多文化共生なTOYAMA

多文化共生とは永続的なココロの営み

廃人ドラッグ、に思う

2014-08-19 22:10:01 | ダイバーシティ
(以下、毎日新聞から転載)
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発信箱:廃人ドラッグ、に思う=小国綾子
毎日新聞 2014年08月19日 東京朝刊

 厚生労働省の募集した「脱法ドラッグ」の新名称として「廃人ドラッグ」という案が、実際に採用された「危険ドラッグ」より票を集めたと聞いて、胸が苦しくなった。確かにその方がインパクトは強いかもしれない。でも「廃人」では薬物依存者への偏見を助長する。

 17年前、薬物依存者と家族を1年間取材した。ドラッグに深く依存する人の多くは、いじめや虐待を受けた過去があったり、人付き合いが苦手で自分に自信がなかったり、さまざまな困難を抱えていた。「クスリが唯一の友だちだった」という声もよく聞いた。親たちの闘いも壮絶だった。友だちより家族より命よりドラッグが大事、となった依存症の我が子から、金をせびられ、暴力を振るわれ、子供の借金の取り立てまで……。かばうことが我が子の回復を遅らせると学び、時には警察に通報し、毅然(きぜん)と対応しようと努める親の切なさ。ある母親は当時妊娠中だった私のおなかを何度もなで、「ほめて育てろと聞いて懸命にほめて育てたのに、それが娘を『良い子でないとほめてもらえない』とクスリへと追いやったなんて」と泣いた。

 法の網をかいくぐり、新たな化学物質が次々登場する危険ドラッグは、規制や取り締まりだけでは抑え込めない。遠回りに見えても、乱用・依存者への治療や回復支援を充実することこそが、交通事故など悲しい事故に巻き込まれる被害者をこれ以上生まないことにつながるはずだ。

 生きづらさを抱え、ドラッグに頼り、しかしそこから抜け出そうとしている彼らを、どうか「廃人」と切り捨てないでほしい。彼らの回復を、その家族の闘いを支えよう、という社会でありたい。(夕刊編集部)

「リベラルであること」の難しさとは何か?

2014-08-19 11:55:52 | ダイバーシティ
(以下、東洋経済ONLINEから転載)
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「リベラルであること」の難しさとは何か?
湯浅誠×乙武洋匡 リベラル対談

プラスの積み重ねで育てられた

湯浅:乙武さんの書かれた『自分を愛する力』(講談社現代新書)を読んだのですが、私と乙武さんの家庭には似たところがあるのです。私の兄は障害者なんですよ。乙武さんのお父さんも転勤拒否していたそうですが、うちのオヤジもです。オヤジは日経新聞の社員でしたが、転勤しなかったため同期でいちばん出世が遅れた。そんな父親をお互いがんで亡くしたという点も同じですね。

乙武:そんな共通点があったのですね。

湯浅:でも違うところもありました。乙武さんは自己肯定感が高いけれど、うちの兄貴はとても低かった。とにかく人見知り。特に小さい頃は、家に人が来るとコタツの中に隠れてしまう。私が車イスを押して外出しても、人のいない道、いない道を行きたがる。

乙武:確かに、それは相違点かもしれませんが、むしろ障害者としてはお兄様のほうが一般的なのかもしれません。

湯浅:私ね、小さい頃は自分が損しているとずっと思ってたんですよ。兄貴とケンカすると、たいがい私が怒られる。

乙武:ああ、なるほど。

湯浅:オヤジもおふくろも、どちらかというと兄貴のほうにフォーカスしてるから、私は自己主張しても損するだけ、みたいな感じがありましたね。でも私はそれでも、気がついたら「なんとかなるさ」という性格になって、この年齢まで来てしまったんですけど(笑)。

乙武:私には決定的に恵まれているところが2つあったんです。ひとつは生まれた瞬間からこういう体だったもので、親はもう一生寝たきりだろうと覚悟していたという点。だから僕が寝返りを打った、起き上がった、自分でごはんを食べた、字を書いた、それだけで大喜びですから、プラス、プラスの積み重ねで育ててもらえた。

湯浅:はい。

乙武:親って、生まれるまでは「五体満足であってさえくれれば」なんて言うくせに、そのうち「この子は運動ができない」「勉強ができない」とか、いろんなイチャモンをつけてくる(笑)。でも僕はもともとゼロベースなので、些細な成長でさえすごく喜んでもらえた。

湯浅:わかります。

乙武:もうひとつは僕の生まれつきの性格が、目立ちたがり屋だったこと。車イスに乗っていて、ましてや手足がないとなると、みんな僕を見ますよね。誰が悪いとかじゃなくて、物珍しいものには自然と目が向くのが人間の本能だから。でも、普通は自分が目立つのは「いやだ、恥ずかしい」という人が多いし、おそらくお兄様もそうだったのだと思います。

そうすると街に出るのがおっくうになったり、「この人は自分に対してどういう視線を向けるんだろうか」と、他人の様子をうかがうようになってくる。これは当然だと思うんですよね。

湯浅:そうかもしれないですね。

乙武:ところが僕の場合は小さい頃から、目立ったり、注目を浴びたりすることが嫌ではなかった。だから「じろじろ見られて大変だったんじゃないですか」「嫌な思いをされてきたんじゃないですか」とよく聞かれるのですけど、どちらかと言えば「目立ってうれしい」くらいに思っていたんですよね。

湯浅:ほう。物心ついたときから目立つのが好きだったのなら、それって先天的なものなんですかね。

乙武:そうかもしれません。この2つは僕の自己肯定感の形成に、決定的に大きかったと思います。

湯浅:本にはずっとそのままで大人になったと書いてありますが……。

障害者であるより、有名人であるほうが大変

乙武:もっと正確にいうと、『五体不満足』(講談社文庫)がベストセラーになるまでは、視線を浴びることへの抵抗は特になかったのです。障害者であるということを差し引けば、普通に生きてきたわけですから。ところが、自分がいわゆる“有名人”になると、視線の質が変わってくるのです。

湯浅:どう変わりました?

乙武:今までは「未知との遭遇」みたいな視線を向けられてきた。それに対しては何の抵抗も感じていなかったのですが、今度は「既知との遭遇」になるわけです。「ああ、あの乙武さん」だと。そして一方的に写真を撮られたり、サインをせがまれたりするようになった。

湯浅:しんどかったんじゃないですか?

乙武:一般の方からお声がけいただくのはまだよかったのですけど、出版後、しばらくは週刊誌にずっと張られていて、家の前3カ所くらい、あっちの電信柱とこっちのコインランドリーに誰かがいてこっちを見ている。つねに監視をされているような感覚。

湯浅:それはつらい。

乙武:そういう生活が1年、1年半と続いたとき、原因不明の頭痛と吐き気に悩まされるようになりました。病院に行ってひととおり検査しても原因がわからなくて。

湯浅:そこで初めて、目立つことの大変さを知ったということですね。

乙武:目立つって、そう楽なことばかりでもないな、と(笑)。

湯浅:この本の中で、乙武さんがスポーツライターから教育分野に転身するきっかけとして、2003年と2004年に起きた、少年少女による幼児や同級生の殺人事件を挙げていますね。もちろん被害者はつらいけれど、加害者も苦しかったのではないか。周囲にいた大人が子どもたちの発するSOSのサインに気づき、軌道修正していれば、こうした事件を起こさずに済んだかもしれないと。

乙武:僕らはどうしても表面的なところばかりに目を向けてしまう。でも、「どうしてそうなったのか」という裏側にも、もっと目を向けていくべきだと思うのです。

湯浅:世の中、なかなか殺人事件の加害者の身になって考える人は少ないと思うのですけど。

乙武:それは自分の境遇が大きく影響しているのだと思います。『五体不満足』が出版されて、多くの方が僕のことを評価してくださるようになった。でも、そこに違和感があったのです。「自分はそんなに褒められるような人間ではない。もし褒めていただくとしたら、それは僕の周りだ」と。

僕の周りの人が、僕をつくってくれた


湯浅:周りとは?

