tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい

2007-10-26 20:40:04 | cinema

この映画、ラストがなんともおしゃれだ。こんなストーリーを書いてみたいと思わせる。
警察にあげられたマジシャンのエースが司法取引に応じようとし、情報を漏らされては自分の首が危ないマフィア界の超大物ボス、スパラッザは、エースの心臓(命)に100万ドルの報奨金を出すという。その噂はまたたくまに広がり、世界中のプロの殺し屋たちが、タホ湖のリゾート・ホテルの最上階に身を隠すエースの心臓を狙いはじめる。FBIは無事にエースを守り抜くことができるのか?

ワンフロアーを借り切った最上階のスウィート・ルームに潜むエース。FBIの厳重な警戒網をかいくぐり、次々と専用エレベータを使って上階へと向かっていく殺し屋たち。ボディガードに成り済ました変装のプロや、セクシーな女暗殺者ジョージア&シャリスがいたり、何気にチェーンソーを忍ばせるトレモア三兄弟はアナーキーな破壊の限りを尽す。拳銃の似合う濃いキャラを多数配し、そんなヤツらが右往左往しているのだから、誰が誰と遭遇して何が起こるのか、先がまったく読めない。タランティーノやガイ・リッチーを思わせる脚本に思わず期待を抱いてしまう。
物語上の主役格のFBI捜査官メスナーが最後にやってくれる。謎の暗殺人と言われる変装の達人の存在感なんかも不気味でよい。ハジケっぷりが最高にクールな暗殺者の兄弟。そして、女暗殺者たちもすごくカッコいい。


300

2007-10-25 20:11:19 | cinema

今の世にも残る「スパルタ教育」。紀元前のペロポネソス半島南部に栄えた古代ギリシャのポリス(都市国家)スパルタで採用されていた教育方式だ。すなわち、市民を質実剛健でポリスに献身する武人(戦士)を養成するため、少年は満7才から集団で教育され、20才で戦士の仲間入り、30才まで兵営生活を送り、結婚は30歳になってからという教育がなされた。当時のギリシャでは、アテナイの民主化の進む一方で、まったく対照的なスパルタの国制といえる。
当時のスパルタでは、戦士として役立たない者は赤ん坊の時に始末するという法(生まれると長老たちの検査を受け、不適格だと判断された子供は破棄される)があった。また、成人男子は10日に1度、衆人が見守る監督官の前で裸にならなければならず、その身体が彫られた像のように筋肉が立派であれば表彰されるし、少しでもぜい肉がついていたり弛んでいたりすれば鞭打ちの罰を受けた。肥満は怠惰であり、男として恥ずかしいものだったのだ。
この映画は、20万人とも言われるペルシア軍に、たった300人のスパルタ兵が果敢にも立ち向かったという伝説の「テルモピュライの戦い」をベースに描かれたコミックをもとにしたものだ。たった300人の兵士だったその理由は、神のご神託が「いま戦をしてはならない」というものだったからだ。すぐにも攻めて来るペルシャ兵の大群を迎え撃つにあたって、スパルタの王レオニダスが出した結論は、跡継ぎがいて兵士が戦死してもダメージが小さいであろう男たちを選出。その数が約300。彼らを出兵という形ではなく、あくまでレオニダス王の親衛隊という形で引き連れ、「旅に出る」という名目でペルシャ兵を向かえ討つというものだったのだ。
テルモピュライ(現在名テルモピレス)とは熱き門のことで、湧き出る温泉と、かつてテッサリア人の襲撃に備えてフォキス人が築いた堡塁に由来しており、古来より隣保同盟の集会地だった。オイテ山に連なる天然の関門が三カ所にあり、フォキス人の築いた堡塁は中央の関門の僅か東寄りにあった。テルモピュライは比較的開けた場所であったが、西のポイニクス河畔と東のアルペノイ付近は道幅は車一台がやっと通れるくらいの隘路で、騎馬隊の大軍を防ぐにはもってこいの場所だった。

