多文化共生なTOYAMA

多文化共生とは永続的なココロの営み

(とやまのラーメン紀行10)2013/07/30

2000-01-10 22:05:58 | とやまのラーメン紀行
(とやまのラーメン紀行10)2013/07/30
「ラーメンの多文化共生」

「多文化共生」とは、総務省の定義では「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」と定義づけられています。
「国籍や民族」に限定すると、なかなか話が難しいですが、ここに「など」が付いているので、「地域」「食品」「料理」も含まれると考えてみましょう。
そのアウトプットが「中華料理」や「東北地方の田舎料理」といった感じです。

飲食業界においては、師弟関係や暖簾分けなど、様々な形態によって味の継承が行われることは、「ラーメン紀行8」に掲載したところですが、県外出身者が、富山県内に出店し、店主自らの味覚文化を表現しつつ、消費者たる富山県民の味覚と共に生きている事例は多数あるようです。

例えば、高岡の「翔龍」店主は、北海道旭川の出身で、自身の原点である旭川ラーメンを目指したようです。旭川には豚骨醤油の「天金」という有名な店舗もあり、自分も食べに行ったことがありますが、なるほど旭川の潮流を再現したのが「翔龍」なのかと再認識したことがあります。
さはさりながら、旭川そのまま直輸入ではないところが、味を完成したフランチャイズ店の他県進出とは異なるところです。人が移動し、生活し、その地域での交流から生まれるものがある。すなわち、多文化共生。

青菜の炒め物であっても、中国で食べるものと日本で食べるものは異なる。肉の串焼きであっても、ブラジルで食べるものと日本で食べるものは異なる。しかし、互いに素材を活かしつつ、調理人も味わう人も変化する関係の中から新しい世界が生まれる。

「翔龍」では、その味の伝承はさまざまなようですが、「旭屋」、「白晃」、「麺華山」、「一龍」、「我楽」、「味楽」など、確実に富山のラーメンとして根付いているようです。さながら「旭川系富山ラーメン」といったところかと思われます。

ちなみに、今は閉鎖された某とやまのラーメンを応援するウェブサイトにおいて、「翔龍」に端を発する各店舗を総称して、K氏が「龍系」と命名したことから、今でもその呼称が使用されることもあるようです。

(写真は、文中の「味楽」の醤油ラーメン大盛)


(とやまのラーメン紀行9)2013/07/26

2000-01-09 22:02:42 | とやまのラーメン紀行
(とやまのラーメン紀行9)2013/07/26
「薬都とやまのラーメン」

富山県外の人に出身地を聞かれ、「富山です」というと、「あー、あの有名な富山ブラックのある県ですね」と言われることは、まだまだ、あまりないのですが、30~40年前であれば、石原裕次郎、三船敏郎出演の「黒部の太陽」の映画のヒットもあり、「黒四ダムのある県です」というと、ほぼ通じました。10年度ほど前なら、「『ホワイトアウト』ロケ地の黒四ダムのある県です」かな。今なら「『おおかみこどもの雨と雪』の舞台地です」といったところでしょうか。

さらに、100年単位で遡るなら、「『越中とやまの薬売り』の富山です」といえば、ほぼ間違いなく通じるところです。テルマエ・ロマエのケロリンの富山ですと言ってもいいかもしれませんね~。笑

こうした漢方、薬に着目したラーメンがないかというと、あるのです。最近では「麺家いろは」で、薬膳ラーメンや薬膳薬味を加える味噌ラーメンが知られるようになってきましたが、「まるぜん」(開業昭和8年)では、昭和60年代に蕎麦に生薬を練り込む蕎麦を提供する「くすしそば」を提供しはじめ、この技術を活かし、ラーメンの麺にも生薬を練り込むといった手法が採られたようです。
そのラーメンの名は「薬師ラーメン」といったものではなく、ストレートに「中華そば」となっています。古くから蕎麦屋の中華として提供しておられたようで、「富山ブラック」の名に似つかわしい濃厚で、歴史の重厚さを感じさせる味わいです。麺を食べると、なるほど確かに生薬が生きているようです。そして、シナチク、チャーシューも逸品です。
最近では、この「中華そば」に加え、新たなメニューとして、昭和の味わいの復刻版を提供する「支那そば」も提供しています(中華そば-100円の料金です)。40~60歳くらいの年代の人が食せば、「あぁ~、これこれ、これが昭和のラーメン」と、きっと大きくかぶりを上下させることでしょう。
個性光る名店のひとつです。
もちろん、蕎麦も食しましょうね!