乙武:両親や学校の先生方、クラスメートや近所の方々。みなさんから見えているのは僕ひとりなので、「乙武さんがすごい」となりますけど、その乙武洋匡をつくりだしたのは、やはり周囲にいた人々だったわけです。

湯浅:そうですね。

乙武:少年犯罪においても、同じことかなと。僕らに見えているのは11歳、12歳の子供が人を殺したという部分だけです。でも、そこに至るまでの経緯にも目を向けたら、また違うものが見えてくるはずだ。そんなふうに考えるクセがついたんですよね。

湯浅:よくわかります。私が自分自身と社会との関係を考えるようになったのは、ホームレスの人と付き合ったり、生活に困っている人の相談を受け始めたりしてからですね。あるときに、それこそ私はなんとかなると思えるけれど、「なんとかなるとはどう逆立ちしても思えない人が、世の中にいる」という事実を、知ってしまった。

乙武:なるほど。

湯浅:逆に、なぜ自分のことはなんとかなると思えるのだろうと振り返ってみると、私には「溜め」があったなと。つまり家族や友人や経済環境など、自分を支えてくれるもの。私はそれを「溜め」という言葉で表現するようになったのですけど。そこで初めて「自分にとって当たり前だと思っているものを持たない人がいる」と気づいたんですよね。

乙武:その「溜め」がないと、人々は「何ともならない」と感じた。

湯浅:これは健康と同じで、失ってみないと気づかないというか、私や乙武さんみたいにきっかけがないと気づけない。そのためにも、いわゆるリベラルな価値観を広めていく必要があると思うのです。乙武さん自身はそれをどうやって伝えていこうと思っていますか。

乙武:そうですね。最近、リベラルの難しさをすごく感じるんですよ。たとえば、ものすごく右傾化した人々や何か強い主張を持った人々には、相手を否定することで自分たちの主張をより際立たせるという手法をとっている方が多い。

僕はリベラルという言葉へのこだわりはないけれど、自分自身のスタンスとしては、やっぱり多様性を認めるということを強く伝えていきたい。しかし、「多様性を認めるべきだ」と主張してしまうと、自分とは「相いれない主張も、多様性のひとつとして認めなければいけない」というジレンマが出てくるわけですよね。

湯浅:そこは、リベラルの基本的なジレンマですよね(笑)。

乙武:相手はこちらを否定してもいい。でも、こちらが相手を否定することはできない。これは、すごく不利だなと。では何を論拠に「伝えていくのか」を考えると、やはり個人的な経験が論拠になるのかな。僕の場合、それこそほかの方には逆立ちしてもできない経験を積み重ねていますし、ほかの方には見えない景色も見てきたでしょうから、少しは説得力のある話ができるかもしれない。それが今のところの自分のスタイルですね。

「多様性を否定する人」も認めるつらさ

湯浅:リベラルが不利だというのは、おっしゃるとおりです。「多様性を否定する人を肯定するのが、多様性を認める」ということですからね。それって、ただつらいだけじゃないかって(笑)。

乙武:そうなんですよね(笑)。すごく難しい。

湯浅:そのドツボにはまらないためには、感情や経験に基づいた話をするのがいいかもしれない。自分がそうだったという事実を相手は否定も肯定もできないわけで、論争にはなりませんよね。それをやっていく意義は大きいと思います。大きいと思いますが、その次のステップをどうするかという問題があります。

たとえばリベラルな価値観を守るような制度・政策を作ろうという話になったら、自分の経験や感情から話を立ち上げつつも、論争的な領域に入っていかざるをえないじゃないですか。そうなったときは、どうしますか。

乙武:正直、これといった答えを見つけられてはいません。今までの僕の活動領域では、先ほどもお話していたように、自分の経験を論拠にしていればよかった。つまり自分はこんなふうに生きてきました。自分から見えた景色はこういうものでした。それを、メディアを通して伝えていくことで、何か考えるきっかけを得る人がいたり、生きるためのヒントをつかんでくださる方がいたり、それで完結していたんですね。

ただ私自身の視点が、私個人から教育という分野に移り、さらに教育から社会というものに移っていくと、その手法だけではどうしても限界がある。それは、まさに最近、感じつつあることなのですよ。

湯浅:乙武さんが、社会活動に本気でここまでかかわろうとしている話を聞くのは心強いですね。

なぜ、あえて「カタワ」という言葉を使うのか

イメチェン前の湯浅氏は怖かった?

乙武:湯浅さん、随分イメージが変わりましたよね。僕が初めて湯浅さんにお会いしたのはまだイメチェン前だったので、「ビフォー・アフター」を存じあげていますが(笑)、湯浅さんご自身は、イメチェンによる効果を感じていらっしゃいますか。

湯浅:ええ。感じていますね。少なくとも、「前は怖いという印象を持っていた」と白状してくれるようになった(笑)。実は、そう思われていたとは、全然、知りませんでした。「湯浅さんって怖いですね」なんて軽口をたたけないくらい怖かったんでしょうね。

乙武:わはは。軽く傷つきますね(笑)。

湯浅:今までも親しくなると、「実は笑うんですね」とか言われてましたけど(笑)、怖そうだと言ってくれる人はいなかったですね。そんなつもりはまったくなかったんですけどねえ。

乙武:正直、僕も怖い人だと思ってましたもん(笑)。メガネかなあ、やっぱり。

湯浅:いや、テーマだと思います。私が扱っているのは貧困問題でしょう。テレビで笑いながら話せる問題じゃないわけですよ。私だって友達といるときは笑って酒飲んでたりしてますけど、テレビカメラが回っているときに笑顔で「いや、日本で餓死が起こっているんです」とは言えない。

どうしても「こういう問題があるんです」という訴え調になる。そのうえ服装には、まったくこだわってなかったので、怖い印象になってしまっていたみたいです。

乙武:それは仕方がない部分ですよね。

湯浅:私の反省は、社会活動家と名乗る以上は、自分が人に与える印象にもっと自覚的であるべきだったということですね。とにかく洋服と一緒で無頓着だったものだから、全然気にしていなかった。

乙武:僕は身なりについては、わりと早い段階から意識していました。障害者問題や貧困問題って、どちらも一般の方にとってはなじみのない分野であり、発言しにくい分野だと思うんですよ。

湯浅:下手なこと言ったら、怒られそうなイメージがある(笑)。

乙武:でも、本来はそうであってはいけない。そう考えると、望むと望まざるとにかかわらず、今の日本では障害のことなら僕が、貧困のことなら湯浅さんが、社会に対しての入口になってしまっている部分があると思うのです。その入口である人間がどういう風体をしていて、どれくらい親しみやすい人間かは、みなさんが入口をくぐってみようと思うか思わないかを大きく左右する。だから身なりの話は、くだらないことのように見えて、実はけっこう大事なのかなと思っています。

湯浅:それ、いつ気がつきました?

乙武:『五体不満足』(講談社文庫)の中に、「障害者ももっとおしゃれをしたらいいのに」と書いた章があるんですね。僕自身、すごく洋服が好きだったのもあって。それに対して「本当にそのとおりだと思います」とか、「乙武さんのように障害のある方がオシャレ好きだなんて意外でした」という反響をいただいて、「あ、これは大事だな」と。

賛同者を増やすことの必要性



湯浅:そういう声を聞いたら、それをすぐ受け入れる柔軟さを持っていたのですね。私がそう思えるようになったのは40歳を超えてからです。内閣府の参与を務めたときに、「政策を実行するということは、反対する人の税金も使うということだ」と思ったんですよね。

たとえばホームレスの人の炊き出しなんかをやってると、怒鳴り込んでくる近所のおばさまがいる。「アンタたちがそんなことをするから、この公園にホームレスが増えるんじゃないか。汚れるし、子供も遊ばせられなくなるじゃないか」って。もちろん丁寧に対応するけれど、心の中では反論しているんですよ。「こっちは生きるか死ぬかの問題なんだよ」みたいにね。

でも参与をやっているとき、ふと思ったのは、あの怒鳴り込んできたおばさんの税金も使うんだよな、と。あのおばさんが「そんなことに税金を使うなら、あたしは税金を払わない」と言っても、税務署は差し押さえることもできちゃうんだよな、と。

乙武:確かに。

湯浅:そう考えると、あの人も利害関係者として認めないといけないし、それが公的なことをやるということなんだと思ったら、少しでも賛成してくれる人をいかに増やすかを考えなくちゃいけない。賛成とまではいかなくても、せめて強固に反対しないくらいになってくれるといい。そのためにやれることは、なんなのか、いろいろな方法を考えないといけない。

