MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

語順は「普遍的」で「生得的」か?

2008年07月11日 | 雑想

Wired Visionの7月9日のエントリーに「『英語式語順は、自然な思考の順番に反する』研究結果」という紹介文がある。これはPNASに載ったGoldin-Meadowの研究を紹介したものだが、実際はタイトルほどの内容ではないようである。簡単に言うと、「SVO型の言語を話す人であっても、身ぶり手ぶりでコミュニケーションを取るよう求めると、主語、目的語、動詞の順番で意志を伝えた」ということであって、Goldin-Meadowは、だから「SVO型言語を話す人は、思考を人間の直観にやや反する言語パターンに変えるので、認識面でわずかなストレスを常に感じているのかもしれない」と言っているだけだ。New Scienceの紹介記事はもっとすごくて、Charades reveals a universal sentence structureというタイトルだ。これはおだやかではない。記事の後半に行くと、Goldin-Meadow argues that this kind of sentence syntax might therefore be etched into our brains. Languages that veer away from this form, such as English, must have been influenced by cultural forces.とまで書かれている。PNASは有料なのでGoldin-Meadowが本当にそう書いているか確認していないが、Language LogでDavid Beaverという人が、PNASの論文(タイトルはThe natural order of events: How speakers of different languages represent events nonverbally.)のどこにも「...etched into our brains」のようなことは書かれていないし、むしろGoldin-Meadowは逆のことを言っているのではないかと書いている。つまり、生まれつつある言語(ここではAl-Sayyid Bedouin Singn Languageのような新しい手話をイメージしている)ではSOV (Actor-Patient-Action)の語順が現れる傾向があるが、そのことは別にその語順がデフォルトのシンタックスとして脳に「刻み込まれている」ことを前提にしなくても説明できる、ということだ。このあたりのことはGoldin-Meadowの別の論文Watching language growを読むとよくわかる。(これもPNASの論文だがこちらは無料で読める。)

要するに、紹介記事の見出しほどの内容ではないということなのだが、上記2つの記事は、言語生得論や普遍文法(UG)、サピア=ウォーフ仮説などを思い起こさせた。Chomskyなどの生得説は「文法が言語モジュールとして人間の中枢神経系にビルトインされている」というもので、これに対してはすでに様々な(しかも強力な)批判があるので、特に付け加えることもないのだが、ひとつだけ不思議に思っていることを書いておきたい。生得説に言うように、普遍文法(UG)が人間の中枢神経系(脳)にビルトインされるのは遺伝子の働きによる。するとUGをビルトインする言語獲得装置の遺伝子(あるいは染色体)に異常や増幅、突然変異、欠損があれば、言語習得が正常には行われなくなるはずである。またその異常は遺伝するから言語習得に異常のある家系が存在するはずだ。聾や精神遅滞、自閉症などによらない言語障害を「特定言語障害」というがそういう障害を持つ家系が存在するはずである。その中には当然健常者もいて、言語獲得のための通常のインプットを行っている必要がある。1990年代初頭にGopnikらがそのような家系(KE家)を発見したと報告した。また2001年にはLaiらがFOXP2という言語障害に関連しているのではないかという遺伝子を発見したと発表した。(しかし正確には、この遺伝子に変異があると、脳の発達異常が生じ、その結果言語障害が起こると推測されているということ。)しかし、2002年にWatkinsらはKE家を調べ直して、Gopnikらの見解を否定している。(有症者には調音
障害と非言語的知能に障害があったとされる。)(以上は中井悟「FOXP2遺伝子研究の最近の動向」に基づく。)

そこで、不思議に思うというのは、もし生得説の言うように言語獲得装置が遺伝的にビルトインされているのであれば、言語獲得上の障害の症例がもっと多数報告されてもいいのではないかということだ。その場合、有症者には聴覚障害や調音障害、精神遅滞、自閉症などがなく、健常な家族からの正常な言語インプットがあるという条件が必要である。ところが、上述のKE家もあやしいということになり、いまのところ他には見あたらないようである。教科書の記述でも、Chomskyの生得説を紹介した直後にアヴェロンの野生児やアマラとカマラ(狼に育てられた少女)、ジーニなどの疑わしい、あるいはすでに否定されているケースを挙げているものもあるぐらいだから、適当な症例が見つからないということなのだろう。生得説、危うくはないか?


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