BC5世紀前半にペルシャ(アケメネス朝)とギリシャの間で勃発したこの戦争。戦いの発端は、BC5世紀初めのイオニア反乱で、その後、BC490年に第1回ペルシャ戦争が、BC480~前479年に第2回ペルシャ戦争がおきた。
第1回ペルシャ戦争以降、ペルシャのクセルクセス王は、父王ダレイオスの遺志をついでギリシャ遠征の計画を進めていた。一方、アテネではテミストクレスに代表される抗戦派の勢力がしだいに強くなり、ラウレイオン銀山からの収益で200隻の軍船を建造し、ペルシャとの戦いに備えていた。BC481年には、アテネ、スパルタ主導で対ペルシャ戦線としてヘラス同盟が結成された。
翌BC480年、ヘラス同盟に参加したギリシャ連合軍は、南下してきたペルシャ軍を陸路においてはテルモピュライの戦で、海路においてはアルテミシオンの戦で食い止めようとした。しかし、ペルシャ軍はいずれも突破して南下、アテネに侵入して町を破壊した。
この映画の中軸をなすテルモピュライの戦いは3日間続き、レオニダス王が率いた300名のスパルタ軍(重装歩兵)が、他のギリシア側の諸軍が撤退する中、最後までクセルクセス王率いるペルシア軍20万に対して交戦しついに全滅する。しかし、この時間稼ぎが、アテネ海軍にペルシア軍を海上で迎撃する態勢を整えさせ、サラミスの海戦での勝利を可能にしたのだ。
サラミスの海戦での勝利により、ペルシア遠征軍の進撃は止まり、戦争は膠着状態に陥いる。ペルシャのクセルクセス王は、この海戦のあと帰国してしまい、その後も長く小競り合いは続いたのたが、両者ともに決定的な戦果を上げることなく、テルモピレーの戦いから約30年が経過したBC448年に、ギリシア側とペルシア側の和睦が成立、ペルシア戦争はようやく終結を迎える。
テルモピュライの戦いとサラミスの海戦は、ギリシア側の防戦一方だったペルシア戦争の大きな転機を与えた。ところが、スパルタとアテネ(アテナイ)は、ペルシア戦争終結後に深刻な対立状態に陥いる。その対立は、BC431年に他のギリシア諸国家を巻き込んだペロポネソス戦争へと発展し、ついにはギリシア全体の衰退をまねいてしまう。ギリシアをペルシアから守った2つのポリスが、ギリシア衰退の引き金にもなってしまうのはなんとも皮肉な結末と言えよう。

さて、「テルモピュライの戦い」で、上陸したペルシャ軍の進軍を止めるため山と海に挟まれた細い山道に陣を構えたギリシャ軍はペルシャ軍と相対する。もともと丘陵地帯の多いギリシアでは重装歩兵による密集戦術が発達していた。テルモピュライのギリシャ軍は堡塁の前面(西側)の著しく狭く断崖絶壁な場所で後退反転戦法を取りつつ長槍で敵を突き、このため多数のペルシアの敵兵が断崖から落ちて転落死した。戦闘2日目の夜。ヒュダルネス率いるのペルシャ軍の一部が裏切り者の地元民のエフィアルテスの案内によってアノパイアの間道を抜け、翌3日目の明け方にそこを守備していたギリシャのフォキス軍を攻撃。フォキス軍は突然の襲撃に山に逃げ込んで討死の覚悟を決めるが、ペルシャ軍はフォキス軍には目もくれずに通過する。
一方、テルモピュライを守備するギリシャ軍は、従軍占者メギスティアスが犠牲の獣の臓腑によって暁と共に死に至ると占いを告げられていた。見張りがペルシア軍の接近を知らせると、ギリシャ軍は二つに分解。占いを聞いてこの地で死ぬ決意をしたレオニダスと彼と共に死ぬ覚悟の部隊のみが残った。スパルタ軍300人の他、テスピアイ軍とテーバイ軍だった。テスピアイ軍は自らレオニダスと運命を共にした。指揮はデモピロス。親ペルシアの立場を取っていたテーバイ軍はレオニダスが人質のように残留させたものである。
クセルクセスはペルシャ軍の一部がギリシャ軍の背後を突いた頃を待って正面から攻撃を開始。ペルシア軍の前後からの猛攻に、テルモピュライのギリシャ軍は堡塁の西側へ更に出て応戦。この時の戦闘でレオニダス他が戦死。ペルシア側はクセルクセルの異母兄弟2人が死んだ。ギリシャ軍は長槍が折れても4度もペルシア軍を潰走させたという。しかし、迂回してきたペルシャ軍が背後に現れるとギリシャ軍は堡塁の内側に退き、後日レオニダスの丘といわれる場所に拠ってギリシャ軍は素手になっても激闘し、スパルタ軍の当番兵のヘロットもろとも玉砕した。

スパルタの戦士は、戦闘中に真っ赤なマントを着用していたようだ。威厳のある色であって、血がつくと一層恐ろしく見えて敵を威嚇する効果があることと、また傷を負っていることを敵に悟られないためであったらしい。そして、敵の死体から武具を取ることは許されていなかった。勇戦して討死した者はオリーヴの若枝の冠をかぶせてもらい、優れた武功を立てた者は遺体に赤いマントをかけられ栄誉に包まれたという。このマント、あのローマ人達の白い絹の服装と同様に、シルクロードを通って中国からはるばる運んできた絹であつらえたように思われるが、確かではない。そして、それを染めた赤い染料は何だったのだろう。当時のローマの生活に想いを馳せると興味はつきない。