私はそれまで合意形成ということを、ちゃんとまじめに考えたことがなかった。だけどこれからは、まったく相いれない価値観の人とどう合意を形成していくのか、交渉学とかファシリテーションとか、そういうことも本気で考えないといけないと思いましたね。

乙武:湯浅さんは何冊も著書を出されていますが、いつもそのときの自分の考えを凝縮して、1冊の本を執筆している。ですから、どの本も、書いた時点ではウソは1ミリもないと思うんですよ。ところが今、参与を経験された湯浅さんが、たとえば最初の本を読み返すと、きっと疑問に思う点がたくさん出てくるのではないでしょうか。

湯浅:それはもう、満載です。

乙武:そこがきっと参与をご経験なさった財産なのかなと思うんですよね。あれだけすばらしい活動をされてきて、知見がたまってきた。それを基に世の中を動かすには、価値観の異なる人ともぶつかりあって、着地点を見いだして合意形成をしないといけない。それこそ僕らが今、向き合わなければいけないことなんだ、というふうに変化してきた。ご著書を連続して読むと、その変化がすごくリアルに伝わってきます。

湯浅:乙武さんはそういうことないですか。自分が過去に書いた本を読み返すと、今と考えが違うようなことが。

乙武:考えが変わったというより、「そうとらえられるのか」という誤算はありましたね。いちばん大きいのは最初の本(『五体不満足』)ですよ。それまで障害者というのは「かわいそうな人」「不幸な人」であると思われていた。確かにそうした側面もあるかもしれないけど、僕自身は障害者として生まれて、毎日幸せに暮らしている。そんな人間もいるのだと伝えたくて、あの本を書いた。つまり不幸に寄りすぎたイメージを真ん中に戻したくてあの本を出したのですが、あまりにも多くの方に読まれたために、今度は「なんだ、障害者も幸せなんだ」というイメージに寄りすぎてしまった。

障害当事者や家族からクレームや批判が届いた


湯浅:そんなつもりはなかったのに?

乙武:はい。そこで何が起こったかというと、ある種のクレームや批判が届くわけですよ。クレームを寄せてくるのは、ほとんど障害当事者か、そのご家族や支援者でした。どういう批判かというと、「お前は恵まれている」というものです。「おまえのように親に愛され、周囲に応援されて生きてきた障害者なんか、ほとんどいないんだ。たまたまラッキーだった人生をそんな大々的に語られても、みんながそううまくいくわけじゃないんだ」とか、「おまえみたいなやつが出てきたおかげで、『乙武さんだってああして頑張ってるんだから、あなたも頑張れるはず』と、おまえと同じ頑張りを強要された。どうしてくれるんだ」などなど。

これは本当に想像もつかなかった。僕は養護学校ではなく、地域の学校で健常者とともに育ったもので、特に障害のある友人がいなかったんですよ。だから自分以外の障害者の境遇や困難を知らなかった。まあ、だからこそ書けた本ではあったのでしょうけど。

期せずして障害者の代表のように扱われるようになり、いくら自分のことを語っているつもりでも、世間からは「障害者はこうなんだ」と受け取られてしまう。そのあたりのもどかしさは、今でも感じることがありますね。

湯浅:なるほど。

私が今、自分の過去の本を読んでいちばん強く感じるのは、一言でいうと、基本的なトーンの違いなんですよね。昔は「なんでわかってくれないんだ」っていういらだちを吐き出すようなトーンなのです。わからない人に寄り添う感じはない。

もちろんそれに共鳴してくれる人もいるし、それで問題の存在に気づいてくれる人もいるのだけれど、でもそのトーンのせいで妙に責められているような感じを受ける人もいて、その人たちはむしろ遠ざかってしまったりする。そうすると結果的に私は目的が果たせていないということになる。

障がい? しょうがい? だったらカタワでいい


乙武:確かに湯浅さんのおっしゃるとおり、あえて過激で挑発的な言葉を使うことで、一般の人の目を引きつける効果はあります。でもそういう言葉を使うことで敬遠する人も出てくるのも確かで、その使い分けはすごく難しい。

たとえば、僕は自分自身のことをツイッター上で「カタワ」などと表現する。いまでは差別語とされていますから、当然、炎上するわけです。では、なぜあえてそんな言葉を使うかというと、最近、障害の「害」という字を平仮名で表記する風潮が広がっている。なぜなら「害」という字が社会の害になっているように感じるからだと。でもそれを平仮名にするなら、今度は障害の「障」の字だって、「差し障る」という字なんだから、それも平仮名にしろという話になるだろうし、「しょうがい」などとすべて平仮名にするくらいなら、もう別の言葉にしてしまおうという流れになっていくと思うのです。

だったら、「カタワ」でもよかったんじゃないかと。「カタワ」の語源って、「車輪は片方だけだと不具合がある」=「片輪」ですから、そこまで侮辱的な意味ではなかったはずなのです。でも、それが使われていくうちに「差別的だ」という理由で、「身体障害者」という呼び方になった。イタチごっこだと思うんですよ。障害者に対する本質的な意識や考え方を変えないかぎり、いつまで経ってもそれが続くだけでしょう。

湯浅:根本的なところ、でね。

乙武:まさに。そうした問題提起の意味で使っているのですが、まあ過激は過激ですよね。でも、過激な言葉を使うことで振り向いてくれる人が、やっぱり多いわけです。

しかし、先ほどもお話したように、そういう手法をとることで離れていく人もいるわけで、そのあたりのさじ加減に難しさがあるんですけど。

湯浅:つまりある時期までは、そういう攻撃的なスタイルが必要なことがある。でもある段階を越えると、それだけではやっていけなくなる。そうするともうちょっとウイングを広くしながら、それこそ強硬な反対をやわらかい反対にもっていくようなことをやらないといけない。それには、とんがっているだけでは駄目だということになる。これは必然的な変化だと思うのです。

湯浅 だけどその切り替えが遠くから見ると、変節とも見えるわけですよ。「あいつは有名になって人が変わった」とか「媚びるようになった」とか言われることもある。でもそれをしないと前に進まない。

乙武:障害にしても貧困にしても、マイノリティですよね。マイノリティの問題を解決するには、マジョリティを味方につけないといけない。でも、マジョリティはマイノリティの問題に興味がない。

湯浅:そこが決定的なジレンマですよね。

最後にひとつ伺いたいのですが、乙武さんは今後、何か着手しようと思っていることとか、思い描いていることがありますか。

教育は“学校”だけではない


乙武:僕はこの10年近く、教育をメインフィールドに小学校教師や東京都教育委員を務めてきたのですが、それだけでは限界も感じていたところなのです。教育というと、どうしても学校教育だけがクローズアップされがちですが、本来、子どもは「家庭」「学校」「地域」の三者で育てられるんですよね。

学校教育については、かなり深くかかわることができた。また、2児の父として、家庭教育にも当事者としてかかわることができている。ただ、地域との接点を持てていないということに気づいたのです。そこで、「グリーンバード新宿」というゴミ拾いのボランティア団体を立ち上げました。ゴミ拾いにかぎらず、さまざまな活動を通じて、地域の住民同士をネットワークで結んでいこうというのが目的です。高齢化が進むだけでなく、高齢単身世帯がどんどん増えていく状況で、いざ災害が起こったときに誰もが孤立しないためのまちづくり。こうした地域活動が、防災や治安、子育てや地域教育につながっていくものと確信しています。

湯浅:ほんとうに、親だけでなく、先生だけでなく、地域の人にも守られて子どもは育つのですよね。

最後になりますが、乙武さんにとって、リベラルとは一言でいうと、どういう意味だと思いますか。

乙武:これがリベラルなのかはわかりませんが、僕が教育においても、また社会においてもいちばん実現したいことは、「生まれついた境遇や環境によって不利益が生じない社会にしたい」ということです。それが僕の中でリベラルと親和性の高い思いかな。

湯浅:乙武さんは『自分を愛する力』(講談社現代新書)の中で、「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの詩(「わたしと小鳥とすゞと」)の一節を引用していますが、これはまさにリベラル的なマインドですよね。

(構成:長山清子、撮影:今井康一)

被災地のDV/地域の人権意識高め防止へ

2014-08-19 09:44:46 | ダイバーシティ
(以下、河北新報から転載)
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被災地のDV/地域の人権意識高め防止へ