(写真は、文中の「まるぜん」の中華そば(上)、支那そば(下)。)



(とやまのラーメン紀行8)2013/07/14

2000-01-08 22:00:23 | とやまのラーメン紀行
(とやまのラーメン紀行8)2013/07/14
「受け継がれるもの」

終戦後以降、富山のラーメンを支え、こよなく富山県民に長く親しまれてきたお店に、「大喜」と「まるたかや」があります。

この両店とも、ある時期から県内に複数店舗展開を始めます。かたや「元祖富山ブラック」ののぼり旗を立て、かたや「ラーメン王国」のキャッチコピーの名のもとに。かたや漆黒の鶏がらスープ、むっちり太麺、高濃度シナチクに大量のチャーシューと厚切りネギそして粗挽きのコショー。かたや豚骨醤油のスープ、カリカリに揚げた背脂、すりおろしニンニクそして串に赤割。経営者が変わっても、両店の発祥店には、今なお行列が途絶えることがありません。

人間という生き物は、長くても100年ほどしか生きることができず、このため、同じ店舗や会社であっても、経営者が変わっていくということが、世の常です。どんな大国、大企業であっても、この宿命に立ち向かうことはできないのです。

しかし、この複数店舗展開以前に、両店には暖簾分けをしたお店があります。これが「大喜根塚店」や「まるなかや」「まるたや」であったりします。「大喜」創始者の弟子であった方が後日開店し、その味を再現されているという「喜八」などもあります。直系、傍系、姉妹店、弟子入り、暖簾分けなどなど、味の継承にはさまざまな形態があるでしょう。こうした関係性をつぶさに知る由もない消費者にとっては、その味がオリジナルであるかどうかなど、ほとんど意味をなさないことに等しいのかもしれません。
県東部の巨人として名を馳せた「山久」も経営者が変わっているようですが、初代店主がその味を求めたという妙高方面の店舗自体が既に当時の姿を留めない形に変化していることを考えると、オリジナルという言葉は「起源」という意味は持つものの、常に今現在が、オリジナルであると考えるべきではないかと思うに至ります。

例えば、大沢誉志幸のCMソングやアーノルド・シュワルツェネッガーがヤカンを振り回していた頃の日清カップヌードル、さらには、それ以前にゲームセンターで食べたカップヌードルなど、今でも「あのときのカップヌードル、食べたいなぁ~」という気持ちに誘惑されることがありますが、常に現在進行形で変化し続ける世の中にあっては、それを求めるのは、なかなか困難なことのようです。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
毎日毎瞬の出会いを大切にしていきたいですね。

(写真は文中にある「まるたかや」牛島店)


(とやまのラーメン紀行7)2013/06/26

2000-01-07 21:58:23 | とやまのラーメン紀行
(とやまのラーメン紀行7)2013/06/26
「変わりゆくもの、変わらないもの」

ときは西暦の節目を迎えようとします。
いつからか、休日のテレビ番組では、ラーメンをはじめとした外食を紹介するものが増えてくるようになりました。富山においても「街食本」をはじめ、ラーメン店や寿司などの個別専門的な情報誌も発刊され、インターネット上でも個人運営サイトからイエローページ的な飲食店を紹介するサイト、ランキング的に人気店を掲載するサイトなど、さまざまな媒体・形式でラーメンが紹介され、メニューや料金、営業時間、定休日などの店舗情報が事細かに掲載されるなど、その情報量も多くなってきました。

