引き立って見える。

中尊寺の寺院群の建立は、平泉の初代・藤原清衡が悲願とした大事業だ。
「右一音(いっとん)の覃(およ)ぶ所千界を限らず。抜苦与楽、普(あま)ねく皆平等なり。官軍夷虜(いりょ)の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介(もううりんかい)の屠(と)を受くるもの、過現無量なり。精魂は皆他方の界に去り、朽骨(きゅうこつ)は猶此土(なおしど)の塵(ちり)と為(な)る。鐘声の地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をして浄刹(じょうさつ)に導かしめん」

前九年合戦で、父と一族を、後三年合戦では妻子を殺された清衡は、異父弟を討つ運命にあった。清衡は復讐を捨てて、心の中に寺の鐘の鳴るごとに等しく浄土に導きたいと、亡き戦没者を弔う平和のとりでの構築を強く願ったのだ。

大切に保存するため、だいぶ前から突かなくなった鳴らずの梵鐘。だが、「9.11米同時多発テロ」の時と、3.11の東日本大震災において、故なくして命を落とされた多くの人たちの鎮魂のためにつかれたという。


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