テルモピュライの戦場跡に建てられた墓碑
”ここを過ぎ行くものよ、ラケダイモンに行きて伝えよ われらはラケダイモンの掟に従いここに死すと”
-詩人シモニデスによる?ー
ラケダイモンはスパルタの古代名だ。
現在ギリシャがこうしてあるのも、ヨーロッパがこうしてあるのも、スパルタ王レオニダスとその300人の親衛隊がいたからなのだ。


スリーピング・ディクショナリー

2007-10-24 20:15:11 | cinema

植民地統治にはいろいろな形態があるが、この映画での設定は本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治である。事実、20世紀前半にイギリスは他の欧米列強と同じく世界中にその支配力を誇示し、いたるところに植民地を作っていた。こうした植民地支配は、法的にも道義的にも問題ないとするのが当時の常識であったが、現代に至っては、このような植民地支配は領主国による搾取として捉えられるようになってきた。支配国に対し近代化という恩恵を後進地域に齎した善行となる面がある一方で、植民地支配が領地国に与える文化的、心理的ダメージといったマイナス面があることは無視できるものではない。
自国文化を浸透させるため、土地の娘を“現地妻”にする習慣は、人身売買にも似た性を搾取する植民地支配のマイナス部分のひとつだ。だから、この映画の脚本では、”現地妻”をイギリスから派遣された行政官たちのための代々受け継がれている秘密のルールと設定し、これに対して現地妻と寝ることを強制された青年ジョン・トラスコットがこの奇習を拒否することから物語りが展開していく。さらに、あのどこでも英語の会話を押し通す頑固なイギリス人が、現地の言葉を覚えるため生身の女性を“寝る辞書:sleeping dictionary”として雇う一方で、女性側では子供を得るための種馬としてお互いに雇い合うという無理な設定により悲惨な性の搾取をオブラートで包んで見せてはいるものの、その底流にある非人道性を完全に払拭できているわけではない。だから、物語が進むにつれてどうしても主従関係が顕在化してくる。植民地支配下においては、所詮、平等な男女関係の構築なぞ無理な話なのだろう。ここに、この映画の作成者たちの長年にわたり支配してきた側の傲慢さとデリカシーのなさが見え隠れして観ているものの気持ちを沈ませる。
さて、物語が進行するに連れて、2人はしだいに本気で愛し合うようになっていく。しかし、その愛が、強く、激しく、禁断であればあるほど、苛酷な運命が2人を待ち受けるのだが、愛のために文明国の恩恵をすべて投げ打つといった独りよがりな支配者の自己犠牲の感覚は強烈に後味が悪いものでしかない。
この映画を見て思い出したのは「ゴーギャンの現地妻をモデルにした絵」。現地妻は14歳の少女だったかなあ。芸術を追い求める狂気がそうさせるのか。

わが国でも現地妻の悲しい存在がある。現代における芸能人の追っかけは別にして、明治時代の長崎。アメリカ海軍士官ピンカートンは、結婚斡旋人ゴローの仲介で、15歳の蝶々を現地妻とし盛大な結婚式を挙げる。蝶々は、芸者だがもとは没落士族の娘で、この結婚に真剣である。このことを知る長崎駐在のアメリカ領事シャープレスは、ピンカートンの軽薄さに不安を抱く。やがてピンカートンはごたぶんにもれず帰国。蝶々は、音信不通になっても「ある晴れた日にきっと帰ってくる」と信じ、女中のスズキとピンカートンの帰国後に生まれた子どもと共に、ピンカートンの帰りを待ち続けている。3年以上の時が経ち、ピンカートンはアメリカで『本当の』結婚をし、妻ケートを連れて再び日本にやってくる。彼は、スズキとシャープレスから蝶々の一途な愛を知らされ、後悔の念に苛まれ、その場を逃げ去ってしまう。そこに蝶々が現れ、すべてを悟る。蝶々は、子どもをピンカートン夫妻に託す決心をし、自ら短刀で命を絶つ。短刀は父の形見。そこには「名誉をもって生きられぬ者は名誉のうちに死ね」と刻まれていたらしい。なんて、ものがなし


