彦四郎の中国生活

中国滞在記

福井との県境「冠山峠トンネル」から岐阜を経て、長野へ行き友人と会う―映画「ふるさと」とダム湖に沈んだ徳山村のこと

2024-08-01 16:12:39 | 滞在記

 7月23日(火)から25日(木)、二泊三日で長野県南部・伊那谷の宮田村に住む友人に会って一杯飲むために、実に5年ぶりくらいに宿泊をともなう旅行に出ることになった。23日(火)、少し明るくなり始めた午前4時半頃に、福井県南越前町河野地区の実家を車で出発した。午前5時頃、越前武生市に着くと、越前富士とも呼ばれる日野山あたりに朝日が昇り始めていた。(※NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部が越前で暮らしたときに毎日眺めていた日野山。) 越前武生市から峠を越えて福井県池田町に午前6時頃に着く。この町は高地にある町のためか、アジサイがこの時期でもまだ美しかった。

 この池田町には足羽川の源流域に架かる「かずら橋」があり、朝靄(あさもや)に包まれていた。

 かずら橋近くにある「能面美術館」。「能」は室町時代初期に生まれ、室町時代中期から後期にかけて完成された。能に使用する仮面である「能面」を創作した室町時代から江戸時代にかけての作者たちの多くは、ここ越前池田にルーツをもつ人々であった。この8月11日には、池田町の由緒ある神社では、日本で有名な能舞者たちを多く迎えての「葉月薪能」が興行されるようだ。

 私が今回、長野県を通る中央高速道路沿いにある伊那谷の長野県宮田村在住の友人に会うために、京都の自宅からではなく、福井県南越前町の実家に泊まって、そこから出発をしたのには訳(わけ)がある。「ぎふ—ふくい 近くて便利になりました」のポスターが最近できているが、岐阜県南部と福井県中北部を結ぶ「冠山(かんむりやま)峠トンネル」(全長4.8km)が、昨年2023年の11月についに開通していたからだ。1982年に、福井県越前武生市や池田町と、岐阜県徳山村や揖斐川町・岐阜市などを結ぶ国道417号線が完成はしたものの、岐阜県と福井県の県境"冠山峠"区間は41年間未開通で、分断国道として長く知られていた。

 この「冠山峠トンネル」が開通するまで、岐阜県—福井県を結ぶルートは、次の5つのルートがあるだけだった。まず、安全なルートとしては、「➀高速道路などを使うルートで、福井県の中部にある敦賀―米原間の北陸高速道路と米原—岐阜間の名神高速道路などを利用するルート。(※けっこう時間もお金もかかる。)、②福井県北部にある福井市や大野市から国道158号線を利用して、岐阜県中部の飛騨地方にある白鳥町に至るコース」。この二つだけが安全に車で走れるコースだったが、なにせ、福井県北中部から岐阜県南部の岐阜市辺りまで行くのにはとても遠い。

 次に危険なルートとして次のコースがあった。「➂岐阜県本巣市の根尾町から国道157号線を通って温見峠(標高1020m)を越えて福井県大野市に至るコース。この国道157号線は日本の"三大酷道(こくどう)"の一つとして有名で、私も一昨年の2022年の8月に初めて車で通ったが、評判通りの恐ろしい国道だった。(※この道は、かって明智光秀一族が明智城の落城にともない美濃から越前に逃れる際に通ったり、幕末時代に水戸天狗党が越前に向かった道でもある。)」

  そして、「④福井県南越前町今庄地区から高倉峠(標高956m)を越える高倉峠林道(※全長28kmでガードレールなし)で、岐阜県(旧)徳山村の徳山ダムに至るルート」。「⑤福井県越前武生市や池田町から冠山峠(標高1041m)を越える冠山林道(※全長19.4km)で、徳山ダムに至るルート」。④も⑤も、舗装はされているが急こう配の1~1.5車線のカーブ道が続く林道。(※私はいつか車で行ってみたいと思っていたが、ちょっと怖くてなかなか行けていなかった。)

■上記写真、左から①②③枚目は、2014年1月に福井県越前武生市から福井県。岐阜県の県境の1000m~1600mの山々を撮影したもの。④枚目は2022年2月に福井県南越前町今庄地区の木ノ芽峠から石川県・岐阜県にまたがる白山(2702m)を撮影したもの。

 石川県や福井県と岐阜県の県境には、「両白山地(りょうはくさんち)」という名前の1000m~2700mの山々が連なっている。「両白」とは、この山地の「白山」と「能郷(のうごう)白山(標高1617m)」の二つの名前に由来する。福井県と岐阜県の県境の山々は、「越美(えつみ)山系」(越前と美濃)とも呼ばれ、1000m~1600mの山々が連なる。

 「越美山系」の山々の一つが「冠山(標高1256m)」で、その特異な山容から、越美のマッターホルンとも呼ばれる。越美山系の最高峰は能郷白山。

 福井県側から冠山峠トンネルを通過すると、眼前にダム湖が次々と見え始めてきた。日本最大の貯水量をもつ徳山ダム湖だ。この日本一のダム湖の貯水量は静岡県の浜名湖の総貯水容積の2倍にも相当する。ロックフィル型式のダム堤体積の規模も日本最大。