 東日本大震災の被災地で、配偶者からの暴力(ドメスティックバイオレンス=DV)が深刻化している。人の尊厳をないがしろにし、心身を傷つける暴力がはびこる地域社会で復興は語れない。そう認識し、被害者を支える地域の人権意識啓発と関係機関の連携強化を急ぎたい。
 警察へのDV相談件数は2013年、宮城県警が前年比236件増の2092件、福島県警が17件増の857件、岩手県警は70件増の368件。いずれも過去最多となった。内閣府が被災3県の女性を対象に実施している悩み・暴力相談には13年度、4837件が寄せられ、うち13%が配偶者や交際相手からのDVに関する内容だった。
 一般社団法人社会的包摂サポートセンターが厚生労働省、復興庁の補助事業として全国展開している24時間電話相談「よりそいホットライン」。13年度のまとめで、DV・性暴力相談の割合が被災3県ではそれ以外の都道府県の2倍近くに上った。
 相談から浮かび上がるのは、生活再建がままならず、先の希望が見えずに孤立する被災家庭、DV被害者の姿だ。「DVが原因で別居していた夫が津波で家も職場も失い戻ってきた」「被災で生活環境が激変し、夫が引きこもりがちになった」「職を失ったまま失業保険も切れ、弔慰金も使い果たして経済状態が悪化した」。そうした状況下で夫の暴力が激化している。
 狭い仮設住宅では逃げ場がない。地方は人間関係が濃密なため、行政の窓口に知り合いがいる場合も多く、相談しづらい。世間体を気にして暴力は隠されがちだ。性別役割分業意識が根強く、自分がDV被害者であることに女性自身が気付いていない事例も少なくないという。
 DVは震災前から数多く潜在していた。震災を機に表面化したわけだが、それも氷山の一角。復興が遅々として進まない現実の中、時間の経過とともにさらに深刻化する危険もはらむ。
 「相談件数の増加はある意味、いいことだ」と、DV被害者の支援活動を25年続けているNPO法人ハーティ仙台の八幡悦子代表は言う。相談しないケースこそ事態が悪化し、殺人など重大な事件に至ると、早期対処の必要性を指摘する。
 DVは、それを目の当たりにする子どもへの虐待でもある。子どもへの暴力が重なっているケースも少なくない。それを逃れたシングルマザーの経済的困窮は、共に暮らす子どもの貧困問題だ。DVの深刻化は多様な社会問題と連鎖している。
 DVを防止し、被害者を支援するために必要なのは何か。人権教育、男女平等教育の推進だと専門家は口をそろえる。
 行政の担当者や相談員、民生委員など支援する側が人権、男女平等の視点を持ち、連携することが重要だ。そして市民もまたその視点でDVに気付き、専門家や相談機関につなげる地域力を高めたい。どんな暴力をも許さない「世間の目」が求められている。もちろん、被災地だけでなく、あらゆる地域で。


2014年08月19日火曜日

「仮放免」外国人の在留資格求め陳情

2014-08-19 09:15:26 | 多文化共生
(以下、NHKNEWSWEBから転載)
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「仮放免」外国人の在留資格求め陳情
8月18日 18時17分

「仮放免」外国人の在留資格求め陳情
不法滞在で入管施設に収容されたあと、「仮放免」として一時的に釈放されている外国人について、働くことが認められないなど不安定な生活が続いているとして、支援団体が地方議会に対し在留資格を認めるよう国に働きかけることを要請する陳情を始めました。

陳情を行ったのは、日本で暮らす外国人を支援するNPOで、18日、東京・板橋区の区議会に陳情書を提出しました。
NPOによりますと、「仮放免」として一時的に釈放されている不法滞在の外国人は在留資格がないため働くことが認められず、健康保険にも入れないなど不安定な生活が続いているとしています。
また仮放免の人たちの中には、日本人と結婚して長年生活していたり、子どもが日本語しか話せなかったりするなど、母国に帰るのが難しい事情を抱えている人も多いということです。
こうしたことから陳情書では、さまざまな事情で長期間日本に滞在している仮放免の外国人について、在留資格を認めるよう国に働きかけることを要請しています。
仮放免の外国人は、入管施設での収容が長期化することを避けるため、法務省が4年前に仮放免を柔軟に認めるようになったことから去年末で3235人と年々増えていて、支援団体によりますと、仮放免の期間が7年を越える人も出てきているということです。
NPO「APFS」の加藤丈太郎代表理事は、「仮放免の人たちのなかには人生の半分以上を日本で生活している人もいて帰るに帰れない事情を抱えている。日本でともに生きていく存在として在留資格を認めるよう呼びかけていきたい」と話しています。
NPOでは、仮放免の外国人がいる自治体を中心に関東地方のおよそ40の地方議会に陳情を行うことにしています。

7年間“仮放免”の一家は
埼玉県に住む不法滞在のフィリピン人の一家4人は、7年前に仮放免となり、不安定な生活を続けています。
一家の父親と母親は20年前に出稼ぎのためそれぞれ来日したあと、建設や配送などの現場で働き、結婚して2人の子どもが生まれました。
7年前に不法滞在で強制退去が決まり、その後、仮放免となりました。
しかし在留資格がないため働くことが認められず、親類の家に身を寄せて支援を受けるなどして暮らしています。
高校3年生の長男と小学校2年生の次男は、生まれた時から日本で暮らしているため日本語しか話せず、フィリピンに生活の基盤がありません。
このうち長男は高校を卒業後、介護福祉士を目指して専門学校への進学を希望していますが、このままでは日本で仕事に就くことはできません。
フィリピン人の父親は、「子どものためにも家族全員で日本にとどまることを認めてほしい」と話しています。
また長男は、「日本の文化で育ってきたので、フィリピンに行っても何もできないと思います。このような状況になっているのは、自分たち家族の責任であることは分かっていますが、日本が好きなので家族と一緒に自由に暮らしていきたいです」と話しています。

仮放免の外国人は年々増加
不法滞在の外国人は、強制退去が決まると母国などへ送還されます。
しかし、在留資格を希望して帰国を拒んでいる人や、難民認定を申請している人などは直ちに送還されず、入管施設に収容されます。
このうち、家族の状況や収容の期間などを考慮して一時的に施設から釈放するのが仮放免です。
仮放免の人たちは、保証金の支払いや定期的な入国管理局への出頭、それに住む場所や行動範囲の制限などを条件に釈放されます。
仮放免では在留資格がないため働くことが認めらず、健康保険に入ることもできません。
一方、希望すれば小中学校に通うことや、自治体の裁量で予防接種などの行政サービスを受けることができます。
法務省によりますと、ことし1月現在の不法滞在の外国人は、平成5年のピーク時の2割程に当たるおよそ5万9000人に大幅に減少しています。
一方、仮放免の外国人は入管施設での収容が長期化することを避けるため、法務省が4年前に仮放免を柔軟に認めるようになったことから年々増加し、去年末で3235人と10年前の7倍以上に増加しています。
入国管理局は、仮放免の外国人について、「仮放免で一時的に釈放された場合であっても、強制退去が決まっていることに変わりはないので働くことはできない。基本的には、母国に帰るべきと判断された人たちなので、帰国してもらうのが前提だ」と話しています。

「生まれた子どもたちは非常に辛い立場に」
筑波大学の駒井洋名誉教授は、「不法滞在の外国人は、日本人が働きたくないいわゆる3K労働や低賃金の労働の現場を下支えしてきた。また長く暮らしていると日本で家族が形成され、生まれた子どもたちは大きくなってもさまざまな権利が認められず、非常に辛い立場に置かれている」と話しています。
そのうえで駒井名誉教授は、「仮放免になっても就労や健康保険に入ることが認められないと、どのように生活していいか分からない。不法滞在は違法なので、厳正に法を執行するのは当たり前のことだが、日本で長期間暮らし生活基盤が確立しているなど、事情がある人については救済すべきだ」と話しています。

二つの祖国はざまで苦悩(7)日系人の強制収容 宍戸清孝さん

2014-08-19 09:14:32 | 多文化共生
(以下、河北新報から転載)
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二つの祖国はざまで苦悩(7)日系人の強制収容 宍戸清孝さん/伝える 戦後69年の夏