ホリデイ

2007-10-23 20:08:52 | cinema

外国人観光客を受け入れるのが当然の欧州では、大きなターミナル駅の構内にツーリストインフォメーションセンター(TIC)があり、街中のホテルはもちろんのこと、貧乏なバックパッカーのために夏季休暇中の大学の寮なども斡旋してくれる。
学生時代にバックパックでパリを旅行したときには、TICで列を作っていたアメリカの女性パッカー2人連れとともに、学生が帰郷中の大学寮を紹介され3人で向かったことがあった。かつての学生運動の発端となったパリの大学寮には、すでに男子棟、女子棟の区別はなく、部外者の宿泊禁止という規約も有名無実のものに過ぎない状態だった。彼女たちの泊まる部屋で簡単にお茶などご馳走にながら旅の情報交換して、それから僕が泊まる部屋に一人で行くとその部屋の日本人の住人が迷惑そうにしていた。彼が徹夜でキャンバスに向かって絵筆を振り続ける中、気を使いながら僕は寝袋に包まって静かに寝ていたことを思い出す。
とこのように、欧州では休暇中に無人となる大学寮や個人の家を旅行者に貸し出すシステムが存在する。個人の家の場合は、この映画で出てくる「ホーム・エクスチェンジ」というサービスだ。利用者の多くが、年に3回から4回この仕組みを利用して旅行をしているらしい。 同じ時期に滞在を希望する場所・家がマッチした場合、当事者どうしで交換が行われる。車、ボート、ゴルフカートなど家以外の設備の交換もあり得える。この仕組みの最大の利点は、宿泊費を支払う必要がないことだ。また、まるで居住者のように生活することができ、異文化を体験できることも魅力のひとつである。しかしながら、各種条件を満たす旅行者を知人の中から探し出すことは極めて難しいことから、インターネット上の会員マッチングサービスを利用することが一般的となっているようだ。
こうしたシステムが日本に定着するにはこれから何年かかるのだろう。定点に留まり農地を耕して一生を終わる農耕民族と、獲物を追って旅から旅へ移り住む狩猟民族の基本的な考え方の違いは大きいので、日本になじむまではかなり時間がかかるかもしれない。また、映画「スパニッシュアパートメント」に見られるような、見知らぬ男女でも互いに納得すれば部屋をシェアしあうといった合理的な考え方が支配する世の中は、日本ではいつの世になるのだろうか。

だが、旅先で恋に落ちる。これは国籍や性別による違いはないのかもしれない。
一人で旅に出ると、いつもより多めに緊張したり興奮していることもあって、旅先で恋に落ちることが多い。かくいう僕も、かつて旅先で恋に落ちたことがあった。旅先に限らず、恋は「する」ものではなく、「落ちる」もの。いわば、交通事故に会ってしまったようなモノなので、こればっかりはどう扱っていいのか未だにわからないでいるが・・・・・・。
同じ日本人でも、幾日を費やしても分かり合えない人もいれば、生まれた国は違っても、一度話しただけで気持ちが通じ合う人もいる。海外で仲良くなれる人と出会ったときの喜びはひとしおだ。旅先での恋愛においてもしかり。今振り返ってみると、旅先での恋は自分の視野をグッと広げてくれたように思う。

さて、この映画。主な登場人物は、キャメロン・ディアス、ケイト・ウィンスレット、ジュード・ロウ、ジャック・ブラック。豪華な布陣だ。彼らは、これまでのイメージを超えて、さらに魅力的な役柄を演じている。
恋人の一度の浮気も絶対に許せない潔癖なキャメロン・ディアス演じるアマンダ。ハリウッドでの映画制作と厳しい競争に勝ち抜くために闘ってきた。両親の離婚がトラウマになっていて泣くことに必死に耐えていた彼女は、恋人の裏切りに会っても涙も出ない。荷物ごと、家から彼氏を追い出している。でも、クリスマス休暇に一人でいる自分がどうしても納得できずにいる。
ケイト・ウィンスレット演じるアイリスは3年間も片思いの状況。同僚の女性と二股をかけられていたのも気づかない程、彼氏のことを思い続けている。同僚と婚約した後もホーム・エクスチェンジ先の彼女に頻繁にメールで甘い言葉を送ってくるようなずるい男を、優柔不断の彼女は相手を振り切ることができない。
恋愛、そして男性に対して対照的な二人の女性たち。一見、自立しているようだが、つきあっている男性に振り回されてもいる。ホームエクスチェンジした彼女たちは、互いの人間関係の一部まで引き受けることになる。そこから先は大方の予想通り二人とも新しいオトコと出会い、なにやら恋らしきものが始まる・・・・・・ことになる。 最後はいつものハッピーエンド。

-Shakespeare said, "Journeys end in lovers meeting."

-It was Shakespeare who also said,"Love is blind."

