彦四郎の中国生活

中国滞在記

日本での"ゆく夏"を惜しむ—日本のお盆、そして日本の盆踊りの歴史とは‥

2024-08-17 21:18:08 | 滞在記

 8月13日(火)午後3時過ぎに、京都より福井県南越前町河野地区の実家にお盆帰省した。さっそく村の寺である円光寺の裏山にある墓地に行き、花を飾り線香をあげた。(※私が子供のころの1950年代から60年代、どの墓にもお供えのお菓子が置かれていた。それを子供たちが、夜になり取っていく[どの墓のものでもよい]のは、集落の大人たち公認の風習だった。私もそれを取りに行くのが楽しみだった。)

 この日の午後、京都に暮らす息子たち夫婦も南越前町の実家にやってきて、近くの浜に海水浴に。翌日の14日(水)の早朝6時過ぎに寺のお坊さん(檀家を一軒一軒と10分ほどで廻る)が家に来て仏壇で先祖(祖父母、父母など)の霊をしのぶ読経をしてくれた。(息子たちはこの日の午前中に飛騨高山に向かった。)そして、この14日の午後、これも京都に暮らす娘たち夫婦と3人の孫たちもやってきた。2日間で35個ほどのサザエもみんなで食べ合った。

 先祖である祖父母や父母も、1年ぶりにお盆の家に戻り、私の孫たちもにぎやかにしている光景を見て、喜んでいることかと思う‥。

 15日(木)の午前中、娘たち夫婦と孫たちは、実家から車で20分ほどのところにある日本海の杉津浜での海水浴に行くことになったので、場所案内でいっしょに行くこととなった。15日の昼食をみんなで実家でとり、午後3時頃に、私たち夫婦も娘たちや孫たちも京都に戻るため、実家を出発した。一人暮らしの義母(93歳)は、みんなが帰ってさみしくもなるので、私は中国に戻る8月30日までに、もう一度実家に帰省することにしている。

■この杉津(すいづ)浜のはしに、小さな岬のような風光明媚な小山が見える。そして、海の向こう側には敦賀半島が見える。美しい敦賀湾の日本海の景色だが、ここは戦国時代末期の1575年(天正3年)の8月~9月に戦場となった。織田信長軍約10万による越前一向一揆勢への侵攻だ。信長軍の本隊は敦賀から、一揆勢が立て籠もる木ノ芽峠城塞群を攻めたてた。そして、信長配下の羽柴秀吉軍や明智光秀軍らは陸路でこの杉津に向かう。別動隊は数百艘の軍船団を組み敦賀半島を廻りこの杉津浜に押し寄せた。小さな岬のような小山にあった、一揆軍が立て籠る杉津城塞はほどなく陥落する。

 南越前町河野地区のコンビニ(ファミリーマート)から見える海岸背後の山にあった河野城塞にも織田軍が侵攻し陥落した。これにより、河野地区から越前府中(現・越前武生市)に至る馬借街道と、杉津から越前府中に至る道を侵攻した織田軍は越前府中に至り、南越前町の木ノ芽城塞群や、今庄地区、南条地区に布陣していた一揆軍を背後からも攻撃、一揆軍は壊滅した。この信長軍の越前侵攻により、一揆勢の約4万人が戦死。3万~4万余りの人たちが奴隷として美濃や尾張に送られたと記録には記されている。

 450年ほど昔の話だが、今は風光明媚な杉津浜にも、このような戦場の歴史があった。8月15日のこの日、杉津集落でも夜の盆踊りの準備が行われていた。16日夜には、この杉津浜からもよく見える敦賀の花火大会、そして海への精霊流し(※先祖をあの世に再び見送る。)が行われる。

■私の実家のある南越前町河野地区の糠(ぬか)集落でも、15日の夜に、村の寺の円光寺の小さな境内で盆踊りが行われる。私が子供の時代は、この盆踊りに合わせてテキ屋の露店が数軒出て、盆踊りに楽しみを添えていた。日本全国どこでも見られる光景だった。