ラーメンへの人気が高まれば高まるほど、新規参入する意欲を持つ経営者も増え、県内のラーメン店の新陳代謝は否が応でも高まります。
「NOODLE BAR BUGSY」は、横浜家系の特徴を携え、古いアメリカンロックなテイストでの雰囲気で店内を装飾し、それまでの富山県民のラーメンの先入観を見事に打ち砕きました。「こられん華」は、身体への優しさをキャッチコピーに、女性客のハートを鷲掴みしました。そして佐野実氏直伝の「支那そばや」(当時は長江店)は、その洗練された進化形のラーメンを引っさげ、行列の好まない富山県民の常識を覆しました。「ひさちゃん」、「じゃん鬼」では、メニューに白、黒、青などの新しい概念のレパートリーを組み込み(「ラーメンA、B」というメニューを掲げる店もありました)、「ラーメン工房」では、「ちゃんぽん」をメインメニューとして掲げ、度肝を抜きました。富山のラーメン界にも多様性の芽が芽吹き始めるのでした。
こうした数々の新しい風が県内に持ち込まれ、その後も、確実に富山県民に浸透していったラーメン店がある一方で、新しく開店しては廃業していくお店も数多くありました。栄枯盛衰。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
こうして富山のラーメン界は21世紀を迎えるのでした。

一方で、富山で最も歴史のある店が何であるか、定かではありませんが、昭和6年創業の店舗があります。そう、「柳の下」の愛称で親しまれる「末弘軒」です。その営業年月はおよそ80年超。3代にわたり味を引き継いでいくことも至難の業ですが、新陳代謝が行われるこの業界で、常に受け入れられ続けるということは、さらに困難を極めます。まさに奇跡的なことでしょう。
変わらぬ味、また、味を変えながらも引き継がれる味。
「変わりゆくもの、変わらないもの」。
富山のラーメン界は21世紀以降、新たな局面へと移っていくのです。

(写真は文中にある「末弘軒」の「ワンタン麺」の味濃いめ、麺固め、ネギ増量。)


(とやまのラーメン紀行6)2013/06/24

2000-01-06 21:53:10 | とやまのラーメン紀行
(とやまのラーメン紀行6)2013/06/24

漆黒スープの「富山ブラック」が、富山のご当地ラーメン(の候補)として一翼を担い始めた頃、庶民派ラーメンの一翼として頭角を現してきたラーメンは「九頭龍」(当時店は閉店)ではないでしょうか。「日本一座席数が多い」店舗として看板を出し、庶民派の特長を捉えた「鶏がらベースの醤油+ちょっと甘め」、「プルプルしたやや太麺」、「トロトロの煮豚系のチャーシュー」の三種の神器を引っさげ、その席数に負けぬ人気を博し始めました。

この頃から富山のラーメン界及びその消費者(または愛好家)は、確実に「富山のラーメン」を意識し、その道を歩み始めたといえるでしょう。

1993年に横浜ラーメン博物館が開店し、この富山の地にもその存在が知られてきた頃、ラー博で「幻のラーメン」を供したという匠ゆうじ氏が高岡の「十軒坊」を手がけたということで、富山のラーメン好き(及びその予備軍)は否応なく、全国のご当地のひとつである富山を意識し始めます。
THE HIGH-LOWSの「日曜日よりの使者」の如き、あったかで心休まる富山県民の「日曜の昼の家族とのインスタントラーメン」であり「ご近所の外食」であったであろうラーメンは、沸々とマグマ溜まりを地表へと移行させていったのです。

(写真は「日曜日の親善大使」のイメージ)


(とやまのラーメン紀行5)2013/06/20

2000-01-05 21:51:15 | とやまのラーメン紀行
(とやまのラーメン紀行5)2013/06/20

こうして徐々に富山県内にその名称と特徴が浸透し始めた「富山ブラック」ですが、古くから地域住民に愛されてきた庶民派ラーメンも、地元情報誌などがラーメン特集を組む中で、地力をいかんなく発揮してきました。
そのほとんどが、鶏がらベースの醤油、すなわち黄金色のスープのものです。富山ゴールドの命名がないのが不思議なくらいです。

二日酔いに格別という魚津の「やまや」や「四十万食堂」、お昼のほっと一息の大山町の「吉乃」、中心市街地の一角にありながら独自のスタイルを固持する富山の「かねや」、出前と言えば「東京亭」や「月見」、週末にはご近所さんたちで賑わう小杉の「ニューいちい」、中高生にも愛される高岡の「ますや食堂」、その佇まいから歴史と愛着を感じざるを得ない福光の「春乃色食堂」など、その土地その土地の人々に愛され、今なお愛され続ける富山のラーメンがそこに息づいています。

