彦四郎の中国生活

中国滞在記

「あゝ野麦峠」―女工たちが辿(たど)った道を訪ねる❷—野麦峠の「お助け小屋」、そして映画「あゝ野麦峠」

2024-08-04 10:51:00 | 滞在記

 野麦峠(標高1672m)の「お助け小屋」の周りには高山性植物らしい花も咲いていた。建物は改築されて二・三十年くらいは経つのだろうか畳座敷のある家の梁(はり)などは、改築前からの建物のものを使っているようで、相当の年月を経ているもののようだった。この「お助け小屋」は、食堂もやっていて宿泊も可能なようだが、今は宿泊は停止していると書かれた張り紙があった。

 ちょうど昼時だったので、蕎麦(そば)を頼んだ。食堂内の古いテレビには、映画「あゝ野麦峠」の予告編が放映されていた。建物内部のいたるところには、この野麦峠や映画「あゝ野麦峠」関連の写真やポスターなどが掲示されている。

■標高1672mの野麦峠は、かって街道の中で最大の難所として知られていました。道は険しく荷物の運搬に馬が使い難かったため、傾斜に強い牛がもっぱら用いられていました。冬は雪が深く天候も荒れることがあるため、およそ13km程の峠越えをするのに丸一日を費やすこともありました。多くの旅人が命を落としていたことから、江戸時代には地元民が幕府に願い出たことにより、峠に「お助け小屋」と呼ばれる救護や休息のための小屋が(天保12年/1841年)建てられました。

 明治の初めから大正・昭和初期にかけて、殖産興業の国策のもとで、当時の主力輸出産業であった生糸工業で大きく発展していた諏訪地方・岡谷へ、現金収入の乏しい飛騨の村々から大勢の女性たち(多くは12歳からの10代の少女)が、工女として出稼ぎのために野麦峠を越えることになりました。(※説明掲示より)

■「野麦峠」という峠の名称の由来には諸説ありますが、峠に群生する隈笹(クマザサ)が、10年に1度くらい、麦の穂に似た実を付けることがあり、地元の人に「野麦」と呼ばれていたことから野麦峠と名前が定着した説が有力です。凶作の時にはこのクマザサの実を採って団子にし、飢えをしのいだと言われています。(※説明掲示より)

 映画「あゝ野麦峠」の主人公のモデルとなった「政井みね」さんの写真が掲示されていた。お触書のような形の木製の板に書かれた文章は、「飛騨を一目見たかった みねの死」と題された文が記されていた。それによると、みねさんは明治42年(1909年)11月20日に、この野麦峠で亡くなっている(享年20歳)。

 映画「あゝ野麦峠」は1979年に東宝映画kkより全国上映された。(制作は新日本映画社)   監督は山本薩夫。1968年に出版された『あゝ野麦峠—ある製糸女工哀史』(山本茂美著)の原作をもとにして脚本が作られ映画化されたものだ。この年の邦画配給収入第2位となった。社会派映画としては突出したヒット映画となる。(※出演は、大竹しのぶ、原田美枝子、友賀千賀子、古手川祐子、地井武男、北林谷栄、小松方正、山本亘、三国連太郎、西村晃など)ここ「お助け小屋」のおばあさん役は北林さんだった。

 この「あゝ野麦峠」は1982年に再び、違う俳優・女優、監督によって映画化されたり、その後にテレビドラマ化されたりもしている。(テレビの平均視聴率は34.3%にもなった。)  このような国民の関心の高さもあって、この野麦峠に「野麦の館」という資料館が作られて、映画やドラマ、そしてこの峠のこと、製糸工業と女工たちのことを詳しく展示した。(※2022年3月に閉館した。建物は今も残っていた。この資料館の展示物の一部は今、「お助け小屋」に移されて展示されていた。)

 囲炉裏のある畳みの大きな部屋には、「あゝ野麦峠」と書かれた山本茂美筆の額や、「しのぶ 乙女の 野麦峠」と書かれた書画なども‥。

 小屋の入り口付近の小部屋には、おそらくは「野麦の館」から移されたらしき映画のポスターや写真が一部置かれている。

 地井武男さん演じる兄、大竹しのぶさん演じる妹・みね、そして小屋のおばあさんを演じる北林さんの映画場面の写真パネルや小屋の絵画などの掲示。

 「吹雪の野麦峠をゆく」と題された絵画やマネキンの少女3体。

 午後1時すぎに野麦峠をあとにして、峠道を飛騨方面に下り始めた。クマザサがいたるところに生繁っていた。峠道をかなり下って見上げると野麦峠付近が遠望できた。道の眼下に見える渓谷は深い。「ここは野麦」と書かれた道路標識が見えてきた。岐阜(飛騨)側の最初の集落である野麦集落だ。

 工女たちもこの集落に着いて、飛騨に帰ってきたことが実感できたのではないだろうか。集落の神社の夏草の花が美しく咲いていた。元小学校分校だったらしい木造校舎の建物もあった。この集落を越えるとまた峠があった。「寺坂峠」という名の峠。(私の姓と同じ名の峠)

 峠を越えると製材所なども見えた。そしてまた次の集落が見えてきた。道をさらに下るとちよっと大きな川があり水色のアーチ橋。飛騨川のようだ。天候が急変し始め大雨が降ってきたので、しばらく車の中で仮眠をとった。雨が上がり、外に出ると、少し大きくなっているアケビ。そして、飛騨高山方面に向かうと、寺澤という集落。ここまでくると飛騨に来たと、工女たちはさらに実感したことだろう。

(※懐には1年分の給金を貯めて、生活費などをさし引かれて残った分がある。それを渡す時の、祖父母や兄弟妹たちの喜ぶようすを楽しみに、この1年間、辛い仕事を頑張り続けたのだ。そして、2~3日間だけ正月の家にいて、また、雪の野麦峠を越えて工場に戻る。)

 午後4時頃に飛騨高山市街までもうひと峠である「美女峠」付近に着いた。ここから飛騨の農村の風景と、野麦峠付近の山々を一望した。兄とともに故郷に戻る途中の政井みねさんは、ここまでは戻れなかった。