元米陸軍参謀総長で、退役軍人長官も務めた日系3世のエリック・シンセキ氏(左)=2000年、ワシントン(宍戸写真事務所提供)
 星条旗が風を受けてはためいていた。赤い革シートの車、どでかいソフトクリーム。写真家の宍戸清孝さん(60)=仙台市青葉区=は中学生だった1967年夏、三沢市に住む伯父と訪れた米軍三沢基地の光景が記憶の底にある。
 ベトナム戦争に向けて飛び立つ戦闘機のごう音が耳をつんざく。ふいに、幼いころ見た傷痍(しょうい)軍人の姿が浮かんだ。「戦争って一体何だろう」。子どもながら抱いた疑問が、いまの活動の原点となる。
 「日米の懸け橋となる仕事をしたい」。25歳の80年、宍戸さんは単身渡米する。その時ハワイで出会ったのが日系2世の元米兵だ。彼の体験話に衝撃を受けた。
 日系米国人は第2次世界大戦中、非情な運命にのみ込まれた。41年の日本軍の真珠湾攻撃により、日系人は米国社会から排除された。「敵性外国人」の烙印(らくいん)を押され、「ジャップ」とさげすまれた。財産や地位を剥奪され、本土では12万人が強制収容された。

 そうした境遇で、志願兵として出征した人々がいる。米国への忠誠を誓い、汚名をすすごうとした日系人、それが日系米兵だった。日系人だけによる部隊もできた。
 日本軍に入った実弟と戦った日系米兵もいた。日系人は日本や身内、米国社会のいわれなき差別と戦ったことを知る。
 「二つの祖国の間で引き裂かれた人生や、日系人としての誇りを教えてもらった」。心を揺さぶられた宍戸さんは誓う。「彼らの記録を自分の手で後世に残そう」
 ニューヨークで写真を学び、ドキュメント写真家の道を歩み始めた。仕事の傍らハワイや米国本土に足を運んだ。話を聞いたのは約100人に上る。
 日米の言葉や文化に通じた2世は、情報部隊に配属された者が少なくない。任務の特殊性から、口は重かった。足しげく通い、少しずつ胸襟を開いてもらえるようになった。
 その記録を写真展で発表してきた。2005年には、37人分の記録をまとめた著書「Jap(ジャップ)と呼ばれて」も刊行した。

 著書で紹介した沖縄育ちの2世は、故郷で日本兵の捕虜2人に面会した。小学校の同級生だったが、2人は気付かずにおののくばかり。「バカモノ、目の前にいる同級生を忘れたのか」。敵味方を超え、3人で抱き合って泣いたという。
 この2世は、ガマ(洞窟)に逃げ込んだ日本人に、沖縄方言で繰り返し投降を呼び掛けた。「両国のために最善を尽くしていた」。そんな日系米兵を宍戸さんはたたえる。「民族のはざまで苦しみながら、民族を超えた人間主義を貫き、平和を希求した」
 日系米兵の多くは鬼籍に入ったが、足跡を追い、ヨーロッパ戦跡などの取材を続ける。
 「戦争に勝者も敗者もない。共に傷つき、失うものは大きい。戦争は絶対悪だと、写真を通して伝えることが自分の使命だと思っている」

[日系人の強制収容]真珠湾攻撃から2カ月後の1942年2月、F・ルーズベルト大統領が、敵国のスパイ行為から国民を守るとの理由で「大統領令9066号」を発令。米国籍を持つ日系人を含む約12万人が土地や財産、地位を奪われ、カリフォルニア州などの砂漠地帯や寒冷地に設けられた施設に終戦まで隔離された。88年に日系米国人らへの補償法が成立し、収容所に送られたうち生存者が、大統領の謝罪文と2万ドルを受け取った。

外国人労働者への支援強化、司令塔欠く対応に不安の声も

2014-08-18 09:22:24 | 多文化共生
(以下、REUTERSから転載)
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アングル:外国人労働者への支援強化、司令塔欠く対応に不安の声も
2014年 08月 15日 15:52 JST

8月15日、アベノミクス成長戦略の柱である外国人労働者の受け入れ拡大が来年度から本格化する。写真は新成長戦略を発表する安倍首相。都内で6月撮影(2014年 ロイター/Yuya Shino)

[東京 15日 ロイター] - アベノミクス成長戦略の柱である外国人労働者の受け入れ拡大が来年度から本格化する。課題のひとつは日本での生活環境の整備だが、日系ブラジル人などすでに移住している外国人 労働者からは「場当たり的な対応が繰り返されるだけ」との厳しい反応も聞こえてくる。

日本の労働現場を支える新勢力として、外国人の存在をどう生かすか。雇用支援、日本語教育からコミュニティーづくりまで、総合的な政策対応の質が問われている。

<リーマンショックで政策が一変>

「政府はまた同じことをやっている」。群馬県大泉町に住む日系ブラジル人、高野祥子氏は、今年6月の成長戦略に外国人 労働者の活用促進が盛り込まれたことを知っても、素直には喜べなかった。いずれ景気が悪くなれば、外国人労働者の働き口はなくなるに違いない。そんな思いを禁じ得なかったからだ。

高野氏には苦い記憶がある。1990年、バブル景気による人手不足を解消するため、政府は入国管理法を改定。その波に乗って、ピーク時には33万人の日系人が南米から日本に移住した。しかし、2009年3月、世界的不況で国内の労働需要が激減、状況は一変する。政府は「帰国支援事業」を打ち出し、日系人失業者に対し一人30万円の支援金を払って、2万1675人が日本を離れた。

「リーマンショックが起きて仕事がなくなった。(政府は)生活保護のブラジル人が増えるだろうと帰国支援金を出す一方で、支援金をもらった人には(日本に)帰ってきたらいけませんよ、とまで言った」。出稼ぎ労働者として日本にやって4半世紀余り。大泉町に住み続け、今は大泉日伯センターの代表取締役として日系ブラジル人を支援する高野氏は、国内事情を優先した政府の対応に不満を隠さない。

昨秋になって、政府は一転、帰国支援事業により帰国した日系人の再入国を認める発表をした。「昨今の経済・雇用情勢等を踏まえ」(法務省)という政府発表の文面には、人手不足を解消したいという政策的意図が透けて見える。「(外国人 労働者は)労働力の供給調整弁として使われているだけ」と、NGOブラジル人労働者支援センターの加藤仁紀理事長は手厳しい。

受け入れ政策の一貫性だけでなく、生活環境への支援にもまだ改善すべき点が多い、というのが在日労働者や支援者の見方だ。今回の成長戦略(日本再興戦略)では、高い専門知識、技術、能力を持つ「高度人材」への積極的なアプローチがあるものの、建設分野などで働くそれ以外の労働者については「対策が一向に進んでいない」と、在日外国人 に雇用コンサルティングを行っているACROSEEDのマネージャー、宮川真史氏は指摘する。

<各省庁が様々な支援> 

政府側も手をこまねいているわけではない。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた建設需要の拡大などを見越して、政府は8月7日、来年度から建設現場の外国人労働者の賃金について、同じ技能を持つ日本人と同水準以上にするよう、受け入れ先企業に義務付けることを決めた。守れない企業に対しては受け入れ打ち切りなどの措置を取る。

また、1993年に始まった「外国人技能実習制度」について、共同通信によれば、政府は実態改善に向け、企業への立ち入り権限を持つ機関を創設する新法の制定を検討しているという。技能実習生について政府は、滞在期限を現行の3年から5年に延長し、受け入れ枠も拡大する方針だが、厚労省が2013年に行った調査では、受け入れ事業所の8割が労働基準法などに違反、いまだに実習生への賃金不払いや人権侵害などが横行しているとみられるためだ。

日本にいる人も含め外国人労働者に必要な支援策は、雇用サポート、日本語教育、地域住民との交流や相互理解など広範囲に及ぶ。厚生労働省はハローワークなどを通じた就労促進、文部科学省は外国人児童への教育、国土交通省は住宅の入居支援、経産省は企業団体との意見交換など、それぞれの官公庁が様々な取り組みを行っている。

そうした政府内の動きを取りまとめる組織として、内閣官房内に関係10省庁間が参加する「外国人労働者問題関係省庁連絡会議」がある。しかし、連絡会議の役割は「事務的な調整」(内閣官房)にとどまっている。各省庁がバラバラの政策をとっており、それを統括する司令塔がないのが現状だ。

