長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

楓橋夜泊

2010-06-27 08:02:47 | Weblog
近所の腕のいい経師屋さんが、この屏風についてあったキズ
を直してくれた。感謝。spice cafeとうちの中間にある
「黒崎竹信堂」さん。ここの主人には、お世話になりっぱなしだ。
池袋時代には、ギャラリースペースにいつも置いたあった屏風。
明日の「順受の会」の松田さんも、よく飲んで気分のいいときに、
この「楓橋夜泊」を詩吟してくれたものだ。日本人には、
昔から親しまれてきた詩であり、世界的に有名な詩。
今の天真庵は天井が低く、狭いので、披露したことがない。
先日、広げてみて、写真にとった。残念ながら、これが東京では
最後になる。福岡の実家におくることにした。将来は、熊本か大分
あたりの山の中に天真庵を結びたいと思っているので、その時は
きっと座敷にこの屏風が飾ってあると思う。


月落ち烏鳴いて霜天に満つ
江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山寺
夜半の鐘声客船に到る

(『楓橋夜泊』 張継)

 蘇州の楓江、楓橋の近くに停泊した船上で、長い船旅の中で疲れ、眠れぬままに旅愁に浸る旅人に届いた、夜半に告げる寒山寺の音みたいな訳だったと記憶する。一説には、「科挙の試験に落ちて船上で落胆しきった作者に、「そったく同時」のように届いた寒山寺の梵鐘の音」という解説もある。寒山拾得の悠久の世界に比べたら、「たかが一度の試験に落ちて、落胆している自分はなんと小さい存在だ」と悟ったというもの。この詩によって、張継は世界的に有名な詩人として後世に伝えられる。  科挙と「ひとがつくったエリート世界」で挫折をしてはじめて悟った、ということ。お金がなくなったり、貯金がへったり、家や財産を失ったりすることが、多い時代だけど、「失ってこそわかるもの」というのはたくさんあるものだ。友情・家族・人の情・・・・・失ったものしかわからない「この世界」は、とてもすばらしい世界でもある。「無一物すなわち無尽蔵」とはけだし名言だと思う。「貧乏を楽しむ、逆行を楽しむ」ような境地になると、達人だと思う。

今日は「エリカ庵」
昨日は「花」だったので、杜若がきれいに生けてある。
そんな凛とした空気の中で、体を癒す。
なかなか都会のまんなかでは、できない空間ではなかろうか?
入りにくいお店の、あがりにくい二階でやっているが、縁の
ある人たちが、やってくる庵。今日は、どんな縁があるのだろうか?

明日は「順受の会」
松田先生は鹿児島の人。詩吟をやり日本拳法の達人でもある。
お花の原田先生もそうだけど、生き様そのものが、学ぶところ多し。
天真庵のもろもろの勉強会の「原点」みたいな勉強会。
いろいろなものが、いきずまって、「寺小屋」の再現が望まれるが、
やはり、肝心なのは、「ひと」の問題。つまり、ひとりひとりの
「生き方」が問題になる。


夜半の鐘声客船に到る

旅先で聞く「悟りの瞬間」だろう。 感謝



最新の画像もっと見る

コメントを投稿