写真は文中にある「かねや」。
カツオの香りと、ほのかな甘みが正しい昭和の時代を想起させます。


(とやまのラーメン紀行4)2013/06/10

2000-01-04 21:37:20 | とやまのラーメン紀行
(とやまのラーメン紀行4)2013/06/10

さて、「めん八」のブレイクが、ドアーズのLight My Fireの如く、富山県民の「ハートに火をつけ」たのか(どうかは定かではありませんが)、県内に漆黒のスープを提供するラーメン店が焔のように広がり始めました(かどうかは、本当に定かではありません。笑)。
Windows95とインターネットの普及により、情報提供者、閲覧者、さらには消費者、店舗など、さまざまな立ち位置の人々が一杯のラーメンへの熱い想いを語り始めたのです。

すでに閉鎖されていますが、ネット上の富山のラーメンサイトの老舗には2つのサイトがありました。1つは、管理人一人が富山県内のラーメン店を食べ歩き、営業時間、定休日、メニューや値段の掲載とともに、当該ラーメンに一言、添えているサイト。膨大な店舗が掲載されており、お世話になった人も数知れないようです。もう1つは、不特定多数の投稿者が、ラーメン店への誹謗中傷をしないルールの下、思い思いのラーメン情報を書き込み、それにレスを付けていく定性志向のサイト。

そして、後者のサイトの管理人により「富山ブラック」が命名されたのですが、曖昧な記憶によると、その特徴は、真っ黒もしくはそれに近い茶色のスープ、太麺、ネギがたっぷり乗っている場合が多く、粗挽きコショーもデフォルトでかかっているものも多い。食し方としては、チャーシューをウハウハと崩しつつ、ときにニンニクをたっぷり入れて召し上がれ!というような感じ(もう少しスマートな表現だったように思います<(_ _)>)で紹介されていたようデス。
富山ブラックの店名として、「大喜」「竜豊(閉店)」「めん八」「虎矢」「めん家(当時は高志会館南)」「ダルマヤラーメン」「ぼんてん」「万里」などが具体的店名として掲載されていたと(曖昧ですが)記憶しています。

さらに興味深いことは、富山ブラックを提供する店であっても、店によっては濃い(若しくは塩分濃度の高い)タイプと薄いタイプのメニューを提供するものもあることです。「虎矢」では「中虎(こってり)」、「小虎(あっさり)」、「ダルマヤラーメン」では、「元祖(あっさり味)」、「ヤング(濃い口)」、「ぼんてん」では、「ぼんらーめん(濃口)」、「てんらーめん(薄口)」などそれぞれです。漆黒スープの「めん八」においてはさらに、「ドライ(DRY)」といったその濃い口をさらに探求したメニューがあります。

このときの「富山ブラック」をひとつの地平として、新たな地下茎(リゾーム)が派生していくのです。

写真は文中にある「虎矢」の「中虎」。



(とやまのラーメン紀行3)2013/06/09

2000-01-03 21:30:12 | とやまのラーメン紀行
(とやまのラーメン紀行3)2013/06/09

ときはバブル経済崩壊の前後、富山のラーメンを総合的に扱ったメディアはまだ登場していません。思い思いにそれぞれの行きつけのお店の情報交換を始めた頃です。
テレビや情報誌が特集を組み始めた頃も、この状況にあまり変化が現れません。業界関係者にしても、全体像を捉えているわけではないからです。
そんな中、情報の集まる人・場所として、例えば、タクシー運転手が選ぶラーメンベストXXみたいな特集が組まれはじめ、地元新聞紙にも県内各地のラーメン店が掲載され始めました。選択の基準は、どちらかというと、地元で長く愛され、万人受けしているお店が多かったように思います。
例えば、県東部なら「おもだかや」、富山市界隈の「あっちっち」、県西部なら「マリモ」などでしょう。そうそう、タクシー運転手がチョイスする「駅前ひげ」も知る人ぞ知るといった雰囲気が人気を呼びました。