外国人労働者問題に詳しい慶應義塾大学の後藤純一教授は、「全体を見渡す組織が不在のまま個別の政策がとられると、内容の重複や食い違いなどさまざまな問題が生じる」と指摘。政府内部で、外国人労働者の基本政策に関するコンセンサスが形成されていない現状の改善を訴える。

政府や企業が外国人労働者の受け入れに意欲を見せても、雇用環境などに十分な魅力がなければ人材確保は難しい。例えば、インドネシア・フィリピン・ベトナムとの経済連携協定による外国人看護師・介護福祉士受入事業は、2009-2013年の5年間、政府の受け入れ枠の5000人に対して、1624人しか埋まっておらず、「来て欲しい人材に実際に来てもらえていない」(後藤教授)現状がある。

「5年で帰ることが決まっている人が、本気で働くだろうか」とACROSEEDの宮川氏は言う。「スキルアップできる国だからこそ、日本に残ろうと思う。もっとしっかりと、外国人が自分のためになりやすい受入体制、研修体制を作ることが必要だ」。

<大泉町を悩ます「生活保護」問題> 

ブラジルからの移住者が集まる大泉町。在日25年になる高野氏は、1991年に自ら設立した「日伯学園」でブラジル人への日本語教育を進めている。ただ、行政による外国人への雇用・日本語教育サポートは不十分で、高野氏は最低限のことは行政が支援すべきだと訴える。これに対し、大泉町側は「役場として(状況を)認識」しているものの、「今のところ行政が主導して日本語教育を行っていく流れにはなっていない」(同町国際協働課)という。

同町の大きな悩みは、生活保護受給者の34%を外国人が占める(今年7月現在)という実態だ。この中には、年金をもらう資格がなく、貯蓄も十分にないため、本国に帰れずに生活保護に頼る高齢の外国人労働者も少なくない。外国人受け入れ拡大の先行きには、こうした問題も立ちはだかる。

労働力人口の減少が日本経済への大きな脅威として浮上する中、外国人労働者の受け入れ拡大は長期的な対応が不可欠だ。しかし、「今はこれから受け入れるという議論ばかりが先行している。既にいる外国人に人道的見地から国際的にも恥じないような対策を講じるのは絶対に必要」と後藤教授は指摘している。

(寺井綾乃 編集:北松克朗)

中国人は、なぜコンビニバイトに殺到するか

2014-08-18 09:22:01 | 多文化共生
(以下、PRESIDENT Onlineから転載)
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中国人は、なぜコンビニバイトに殺到するか
PRESIDENT 2014年8月4日号


4月に行われた経済財政諮問会議と産業競争力会議の合同会議において、安倍晋三首相は外国人労働者の受け入れ拡大に向け、大きく舵を切った。従来受け入れてきた高度外国人材だけでは、労働人口減少への対策として不十分であるという判断を下したのだ。不可避かつ逼迫した議論が慎重になされるよう見守ることが重要だろう。ところで、そういった国の在り方を左右する議論がどのように決着しようとも、すでに日本では留学生をはじめとする多くの外国人アルバイトが働いている。特に都市部であれば、彼らの姿を見ずに1日を終えることはごくまれだろう。彼らの実情に肉薄すべく、中国人留学生である李陳平さん(仮名)にインタビューをした。

「新橋の居酒屋と住宅地のコンビニでバイトしています」

李さんが流暢な日本語でそう話す。日本にやってきたのは2年前。当時は日本語をほとんど話せなかった。

「まず工場で6カ月働きました。工場なら日本語ができなくてもOKですけど、ずっと立ったまま同じことを続けるからとても疲れます。そのあと中国人が経営する中華料理店で8カ月働きました。わからない言葉があってもすぐに助けてくれます」

李さんのバイト遍歴は留学生にとっては典型的コースだ。日本語が上達するにしたがって選択肢が増えるが、大抵は居酒屋やコンビニといった業種に落ち着く。日本語が上達しなければ接客なしの単純作業に従事するしかないので留学生にとって日本語学習は語学習得以上の意味を持つ。

現在、李さんは時給1000円の居酒屋で午後5時から12時まで週に3回、時給900円のコンビニで5時から11時まで週に2回働いているという。なぜ今のバイトを選んだのか。

「居酒屋はやらないといけないことが多いし、たくさん動くし、皿洗いが特に大変。だけど、お給料がいい。コンビニはとても楽ですけど、みんなそのことを知っていて応募するので、シフトを増やすのは無理です。ただし、セブン-イレブンはお客さんに人気があってとても忙しいから、留学生には人気が少ないです(笑)」

李さんは同じ学校の中国人留学生たちとバイトに関する情報を交換している。仲間内で最も人気があるのは、来客の少ないコンビニと、中国語を生かせるデスクワークだ。


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留学・就学生の稼働時間の制限
「貿易会社でバイトしている友達は時給1200円です。座ってパソコンで仕事するだけなのにお給料がいいから、うらやましい。牛丼屋の友人は『疲れた。死ぬ』と言っているから私はやりたくない」

しかし李さんは週に30時間以上働いていることになる。就労制限に抵触しないのか。

「留学生は1週間に28時間までしか働けません。内緒ですけど、個人営業のコンビニでは、労務管理がいい加減で私の労働時間は公にはバレません。お給料はもらっても、税金はかからない、そういうコンビニはたくさんありますよ」

「女性が輝く国」で苦闘するフィリピン人女性の現実

2014-08-18 09:21:19 | ダイバーシティ
(以下、JBPRESSから転載)
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「女性が輝く国」で苦闘するフィリピン人女性の現実
DV被害者やシングルマザーが連帯し、助け合いの場を模索

2014.08.18(月) 巣内 尚子

「女性が輝く日本へ?」 「それはなに?」 「私に関係あるの?」

 安倍政権が掲げる「女性が輝く日本へ」とのスローガンを耳にし、こう感じた読者は男女問わずいないだろうか。

 非正規雇用、家庭内で抱え込まれる介護・育児の負担、長時間就労などにかかわる問題が解決されないまま、「女性の就労(=労働力化)」だけ促されても、多くの女性はそう簡単には輝けないだろう。

 さらに、日本政府は、ある女性たちを忘れているのではないか。それは海外出身の女性たちだ。

 日本で暮らす外国人女性の中には、長年にわたり日本で暮らし、就労し、結婚・出産を経験した人も多いが、困難に直面している人も少なくない。彼女たちは果たして「女性が輝く日本へ」というスローガンの対象になっているのだろうか。

 一方、外国人女性の中には、自ら助け合いの場をつくり、連帯する動きが出るなど、「自分の輝く場」をつかみとろうと模索し、奮闘している人もいる。そんな女性たちが集まる外国人女性支援組織「KAFIN(カフィン)」の道のりを3回にわたり紹介したい。

それぞれの物語を共有し、支え合う女性たち

 「自分のよいところを紹介し合いましょう」

 司会のフィリピン人女性がにこやかに、明るい声で、こう呼びかけた。会場には、フィリピン人が多いが、日本人も少なくなかった。日系ブラジル人とウクライナ人も参加している。来日して10年以上の人も少なくない。中には来日20年ほどを数える人もいる。出席者の中心は女性だが、男性も数人参加していた。

 今からおよそ5カ月前、その日は3月8日の「国際女性の日」に合わせてフィリピン人女性支援組織「KAFIN」の会があった。

 KAFINは在日フィリピン人女性を対象に、DV被害者やシングルマザーらの支援を行う団体だ。フィリピン人女性やこれを支援する日本人が協力して組織運営に当たり、日本の暮らしの中で困難に陥った外国人女性たちが助け合う場を形成している。

 都内からおおむね1時間弱のところにあるコミュニティスペースでKAFINのイベントが開かれ、数十人が集まった。

 広々としたスペースの真ん中に、参加者たちは椅子を持ち寄って楕円形に座った。和気藹々とした雰囲気の中、久しぶりに会う仲間と談笑したり、初対面の者同士が挨拶したりする。

 部屋の入り口付近には、料理やお菓子がずらりと並ぶ。具をたっぷり入れたサンドイッチや海苔巻もあれば、目移りするようなさまざまなおかず、カラフルなクッキーやケーキもある。子供連れの参加者も多く、子供たちがにこにこしながら部屋の隅で仲よく遊んでいて、全体的になんともリラックスした雰囲気だ。