 伊勢湾に流れ込む木曾三川の一つ揖斐川(他に木曽川と長良川)の源流域での巨大ダム建設が始まったのは1957年。ダム建設に反対する多くの住民や自治体などの官民をあげての反対運動が長く続けられたが、50年余りもの歳月をかけて2008年にダムは最終完成し、岐阜県徳山村(8つの集落、522世帯)のほとんどは水没しダム湖となった。

 徳山村に暮らす人たちは、能郷白山や冠山などの越美山系の山々もよく見えたことだろう。私の故郷の福井県南越前町の今庄地区とは県境の山々の向こうに暮らす人々の村がこの徳山村だったことになる。

 巨大ダム建設が進む1983年に、この徳山村を舞台にした映画『ふるさと』が完成し全国上映された。映画の原作は『じいと山のゴボたち』(童心社刊)。映画の監督・脚本の神山征二郎は岐阜県の出身。主演の認知症が出始めた老人・伝三役は名優の加藤嘉。彼の息子とその嫁の役は、長門裕之・樫山文枝。他に、前田吟、樹木希林、花沢徳衛など。また、伝三の若い時(回想シーン)の役と妻役は、篠田三郎・岡田奈々。ナレーターは市原悦子。主題歌「ふるさと」の作詞・作曲は小椋佳。私もこの映画を見たが、村を去らざるをえなくなった人々、そして、主演の加藤嘉の演技が、今でも心に残る作品だった。映画のポスターには、「僕の村が日本地図からなくなる」と書かれてもいた。

 この映画は、当時の世界四大映画祭の一つ(他には、カンヌ、ベルリン、ヴェネツィア)だった「モスクワ映画祭」で、最優秀男優賞を受賞した。そして、次のようなエピソードも残っている。(※主演の加藤嘉の演技があまりにも自然だったため、モスクワ映画祭の審査員たちは、俳優が演技をしているのではなく、本当に認知症の老人を使って撮影したと思っていたという。)

■現在、旧徳山村の8つの集落のうち1つの集落だけは、山の中腹の谷川沿いの高地にあったため水没せずに廃村となって残っている。しかし、そこに至るための道路はダム湖に水没したためない。このため、かってこの集落に暮らしていた人たちは、ボート船でダム湖の奥まで行き、そこから忽然と現れる舗装されていたかっての生活道路を歩み集落に行き続けている。そして、墓や家の手入れをしたりしているようだ。

 そんなことや、映画「ふるさと」のことを思い出しながら、徳山ダム湖を眺めながら南下し、岐阜県揖斐川町、大垣市に至り、午後12時すぎ頃に、ようやく名神高速道路の大垣インターチェンジに入った。名神高速道路と中央高速道路が交わる愛知県の小牧ジャンクションから中央高速道路に入る。岐阜県の恵那市や中津川市を通過、恵那山トンネル(8.5km余り)を通過して長野県に至った。ここからが伊那谷(いなだに)地方と呼ばれるところで、長野県飯田市に至る。伊那谷は東に赤石山脈(南アルプス)、西に木曽山脈(中央アルプス)があり、天竜川が流れる河岸段丘の巨大渓谷の地。連なる山々が奥深く高い。

 午後4時過ぎにようやく中央高速道路の駒ケ根インターチェンジに到着できた。中央アルプスの木曽駒ケ岳(2956m)などの山々が見える。インターを下りてすぐそばの駒ケ根高原に行ってみた。そして、JR駒ケ根駅近くのビジネスホテル(喫煙可能室・素泊まり1泊5300円)に午後5時すぎに着く。窓からは木曾駒ケ岳がよく見えた。

 駒ケ根市の北隣にある宮田村に暮らす長年の友人の新谷孫一郎君とは、大学時代からの長いつきあいになる。(彼とは大学は違っていて、新谷君は京都の大谷大学の学生だった。私より3歳余り年上の新谷君は大学卒業後は長年、長野県内の公立学校教員をしていて、最後は校長職を経て定年退職。その後の数年間は宮田村の教育委員会勤務。現在は、妻とともに農業などをして暮らしている。)

 2017年1月に新谷君が京都にやってきたので、高瀬川沿いの木屋町通りにある旅館「幾松」(※明治維新時代の維新の立役者の一人で長州藩の桂小五郎ゆかりの宿)に一緒に二人で泊まり、祇園界隈で飲んで以来の再会となった。

 午後6時半頃にホテルに新谷君がやってきたので、予約してくれていた駅前近くのすずらん通りにある「かっぱ厨亭(居酒屋)」で再会の乾杯となった。その後、居酒屋の客に「どこかこの近くにカラオケスナックないですか」と聞いたら教えてくれた、すぐ近くの当地の美人ママ(50歳)がいるというカラオケスナックに流れることとなった。午後10時頃に新谷君と別れ、私はもう一軒、近くの店で飲んでホテルに11時過ぎに戻った。新谷君とは、お互いにまだ元気で飲めるうちに会っておきたいと、数年前から思っていたのだった。

(※駒ケ根市は、20年ほど前に行ったことがあった。この時も、今回と同じく「駒ケ根グリーンホテル」に宿泊した。駅前のすずらん通りはシャッター商店街となっていてさびれていたいたが、20年ぶりに来てみたら町のこの通りの店々に活気のようなものを感じた。「長野県立看護大学」も市内にできていて、若い人たちも多くなってることもあるのかもしれない。)