こうした中、休日、家族連れが食べるラーメンとして、「8番らーめん」、「西山ラーメン」は不動の地位を築きつつありました。この両フランチャイズ店は、さながらビートルズとローリング・ストーンズのように富山の家族連れのハートを鷲掴みし、互いが互いを評価しつつも、各々の顧客を伸ばしていくのでした。

美味しんぼ連載から10年が経ち、テレビでは料理の鉄人が始まり、世のグルメ志向は地元へと目を向け始めるのです。そして地元メディアもラーメン特集をこぞって開始し、ときはWindows95の登場を迎えます。

(写真は8番らーめん西山ラーメンHPからの転載)

(富山のラーメン紀行2)2013/06/08

2000-01-02 21:27:50 | とやまのラーメン紀行
(富山のラーメン紀行2)2013/06/08
「富山ブラック」に限らず、富山のラーメン店のスタンダードメニューのほとんどが醤油であり、かつ鶏がらベースが一般的です。「昔ながら」ではなく、「昔からある」ラーメン店、食堂のほとんどがそうでしょう。自分が小学生の時に、おばあちゃんに出前で取ってもらっていたラーメンもそうでした。

学生時代に北海道にいた自分は、当地で味噌や塩、醤油であってもとんこつベースのラーメンに出会い、バブル経済崩壊前後に富山で就職するのですが、帰省してみると、鶏がら醤油がほとんど一般的であることが、すでにご当地メニューであることの一端を知ります。

当時の情報環境は、前回のとおりですが、インターネットもなく、情報誌でもラーメンが掲載されず、ほぼ口コミが中心となっていました。自分の周辺では富山の3大ラーメンというと、「大喜」「まるたかや」そして「じんじゃらーめん」でした。(このあたり、「日本の3大XX」と同じように、?番目に何がエントリーするのかは、対象により、評価する人により、かなりバラつきがあるとご理解くださいませ。)

そして、ほぼときを同じくして1990年前後に、超絶のラーメンがあると聞きました。小杉町太閤山の「めん八」です。当時からすでに行列店でした。見た目は「大喜」と同様、スープが漆黒。しかし「大喜」ほど塩辛くない。何故だ!このインパクトが、のちの「富山ブラック」として百花繚乱、咲き乱れる契機のひとつとなったのではないかと思うのです。

世の中は、時の官房長長官によって、「平成」と命名されたことが広報された頃でした。

(富山のラーメン紀行1)2013/06/07

2000-01-01 21:25:55 | とやまのラーメン紀行
(富山のラーメン紀行1)2013/06/07
県外での研修では、ほぼ毎回、何かに絡めて「富山ブラックって知ってますか?」と質問します。その筋では、それなりに全国的にも名が知られているようですが、自分が聞いた感じですと、100人に1人知っているかどうかってところです。
県内では今や、その名称を知らない人はいないほどの「富山ブラック」。とあるサイト運営者が、富山のラーメンの特長を例示しつつ、命名したのがその起源であり、その時期は自分の曖昧な記憶では、およそ2000年前後だったはず。それを自認する店舗ではのぼりを掲出し、テレビや情報誌に掲載され、およそ10年でほぼ全県民に浸透し、さらにはブラウン、レッド、ホワイト、グリーンなど派生商品も生まれ、富山ブラックを食べに来るといった観光資源にまで成長している。おそるべし!

富山ブラックの老舗的店舗である「大喜」を初めて食したのは1982年(昭和57年)。当時、かなり塩辛い味付けが好きだった自分は、その独特の雰囲気に翻弄されつつも、一口でその圧倒的な存在感に魅了された。自分が知っているラーメンとは別の食べ物だった。その頃、自分は県東部に住んでおり、ラーメンと言えば袋ラーメン若しくは近所の食堂の出前。七越ラーメンが閉店しており、8番らーめんが開店し始めた頃。すでに年長の知人からは、富山市には「大喜」というラーメン店があり、「チャーシューがどんぶり一杯に乗っていて、麺が見えない」と聞いていた。テレビや情報誌で掲載されることもなく、もちろんインターネットもなく、情報は人から人へと伝えられていたのでした。
(もしかしたら連載するかも…)

写真は当時の面影を残す「大喜根塚店」