 この日本の盆踊り行事の歴史—平安時代の僧侶である空也(くうや)上人(※京都[平安京]で六波羅蜜寺の開祖となる。日本全国を行脚し、南無阿弥陀仏[阿弥陀仏に私のすべてをゆだねます、敬い祈りますの意味]の念仏を広めた。そして、この空也上人を深く敬っていた鎌倉時代中期の僧侶である一遍(いっぺん)上人(「時宗(じしゅう)」という浄土宗の一派の開祖とする。名号[念仏]の南無阿弥陀仏を拠りどころとし、この念仏を唱える踊り念仏を全国に広めた。)

 1299年頃に書かれたとされる「一遍上人絵巻」には、日本全国を行脚しながら各地で踊念仏を披露する時衆(じしゅう)の僧侶たちが描かれている。(※「時衆」は江戸時代になり「時宗」と言われるようになる。)

 室町時代に入り、この時宗の踊り念仏をルーツとして、全国各地で「先祖の霊を再びあの世に楽しく見送る」ための盆踊りへと変容し始めた。それぞれの地域で、衣装や踊りへの工夫、発展がされ。特に江戸時代になると、稲の豊作への祈りや、男女の出会いの要素も加わり盆踊りは、庶民の楽しみとして大きく広がり、全国各地でそれぞれ特色のある「盆踊り」へと発展していった。

 現在、「日本三大盆踊り」として有名なものは、①岐阜県郡上八幡町の「郡上踊り」、②徳島県徳島市の「阿波踊り」がある。

 そして、盆踊りの本来の意味合い(目的)である「先祖供養・先祖を楽しませる・先祖を見送る」という要素が最も強く残しているのが➂秋田県羽後町の「西馬音内(にしもない)踊り」。黒い「彦三頭巾(ひこさずきん)」を被り踊る人たちは亡者の姿を表している。盆に戻ってきた霊(亡者)と一緒に踊り楽しむという盆踊りの目的を表現し、幻想的な雰囲気の中で盆踊りが行われている。

 8月16日、京都では「五山の送り火(大文字焼き)」が執り行われた。東山36峰の一つである如意ケ嶽近く大文字山の「大」に午後8時に一斉に点火され、北山連峰の「妙法」「舟型」「左大文字」、そして西山連峰の「⛩(鳥居)」へと、西方浄土に向けて送り火が次々に点火されていき、亡者の霊を西方浄土へと見送っていく。もし、とても身近な人がこの京都の地で亡くなっていたら、その人のことを思いながら、この「五山の送り火」を見送ることになるのだろう…。

 私は学生時代の3回生・4回生時代に、この如意ケ嶽や大文字山の大の字の麓にある銀閣寺隣の下宿に暮らしていた。下宿の大家さんの阿尾さんは、当時、「大文字保存会」の会長をしていたので、送り火の時に使用する大量の薪(まき)運びを、地区の人たちとともに手伝いをすることを頼まれたので、大の字のところまで山道を登って運んだこともあった。大文字の送り火当日には、友人たちとともに一升瓶の清酒をもって大の字まで山を登り、午後8時に点火され燃えていくさまを眺めながら酒を酌み交わしていた。赤々と炎が燃え上がるので、付近は熱くもあったが、壮大な光景で、眼下の京都市内の街の灯りが美しかった。

(※当時は、一般の人たちも、当日の夜に山に登り送り火を見ることができた。浴衣姿で来ている女性もけっこう多かった。現在は、一般人の当日立ち入りはできないようだ。まあ、酒が入った状態で、山を下りるのはちょっと危険ではある。)

  日本のお盆のような風習・行事は中国では4月上旬の「清明節(せいめいせつ)」。中国の四大伝統的祝日の一つである。(他に、6月の「端午節」、9月の「中秋節」、そして1月~2月の「春節」がある。)  中国の「清明節」は日本のお盆のような感じというよりも、日本の「春のお彼岸」や「秋のお彼岸」に似ている感じだ。

