MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

『物語論で読む村上春樹と宮崎駿-構造しかない日本』

2009年08月04日 | 雑想

しばらく空いてしまったが、この一週間はいろいろ行事があったのだった。皇居一周をしたものの、翌日から院生コンパ(天ぷらなど)、大学時代の友人との飲み会(焼き鳥)、通訳教育分科会の後の信濃牛焼き肉(すべてビールつき)で、体重は元の木阿弥である。そこで脂肪肝の薬を探すが、先般の法律のせいでネット販売中止(離島の住民のみ可能)になっている。ところがネット薬局に電話してみるとすぐに送ると言うのだ。まったく意味のない法律である。

それはさておき、ちょっと必要があって、大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿-構造しかない日本』(角川書店)をざっとみた。ひとことで言うと村上春樹の小説や宮崎駿のアニメが「世界に届いた」のは「(物語、神話)構造」があったからだ、逆に言うと帯にあるように「物語の構造だけが世界に届いた」、というだけの本である。(構造というのはパターンと言い換えてよい。平たく言えばテレビの「水戸黄門」である。)この主張に対しては、そればかりでもなかろうと言えば済むと思う。『1Q84』にも言及していて、この作品も「村上春樹が構造しかない作家であることをより徹底した形で露呈している」と言う。この本で特徴的なのは「世界に届く」ために必要な翻訳についてはほとんど触れておらず、検討した形跡もないことだ。大塚は「(『1Q84』では)あの誰にでも模倣し易く、今や翻訳家の柴田元幸の「文体」となってしまった感さえある翻訳ふう一人称の「文体」を完全に放棄している。つまり『1Q84』の天吾は「やれやれ」と呟くことはない。シンプルな文体は翻訳してもそこから抜け落ちるものは極めて少ない。つまり、敢えていえば「構造しかない文章」がそこにある」というのだが、少しぐらいは北米での翻訳を検討してみればいいのにと思う。ただ、そんなことよりももっと読みやすい文章を書くように心がけて欲しい。いったい誰が次の文章の意味を理解できるだろうか。
「いつか世界に日本のすばらしさをアニメーションやまんがで伝えよう、と夢見ていた「おたく」はぼくらの時代にはいなかったし、今はいるのでとても始末に負えないが、少なくとも、そういう野心とは別のところで異なる文化圏でただの消費財、ただのサブカルチャーとしてぼくたちの表現は求められていった点に特徴がある」(p.13)。


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