tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

小さい秋を見つけに(7)

2008-09-12 23:19:38 | プチ放浪 山道編

 
 

【撮影地】静岡県富士宮市粟倉地先(富士山)((2008.8月撮影)
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5時ごろ、遂に本8合目トモエ館に到着。石柱に「これより浅間大社境内」と書いてある。富士山は8合目より上は浅間大社境内になっている。20時45分に5合目を出発して、ここまで8時間(も)かかったことになる。岩場のひどい渋滞があったし、シーズン登山者数が過去最高だったというほどたくさんの登山客でにぎわった、この夏最後の富士はこんなものかもしれない。リュックからバナナチップスを取り出し(いったい、どのぐらい食料を携行してるんだ?)、彼らに渡す。そして、ご来光の写真を撮るため、ぼくは彼らと別れて山小屋の前のベンチに一人残った。これから、彼らと別れて単独行動のつもりだった。しかし、彼ら曰く、<この調子じゃあ、休み休み登っているから、あっという間に追いつかれますよ>。
ベンチには、フランスの娘やらも含めて数十人の人だかり。夏の暑い日差しを避けて、夜のうちに富士登山する楽しみの一つが、このご来光だ。カメラを構えて40分待った。太陽が出ないまでも、せめて朝焼けをと思ったからだ。だが、そこにいたみんなの期待を裏切って、太陽は雲の切れ間から顔を覗かせることなく、雲を赤く色づかせることもなく、あたりは明るくなってしまった。一度の登山でご来光が見られるほど、そんなに人生は甘くはないか。

ウイダーinゼリーとマックスバリューの携行食で朝食。あたりが明るくなると、目標となる山頂がはっきりと見えてきて、苦しい登坂に対するモチベーションも高まる。だが、現実はきびしい。草木一本生えてない急な斜面をひたすらに登っていくしかないのだ。とりあえず、先に見える山小屋まで登ろう。ぼくは、今度は一人で、登り始めた。
一人になったことで、いつでもドロップアウトできるから気が楽に。というよりも、クライマーズ・ハイがぼくに訪れていたのだろう。以前ほどの苦しさを感じなくなっていた。
この8合目あたりから所々、下山道への分岐がある。どうしても登れなくなった人は、こうした下山道で下山することになる。前を行く登山者をごぼう抜きにして、ノンストップで御来光館に到着。このあと山頂まで山小屋はない。御来光館の前の人だかりを掻き分けて進んでいると、石井君にばったりと出会う。そばを見ると、北尾君と彼女も休んでいた。石井君の彼女が脱落したため、残った北尾君の彼女もヤバげだなと思っていたのだが、なかなか根性のある子のようだ。

再会をみんなで喜び合い、ぼくらはまた一団となって頂上を目指すことに。だが、下山道への分岐に差し掛かるたびに彼女が弱音を吐く。そして、とうとう、9合目の鳥居まであと少しのところで、リタイア。ここで3人が下山することに。ぼくらは<またね>と挨拶を交わして別れた。さて、いよいよ今度こそ、単独で頂上を目指す。
このあたりになってくると、登山道の端にうずくまっている人が徐々に増えてくる。なかには、登山道から外に出て、横になっている人もいる。他の登山者から踏まれないようにとの配慮なのだろうが、登山道をはずれるとそこは落石がしやすい場所が多く、たとえ蹴飛ばしたのが小さな石であったとしても、それが原因で大きな落石が起こらないともかぎらない。だから、高山病で苦しいのは理解するが、登山道以外の場所には、下から登ってくる他の登山者の安全のために立ち入るべきではない。6合目で登山道から外へ踏み出した石井君に注意したら、彼はそのことを理解してくれた。富士山の登山者は、もっと自分の限界と山のマナーを知るべきだ。

登山道は超過密状態。2列になって進んで行く。いつしか、30名ぐらいの団体の中に紛れ込んでしまい、それでも、前の人の踏んだ足跡をできるだけトレースして同じペースで登っていく。どうやらぼくは大丈夫そうだ。
そして、遂に山頂直前の鳥居まで到達。木でできた鳥居の割れ目には、1円玉や10円玉が埋め込まれていた。
9合目の鳥居を過ぎ、目指す頂上はすぐそこに見えている。しかし、ぜんぜん近づいてこない。一歩ずつ、一歩ずつ・・・・・。
そして、ついに狛犬のいる鳥居へ。あと数十歩で終わり。前を行く団体の人たちが感極まって団子になって喜び合っている。先に頂上を極めたガイドやらリーダーたちが仲間を励ましに、あるいは、記念撮影のため降りてくる。最後の混乱・人波を掻き分けて、鳥居をくぐって石段を登り切ると、河口湖口、吉田口、須走口の頂上に当たる久須志(くすし)神社に到着。時刻は7時30分。
富士山をなめてかかっていたせいか、とくに登頂できたという感激はなかった。これはたぶん、山頂は所詮、通過点にすぎないと思っていたことと、単独登頂では感激を分かち合うことができないからかもしれない。というより、大げさに感激するほどの体力が残っていなかったのかも。
山頂から見下ろすと真下に、雲の上を歩いて向こうまで行かれそうな雲海が果てしなく広がっていた。



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