 あまりにゆったりし、気を使わない感じなので、私は自分の子供を連れてこなかったことを少しだけ後悔した。取材先に子供を連れていくことは通常ないことだ。ただし、KAFINの集まりの打ち解けた雰囲気と、子供たちが楽しそうに遊んでいるのを見ると、一緒に来ていたら息子はとても喜んだろうにと思えたほどだった。

 今回の会では、何人かの参加者が自分のライフストーリーを話し、それから各人がペアになり自分のことを語り合うことが行われた。この主眼はそれぞれが自分の話をし、相手の話に耳を傾けることで、悩みや思いを共有するというもの。その後、ご飯やお菓子を食べながら、フィリピン人女性家事労働者を描いた映画『ミグランテ』を観るという流れだ。

 イベントの幕開けは自己紹介だった。女性たちは英語か日本語で、それぞれ自己紹介する際、「自分のよいところ」も教えあった。

 「自分のよいところ」を話すことは、この集まりでは何よりも大事なことだった。女性たちは「自分のよいところ」を損ねられるような経験をこれまでに幾度も経験し、さまざまな痛みとともに生きてきたからだ。

 でも、この日は自分のことを自然に話すことができる日だった。

 「私のよいところはハッピーなところです」

 「私は足立区に住んでいます」

 「私は狭山市のお弁当屋さんで働いています」

 「入間市から来ました。私は料理が好きで、とてもフレンドリーです」

 「私はダンスや歌が得意です。孫が2人います」

 女性たちはこうして、1人ずつ、はにかみながら、あるいは堂々と自己紹介した後、2人ずつになりお互いのストーリーを語り合った。仕事のこと、結婚や離婚、育児をはじめ家族のこと、出身地のこと、そしてどうやってこれまで生きてきて何を感じてきたのかを語るのだ。

 嬉しかったこと、悲しかったこと、驚いたこと、傷ついたこと、一人ひとりの物語が静かに共有されていった。

海外就労するフィリピン人には高学歴者や専門職経験者も

 KAFINでは、フィリピン人や日本人が、DV被害者やシングルマザーといったフィリピン人をはじめとする外国人女性の支援活動を行う。

 外国人女性からの相談を受け、電話や対面で話を聞き、なにができ、なにが課題となっているのかを話し合い、女性たちが困難から脱出できるよう一つひとつサポートする。いわば外国人女性の駆け込み寺だ。

 DVや離婚問題、離婚後の自立や子育ての悩みなどに直面する外国人女性は少なくない。外国人というと、「一時滞在のお客さん」と思う人もいるかもしれないが、実際には日本で働き、中には結婚をし子供を産む人もいるなど、その実態は「生活者」だ。

 一人ひとりが日本という国で、日本人と同じように、日々ご飯を食べ、仕事をし、家族や友人と交流し生活している。しかし、どこかで道がふさがれ困難にぶつかったとき、外国人である彼女たちが問題の解決策を自力で見出すことは簡単ではない。

 フィリピン人女性の中には、来日前に高校や大学で教育を受けた人も少なくない。「アジア出身の出稼ぎ者」という言葉からは、「貧しい国から来た人」といったステレオタイプのイメージが持たれるかもしれない。

 しかし、実際には、貧困層もいれど、中間層や高所得層もいる。出稼ぎに出るために、就労を仲介する業者に手数料を支払ったり、外国での就労情報にアクセスしたりできる人は、最貧世帯の出身者ではないことが多い。

 仲介業者への手数料は借金を背負う形で、出稼ぎ後に返済していくこともあるが、それでも海外で働けるだけの“健康”な身体や語学力、一定の学力などのような資源を持てる層が出稼ぎに出られると考えられる。

 例えば、フィリピンからは大卒の教師、医師、看護師など専門職の人々が、ほかの国に出稼ぎに出ている。なかには海外で看護師として就労したほうが収入がよいことから、医師が看護師免許を取得し、海外出稼ぎに出るケースもある。これはフィリピンの医療に打撃を与える重大な“頭脳流出”だが、それでも海外就労を選ぶ人が後を絶たない。

移動により下降する地位とヒエラルキーへの組み込み

 けれど、国境を越えて移動することは、就労による収入を得るという経済的な恩恵をもたらす半面、出稼ぎ先社会では外国人ゆえに諸権利は制限され、出身地で得た知識やスキルが十分に生かされない場面に直面する。そして、結果的に社会的な地位が下降する。

 出身地で「メイドさん」と呼ばれるような家事労働者を雇用している女性が、出稼ぎ先で家事労働者として就労することもある。本国で教師として働いていた人が、出稼ぎ先でホステスとして働き、その職業から出稼ぎ先社会で差別的な視線にさらされたり、買春や人身売買のリスクを背負ったりすることもあるだろう。

 こうしたことを踏まえ元エンターテイナーが少なくない在日フィリピン人女性について考えると、外国人であり、アジア出身者であり、女性であり、エンターテイナーのステレオタイプなイメージと結び付けられやすいということは、四重の制約となって彼女たちにのしかかることが想像できる。

 そして、そのことにより、彼女たちが日本社会における民族・ジェンダー・職業のヒエラルキーの下位に位置づけられてしまうことが懸念される。

 女性たちは就労できる分野が限られ、ときに差別的な扱いに遭遇することもある。DVや離婚、シングルマザー/シングルファザーとしての就労と子育てを乗り切るのは、日本人の女性や男性も簡単ではないが、外国人女性はさらに難しい。それは、とても1人で対処できるものではない。

 だからこそ、KAFINに集まることで、相談し合い、助け合い、お互いを認め合う場をつくろうと模索している。KAFINの女性たちは自分の悩みを話し、別の誰かの悩みを聞くという営みの中で、支え合っている。

紛争地からやって来た女性が立ち上げたKAFIN

 こうした女性たちが集まるKAFINとは、どうやって生まれたのか。それを知るため、KAFINを立ち上げたフィリピン南部ミンダナオ島出身の長瀬アガリンさんを訪ねた。

 西武線のある駅で待ち合わせたアガリンさんは、穏やかな雰囲気の人だった。黒目がちでくりっとした大きな目が印象的で、見つめられるとなんだかどぎまぎするほどだ。

 駅の改札口でアガリンさんに自己紹介すると、彼女は少しはにかんで、流暢な英語で自己紹介をしてくれた。すぐに打ち解けた雰囲気になれ、改札を出てすぐのところにある店に入り、ドーナツとコーヒーをそばに置いて話を聞いた。


KAFINを立ち上げた長瀬アガリンさん(筆者撮影)
 アガリンさんは1963年生まれで、ミンダナオ島ジェネラルサントスの出身だ。ミンダナオ島はマニラ首都圏のあるルソン島に次ぐフィリピンで2番目に大きな島。

 ダバオの麻栽培に日本からの移民がかかわった歴史があるほか、太平洋戦争時には日本と米国が戦闘を行うなど、日本にもなじみが深い。フィリピン出身の世界的なボクサー、マニー・パッキャオもミンダナオ島ブキドノンの出身として知られる。

 しかし、ミンダナオ島ではこれまで、モロ・イスラム解放戦線などの反政府勢力とフィリピン国軍との武力紛争が続き、多数の犠牲者を出してきた。

 私はフィリピンにいた際、マニラ首都圏のマカティで暮らし、仕事をしていた。周辺は住宅や学校、オフィスビル、商業施設が立ち並び、紛争などとても考えられない雰囲気のところだ。

 人々は休日、マカティのショッピングモールで映画を観たり、カフェに行ったりして過ごしており、同じ国で紛争が続いているとは思えないほどだった。だが、そんなマニラ首都圏でも、新聞などにミンダナオ島の紛争の情報が途絶えることはなかった。

 紛争が続くことなどから、資源に恵まれつつもミンダナオ島の経済開発には課題もあり、貧しい地域が残されている。マニー・パッキャオがフィリピン人の心を強くとらえるのは、苦難を抱えるミンダナオ島の貧困家庭に生まれながらも世界に知られるボクサーへと駆け上がったという彼の物語が、庶民たちの心情に訴えるものがあるからだろう。

 こうしたミンダナオ島で生まれたアガリンさんだが、自身も紛争に巻き込まれ、つらい思いをしてきた紛争の当事者であり、被害者である。

 だが、アガリンさんは被害者として打ちひしがれているばかりではなかった。1983年から10年以上、紛争により被害を受けた女性を保護・支援する女性センターで働いたのだ。紛争により夫を亡くしたり、攻撃を受け傷ついたりした女性たちの支援活動に当たった。そうしてコミュニティ内での支援活動のノウハウやスキルを蓄積していった。

