彦四郎の中国生活

中国滞在記

飛騨の小京都と呼ばれる「飛騨高山」という町は、全国にたくさんあるどこの「小京都」よりも素晴らしい町並みだった—飛騨松倉城址もまた、一見の価値ある素晴らしい山城

2024-08-07 11:42:47 | 滞在記

 7月24日(水)、信州(長野県)と飛騨(岐阜県)の国境にある野麦峠を越えて、飛騨高山の手前にある美女峠にさしかかり、乗鞍岳や野麦峠のある北アルプス(飛騨山脈)方面を遠望した。美女峠近くのトンネルを越え、飛騨高山の町並みが近づき始めてきた。(※旧道の美女峠の標高は900m。峠の名前の由来は、「昔、この峠には八百歳を超えてもなお美しく若々しい比丘尼[びくに]が住んでいたと伝わることから」とされている。峠付近には「美女ケ池」がある。製糸工女として初めて信州に行く12・3歳の娘を心配して、この峠まで見送りにきた親たちもいたようだ。)

 この日の午後4時頃に、飛騨高山市の市街地に入ったが、今晩泊まる「カントリーホテル高山」(JR飛騨高山駅前のビジネスホテル)に車で向かう途中の道すがら、多くの外国からの観光客が街中を歩いている光景が目に入ってきた。午後4時過ぎにホテルにチェックインした。(1泊素泊まり、喫煙可の部屋6900円) このホテルもまた、外国人宿泊客がとても多い。(9割が外国人の印象)

 私は2008年に初めてこの飛騨高山をバイクで訪れたのだが、その時の目的地は飛騨高山市街からほど近い郊外にある山城(古城)「松倉城址」に行くのが目的だったので、市街地の宮川に架かる高山のシンボルのような朱色の「中橋」と近くの高山陣屋を見ただけで、宿泊もせず、すぐに松倉城址に向かったのだった。だから、飛騨高山市内というものはほとんど見ていなかったことになる。そして、今回はゆっくりと「飛騨の小京都」と呼ばれるこの町を散策することになった。

■飛騨高山は、奈良時代に国分寺が建立されるなど、飛騨地方の中心的な地域ではあったようだ。現在のような町並みがつくられ発展したのは1580年代後半に、戦国武将である金森長近がこの地を治めるようになってからとされる。長近が築いた飛騨高山城の城下町として、一之町、二之町、三之町など区割りをもった商人・町人町がつくられた。それが現在も、伝統的な町並群として広く残っている。

また、「高山祭(※4月14・15日、日枝神社例祭"春の山王祭"と10月9・10日、櫻山八幡宮例祭"秋の八幡祭")」として、絢爛豪華な各町内の山車(だし)が繰り出される。この日本三大美祭の「高山祭」は、ユネスコの無形文化遺産に登録されてもいる。

 夕方の5時頃から、ホテルでもらった市街観光地図を手にして、ぶらぶらと町を散策し始めた。見事なまでの伝統的な建物群が現れてきた。散策している外国人観光客も多い。

 一軒一軒の家々がとても美しく、伝統的な家屋なのだが、現代的なセンスをもった伝統建築の商店などの家々が並ぶ。土蔵つくりの白壁の喫茶店を覗くと、7~8人の欧米系外国人たちが、珈琲を点(た)てている店主にいろいろな質問をしていた。「産科婦人科 岩佐醫院」と筆書きされた白い看板。造り酒屋の店先で試飲している外国人たちの光景。町内各所には「山車(だし)」を仕舞っている白壁造りの蔵。

 「呉服 小島屋」の看板は大黒さんの飾りが。宮川に架かる中橋からは、かって飛騨高山城があった城山がよく見える。この町の人らしい60歳くらいの男の人に、「あの山が高山城があった城山ですか」と聞いてみた。「そうです、城山です‥」との返答。その城山について、ちょっと話し込むと、町の人は、「今は公園になっているだけでねえ…。城の立派な石垣や建物がかってはあったようなんですが‥」と、昔に城が完璧に破却されたことをとても残念がっていた。

 江戸幕府直轄地の天領となっていた飛騨地方を支配下においた「高山陣屋」、旧高山町役場の建物などなど、この町の伝統的な建物群はどこまでも続く感がある。

 一つや二つの通りではなく、碁盤の目のような町並みの広い地区に伝統的な、かつ、現代的センスをもった家並みが続く町が飛騨高山だった。(※全国各地に、例えば金沢市のような、伝統建築群の町並みはあるが、一筋か二筋くらいの通りがほとんどだ。しかし、この飛騨高山は、もっと広範囲に、たくさんの筋に伝統的な建築群の通りがあったことに驚いた。そして、その幾筋もの通りの店、一軒一軒がちょっと入りたくなるような店ばかりだった。)