   秦の時代から始まったとされる「清明節」では、家族が集まって墓に参り、花を飾り線香をあげる。そして、あの世で暮らす先祖が生活に苦労しないように、お金を墓の前で燃やす。(※お金は本物ではない、模造紙幣。)  この清明節に食べられるのは「草餅(くさもち)」。(※「端午節」では「粽(ちまき)」、「中秋節」では「月餅(げっぺい)」、「春節」では「餃子(ぎょうざ)」が、それぞれ食べられる。)

 日本では、春分の日に「春のお彼岸」、秋分の日に「秋のお彼岸」が行われる。この年に二日間の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈む日となる。真西に亡者が暮らす「西方浄土」があるので、この二日間が「お彼岸」となる。「彼岸(ひがん)」とは「西方浄土」の地のことだ。つまり、春分・秋分の日は、あの世とこの世が最も近くなる日と考えられるようになった。

 8月13日付朝日新聞には、「パリ五輪閉幕—有観客・市民参加、祝祭感再び—息づく敬愛、見えた救い」「世界の今 映した祭典―街で選手と触れ合い28万人」「共生の夢つなぐ」「次にロス—任務完了、トム・クルーズら引き継ぎ式に登場」などの見出し記事が掲載された。

 2020年1月から始まった新型コロナウイルス感染の世界パンデミック。それによりこの年開催予定の東京五輪は1年延期された。21年の東京五輪は開催を巡って日本社会の世論が割れた。おそらくこの70年間余りで、これほど国民世論が割れて国民分断が起きたのは日本社会では初めてだったように思う。2022年の北京冬期五輪でのロシアのドーピング問題、そして閉会直後から始まったロシア(プーチン大統領)によるウクライナ侵略戦争は今も続く。さらに今年に入ってのハマスによるイスラエル襲撃と200人余りの人質収奪、それに対するイスラエルのハマスが支配するガザ地区への攻撃戦争も今も続く。

 2020年1月からパリ五輪が開始された2024年7月までの約4年と7カ月間は、世界は分断と対立や緊張が深まるばかりの出来事が多すぎた。そして、パリ五輪は、そんな世界に一筋の光明や希望というものを見せてもくれた。そんなパリ五輪開会中の17日間だった。

 同じく13日付朝日新聞には、「イラン報復 数日内か」の見出し記事。ハマスの最高指導者がイランで暗殺され、それに対するイランのイスラエルへの報復攻撃が近々に起きると予測されている。

 パリ五輪で女子団体卓球で中国と決勝を闘い、銀メダルとなった日本のエース早田ひな選手(個人では銅メダル)。五輪が閉幕してからの13日の帰国インタビューで、「帰国後に何がしたいか?」と質問を受けた時に、早田選手は「アンパンマンミュージアムに行きたいのと、鹿児島の知覧にある特攻平和会館に行って、自分が生きているのと卓球ができているのが当たり前じゃないことを感じたい」と答えた。(※政治的な意図はまったくないようだ。)

 世界では戦争や紛争地域があるものの、日本では戦争のない平和な時代にアスリートとして活動ができている意義を再確認したいという"深い発言"だったが、中国での受け取り方は違っていた。バリ五輪でお互いの健闘をたたえ合った中国女子卓球代表の孫穎莎選手や中国男子卓球代表の樊振東選手が、この早田選手の発言後、早田選手の微博(ウイチャット)からのフォローを外すなど、日中間の歴史認識の違いによる問題が起きてきている。

 8月8日から13日までの6日間余りの間に、日本列島南近海の太平洋上で台風5号、6号、7号、8号の四つもの台風が次々と発生した。そして、今日の17日には大型台風7号が関東地方に最接近している。今年の過去最高の夏の高温(35℃以上が連日続く)で、8月に入り日本近海の太平洋で台風が大発生している今年の猛暑日の夏。

 その夏も徐々にだが過ぎていくのだろう。ゆく夏を惜しむ‥。8月30日に中国に戻る日まであと、10日間あまりとなった。暑すぎる日本でもあったが、惜しむ日本での夏‥。