来日して初めて知ったフィリピン人女性が抱える問題

 そんなアガリンさんが日本とのかかわりを持ったのは、ボランティアでフィリピンに来ていた現在の夫と出会ったことがきっかけ。その後、2人は結婚を決め、アガリンさんは1996年に夫とともに来日した。

 来日当初は、台東区と荒川区にまたがるいわゆる「寄せ場」と呼ばれる「山谷」を訪れるなどし、日本が抱える課題を目の当たりにすることもあった。「豊かなはずの日本なのに、不利な立場に置かれた人がいる」ことに驚いたという。

 一方、アガリンさんは当時、日本でフィリピン人女性がエンターテイナーとして多数就労していることは知らなかった。しかし、日本で過ごすうちに、多数のフィリピン人女性が日本で暮らしていること、そして悩みを抱えるフィリピン人女性が少なくないことに気がついたのだ。

 特に大きな問題だと感じたのは、パートナーからのDVだった。日本人の夫や恋人によるDVで、心身が傷つけられたフィリピン人女性がいたのだ。

 そうしたフィリピン人女性の多くはエンターテイナーとしての就労をきっかけに日本で暮らし始め、後に日本人男性と結婚したり、付き合うようになったりした人たちだった。

 ミンダナオ島で女性支援活動を行ってきたアガリンさんは、日本にいるフィリピン人女性を放っておくことができず、自ら支援組織を立ち上げることを決断した。それがKAFINなのだ。1998年に埼玉県内にKAFINを設置し、活動を開始した。

 そして今、KAFINはフィリピン人女性を中心に外国人女性が集まり、助け合う場となっている。DVや離婚、シングルマザーといった課題について、当事者自らが協力し合いながら問題解決の道を模索している。

 ではKAFINに集まる外国人女性たちには、実際にどんなことが起きているのだろうか。次回は、フィリピン人を中心に外国人女性が直面した問題について見ていきたい。

ダイバーシティ推進の鍵は管理職の意識

2014-08-18 09:20:50 | ダイバーシティ
(以下、日本経済新聞から転載)
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ダイバーシティ推進の鍵は管理職の意識
2014/8/18 6:30

日経ウーマンオンライン

 終身雇用制度が崩れ始め、誰もが「自分らしい働き方」を模索する時代がやってきました。私たちの働き方はこれからどのように変わっていくのでしょうか? 経済産業政策局・経済社会政策室長の坂本里和さんに、これからの女性の働き方について教えていただきました。

 私は現在、「ダイバーシティ経営企業 100選」などのプロジェクトを推進しています。文字通り、ダイバーシティ経営に意欲的に取り組む企業を経済産業省が選定する取り組みです。こうした取り組みを通じて感じるのは、ダイバーシティ推進のカギを握っているのは、両立支援制度の導入ももちろん大変重要なのですが、それ以上に、現場のマネジメント改革だということです。

 多様な人材活用に取り組むインセンティブを管理職側に与えないと、ダイバーシティはなかなか進まないと感じています。例えば、多様な人材活用を管理職自身の評価項目として追加するといったことは効果的な試みの一つです。


■IT技術の進化でワークとライフの距離が近くなる

 女性の活躍にとって、多様で柔軟な働き方を推進することはとても重要です。その代表的なものに「モバイルワーク」というものがあります。

 これは、オフィスに限らず、時間や場所に縛られずにIT技術を活用して働く形を指します。具体的には携帯電話やノートパソコン、さまざまなファイル共有の仕組みなどを用いて時間や場所の縛りを極力排する働き方ですね。このモバイルワークも浸透の壁になっているのはセキュリティーの問題よりも、マネジメントの意識の問題だといわれています。

 部下が目の届く範囲にいないと不安、部下の仕事ぶりを自分の目で見て管理したい――こうした思いをマネジメントが抱いているとなかなか浸透しないのも道理です。

 日本マイクロソフトでは自社製品を使って積極的なモバイルワークに取り組み、単位時間あたりの売り上げが17%向上したそうです。例えば、営業の外回りをしていて、レポートを書くために会社に戻らないといけないということになれば移動の時間が余計にかかりますが、モバイルワークができれば家でも喫茶店でもどこでも仕事ができる。生産性が向上するという結果が見られます。

 こうしたモバイルワークを導入するにあたっては評価の在り方も変えていかなくてはいけません。職場に長くいる人ほど評価されるような価値観から脱却しないといけないということです。

 時間の長さではなくあくまで「成果」で評価するためには、一人ひとりが自律的に働ける状態になることが重要です。企業側も個人にある程度の裁量を与えることが求められます。

 「自律的に働く」というのは、業務を属人化させようということでは決してありません。社員のワークライフバランスを考えると、なるべく業務は属人化しないほうが望ましいのです。そこでやはり重要なのが「モバイルワーク」です。属人化させるとその人は職場を離れられなくなってしまいますが、IT技術を使って情報共有を行うと誰でも同じ知識を持って事に当たることができるようになります。その人は必ずしも職場にずっといなくてもよくなります。

 ある程度、ひとりひとりの担当が決まっていてその人がやり方も含めて自律的に働くことができると同時に、情報をシェアすることが重要ということです。

 私のチームにも、少し前まで、ワーキングマザーで、週3日在宅勤務をしている人がいました。最初はお互い手探りの部分もありましたが、慣れてしまえばオンラインでのやり取りが増えることで記録に残りますし、ペーパーレスにもなる。互いにこまやかに情報共有するようになり、かえって業務の進行にはプラスになったように感じています。

 「ワークライフバランス」というと、1日24時間をワークとライフで切り分けるような印象がありますが、テクノロジーの進化で働く時間や場所を自由に選べるようになると、ライフとワークが、個々の事情に応じて最適な形でミックスされていくようなイメージを持っています。

 例えば、家で子どもの様子を見守りながら業務のメールをチェックするといったことができるわけです。一般的には女性のほうがこうしたマルチタスク(家事こそ最たるものですが)は得意と言われていますから、未来は女性にとって、より働きやすいものになっていくのではないでしょうか。

この人に聞きました

坂本里和さん
 経済産業省 経済産業政策局 経済社会政策室長「ダイバーシティ経営企業100選」「なでしこ銘柄」担当。東京大学法学部卒業後の95年に当時の通商産業省へ入省。98年~2000年にかけてアメリカの法科大学院へ留学。2011年から現部署。女性がワークライフバランスを取りつつ、生き生きと活躍できる環境づくりのため、女性の活躍を推進する企業を後押ししている。監修した書籍『ホワイト企業 女性が本当に安心して働ける会社』(文藝春秋)が話題に。私生活では4女の母。

(ライター 田中美和)

[nikkei WOMAN Online 2014年6月25日付記事を基に再構成]

女性管理職6.2% 1万社回答 政権目標に遠く

2014-08-15 09:39:50 | ダイバーシティ
(以下、東京新聞から転載)
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女性管理職6.2% 1万社回答 政権目標に遠く

2014年8月15日 朝刊


 企業の管理職に占める女性の割合の平均は6・2%で、男性だけの企業も半数を超えることが十四日、帝国データバンクの調査で分かった。今後増加すると見込む企業も20・9%にすぎなかった。安倍政権は成長戦略で「二〇二〇年に指導的地位に占める女性の割合を30%にする」との目標を掲げているが、実現には程遠い状況だ。調査は七月下旬に実施し、全国の一万一千十七社が回答した。
 企業からは登用が進まない理由として、仕事と家庭の両立の難しさを挙げる声があり、帝国データは「働きながら出産、子育てができる環境の整備が重要だ」と指摘している。
 調査によると、現状で女性管理職がいない企業が全体の半数を超える51・5%を占めた。管理職に占める女性の割合が30%以上の企業は5・3%にとどまっている。
 女性管理職の割合が過去五年間で「増加した」とする企業は17・4%で、「変わらない」が72・8%だった。今後についても「変わらない」が61・0%と多数で「増加する」は20・9%だった。
 業種別では、小売りや不動産、金融、サービスで管理職に占める女性の割合が高く、製造や建設、運輸・倉庫で低かった。