 夕方7時頃になり、少し夕暮れが近くなってきた。どこかで夕食を食べる店をと町中を歩くと、「中華そば」と書かれた一軒の中華料理店。店の中を外から覗くと、店内は全員(20~30人ほど)が外国人の客で満席状態だった。

 ホテルフロントで教えてもらった高山の飲み屋街(※スナックや居酒屋など)に行ってみた。「一番街」という飲み屋街の名前の通りに、店のネオンが灯り始めていた。この通りには「半弓」と書かれた射弓場もあった。宿泊しているホテルに向かう。ホテルの近くのコンビニで夕食の弁当やビールを買う。ここのコンビニも、十数人の客のほとんど外国人だった。

 司馬遼太郎の『街道をゆく』の第29巻には「飛騨紀行」が掲載されている。そのなかの「山頂の本丸」の章には、飛騨高山市郊外の松倉山にある「松倉城址」のことが書かれている。その一節には、「ようやく本丸である山頂にのぼりつめると、石塁がみごとにのこっていた。本丸上に立つと、ながめは眼下の高山の町よりも、天空のほうがすばらしかった。東の空を画(かく)して日本アルプスの嶺々(みねみね)が夢のように白くかがやいていた。乗鞍が見え、焼岳がみえた。それに穂高連峰が大きくそびえ、さらには槍ヶ岳が神格を感じさせる姿でしずまっていた。」

 飛騨高山市街の南西にある高倉山(標高856m)の頂上にこの「飛騨松倉城」がある。私はこれまでに日本国内の城跡(平城・平山城・山城)1500余りの城址に行っているが、この「飛騨松倉城址」はまた素晴らしい城址の一つだった。(※おそらく私にとっての城址ベスト50の一つに入る。) 

 飛騨高山市街地からほど近いところに「飛騨の里」という名前の飛騨民族村がある。(※合掌造り檜茅葺屋根の民家など、飛騨の代表的な建物30数棟が立ち並び、敷地内には田んぼや池などもある。) この「飛騨の里」を経由して、さらに車で山道を登ると、城址登山口がある。車を停めて、15分ほど歩くと城址に着ける。この城址、石垣が残っている本丸が城跡としては、日本で最も標高が高い山城跡である。

■「飛騨松倉城」―1558年~1573年(天正4年)の戦国時代末期、この飛騨を当時支配していた姉小路頼綱(三木自綱)によって築城されたが、豊臣秀吉の命を受けた家臣の金森長近(当時、越前大野城主)と息子の金森可重によって、1585年に落城した。(そして、1588年に廃城となる。)

■金森長近はその後、秀吉から飛騨一国の支配を任されることとなり、家臣団ともども越前大野からこの高山の地に移り、今は城山となっている地に「飛騨高山城」を築き、城下町を作ることとなった。それが今の飛騨高山市の礎(いしずえ)となっている。(※越前大野城の城下町大野市もまた、その天守閣もある城址とともに伝統的な町並みがある城下町だ。そして、朝市もたつ。飛騨高山もまた、毎日午前7時頃から、「宮川朝市」「陣屋前朝市」の二カ所で朝市が続けられている。)

 飛騨に入国した長近は、天正16年(1588年)より高山城の築城を始め、以後およそ16年をかけて城を完成させた。記録には、「日本国中に5つとない見事な城」と残されている。以後100年間余り、飛騨(3万8000石)を治めた金森氏だったが、元禄5年(1692年)に徳川幕府五代将軍綱吉によって、金森氏は東北の出羽国への転封(国替え)を命じられた。そして、飛騨国は幕府直轄支配地(天領)となった。幕府の財政難のおり、「木材、金山や亜鉛・鉛などの鉱物資源の豊かな土地」としての飛騨国は天領とされた。

 これにともない、飛騨高山城は石垣も残らず完璧なまでに破壊され(破城)された。そして、天領支配のための「高山陣屋」が作られる。

 金森長近生誕500年記念「どうした長近—三人(信長・秀吉・家康)の天下人に仕えた飛騨の名将」と題された特別展が、飛騨高山まちの博物館で開催されていた。(期間:7月13日~10月13日)