結構、凝ったセリフがたくさん出てきて会話が楽しい。老脚本家のアーサーが映画の中で語るこんな言葉もある。
「公開後、一週間でその映画の勝敗がついてしまう」「こんな状態では映画が育たない」。
Now a picture has to make a killing the first weekend or they're dead.
This is supposed to be conducive to great work?
脚本家の本音なのだろうが、ハリウッドの裏側をかいま見ているようで面白い。


奇跡の人

2007-10-22 19:34:13 | cinema

真の教育というのはある種の闘いなのだろう。1962年公開のこのモノクロ映画を観てそう思った。
たしか中学生のときに、リバイバル上映されたものを観たと記憶している。映画の内容をおぼろげに覚えていたし、しかも、健常者が障害がある人を演じているということで、この種の映画に対するよくありがちな印象を覚えていた。しかし、大人になってこの映画を再び観て、中学生当時の感動以上にモノクロの美しくも激しい映像に引きずりこまれ、物語を堪能することができた。年をとった分、ヘレン・ケラーの両親の心の動きやアニー・サリバンの気持ちが痛いほど感じられるようになったからかもしれない。そして、誰でも知っているクライマックスでのあの台詞に最初に観た時の感動が鮮やかによみがえった。

「ヘレンの悪いところは目や耳じゃありません。あなた方の愛と哀れみです」
ヘレン・ケラーは1880年にアメリカ・アラバマ州の北部、タスカンビヤの町近くで生誕した。父アーサー・ケラーはスイス人の血をひく南北戦争当時の大尉、母のケイト・アダムスは父より20歳も若い妻だった。ヘレンは、生後19ヵ月で原因不明の高熱と腹痛に襲われ辛うじて一命だけはとりとめたものの耳と目に障害が残り、3重のハンデキャップを背負う。7歳になっても学校から受け入れてもらえない彼女の元に、自らも目に障害を持つアニー・サリバンが教師として派遣される。食事中、誰の皿からも構わず手掴みで食べ物を取り口に入れるヘレンを見て呆れたサリバンは、家族を食堂から退去させ、悪戦苦闘の末、食器を使いナプキンをたたむことを教える。さらに、サリバンはヘレンにこの世界を認識させるため、物には名前があることを教えようとする。

「〈19世紀は二人の偉人を生んだ。1人はナポレオン一世であり、もう1人はヘレン・ケラーである。ナポレオンは武力で世界を征服しようとして失敗したが、ヘレン・ケラーは障害を背負いながら、心の豊かさと精神の力によって今日の栄誉を勝ち得たのだ〉作家マーク・トウェインは、ヘレン・ケラーをこう賞賛し、彼女を『奇跡の人』と呼んだ」(「偉人館-奇跡の人 ヘレン・ケラー」より)。
マーク・トウェインがヘレンのことを「奇跡の人」と称えたのだが、この映画でいう”奇跡の人”は、ヘレンではなくサリバンのことだ。野獣のごとく振舞うヘレンに、サリバンは傷だらけになりながらも体当たりで躾けを叩き込む。静寂と暗黒に閉められたヘレンの内面に、勇気と知性の光を投げかける。それは幼くして救貧院に収容され、体の弱い弟が死んでいくところを目の当たりにしたサリバンの生き方そのものでもあったのだろう。ハンデキャップを乗り越えて世界の平和運動に貢献したヘレンはもちろん偉大だが、それ以上に彼女に光を与え、導き、生涯を捧げたサリバンもまた偉大だったのだ。この2人が巡り会ったことこそ「奇跡」だ。
ヘレンは著書『わたしの生涯』(1903年)で「言葉の意味」を知った時の思いをこう語っている。
「私はその時、 w-a-t-e-r という綴りが、私の手の上を流れている、この素晴らしい、冷たい物を意味していることを知ったのです。この生き生きとした単語が、私の魂を目覚めさせ、光と希望と喜びを与え、(暗黒の世界から)解き放ったのです」
ヘレンはサリバンのことを聞く。サリバンは”teacher”と答える。師弟が心を開いて通じ合った瞬間だ。
サリバンはヘレンを教育しただけではない。その後ずっと、ヘレンの目の代わりをつとめ、指文字で通訳している。ヘレンが大学で勉強していた時も、講義の内容を指文字で伝えている。ヘレンへの献身は、死ぬまで続いたのだ。まさに奇跡の人。
The world is full of trouble, but as long as we have people undoing trouble, we have a pretty good world." 「世界には苦しみがあふれているが、苦しみを克服した人も同じくらいたくさんいる」。これは後年のヘレンの言葉だ。