ユングの講演(1933年2月)
ユングの言葉です。
「私たちがこれまで、ひとえに個人主義的な傾向を貫いてきた結果、いまやその補償として集合的な人間への退行が始まっています。それが威を振るっているのが、今日見られる集団の圧力です。だからいま、だれにも押し止めることができない雪崩に襲われたような、ある種の破局の雰囲気が世を覆っているのも不思議ではありません。集団的人間が個人を窒息させようとしていますが、人間の営為に最後のところで責任を負うのは、その個々人の人間しかいないのです。集団そのものは、常に無名で責任を負うに足りません。いわゆる指導者(フューラー)なるものは集団運動の避けて通れない症候なのです。人類の真の指導者とは常に、自己を省み、集団の重みをせめて自己の重みの分だけは軽くしようとして、自然法則のままに盲目の運動に身を委ねる集団から、意識的に距離を置いた人間なのです。しかし誰が、この互いにすがり合い、互いを引きずり込む圧倒的な吸引力に逆らうことができましょうか?それはただ、外の世界だけでなく、内なる世界にも足を踏まえた人であります。内なる世界の門は狭く、隠されています。そこへ入ることを妨げる予断や偏見、意見や不安は数え切れません。人々は政治や経済の巨大なプログラムという、いつもきまって諸国民を泥沼に引きずり込んできた代物にばかり喜んで耳を傾けています。ですから隠された入口だの、夢だの、内なる世界だのを口にすれば、グロテスクにしか聞こえないでしょう。そんな漠然とした観念論が、巨大な経済計画やいわゆる現実問題を前にして何をしようというのでしょうか?しかし私は国家などに語りかけているのではない。ひとえに個々の人間、私たちの文化的所産が天から下ったものなどではなく、私たち一人一人の人間が最終的な作り手なのだと信じて疑わない少数の人々に話をしているのです。」
ユングの言葉です。
「私たちがこれまで、ひとえに個人主義的な傾向を貫いてきた結果、いまやその補償として集合的な人間への退行が始まっています。それが威を振るっているのが、今日見られる集団の圧力です。だからいま、だれにも押し止めることができない雪崩に襲われたような、ある種の破局の雰囲気が世を覆っているのも不思議ではありません。集団的人間が個人を窒息させようとしていますが、人間の営為に最後のところで責任を負うのは、その個々人の人間しかいないのです。集団そのものは、常に無名で責任を負うに足りません。いわゆる指導者(フューラー)なるものは集団運動の避けて通れない症候なのです。人類の真の指導者とは常に、自己を省み、集団の重みをせめて自己の重みの分だけは軽くしようとして、自然法則のままに盲目の運動に身を委ねる集団から、意識的に距離を置いた人間なのです。しかし誰が、この互いにすがり合い、互いを引きずり込む圧倒的な吸引力に逆らうことができましょうか?それはただ、外の世界だけでなく、内なる世界にも足を踏まえた人であります。内なる世界の門は狭く、隠されています。そこへ入ることを妨げる予断や偏見、意見や不安は数え切れません。人々は政治や経済の巨大なプログラムという、いつもきまって諸国民を泥沼に引きずり込んできた代物にばかり喜んで耳を傾けています。ですから隠された入口だの、夢だの、内なる世界だのを口にすれば、グロテスクにしか聞こえないでしょう。そんな漠然とした観念論が、巨大な経済計画やいわゆる現実問題を前にして何をしようというのでしょうか?しかし私は国家などに語りかけているのではない。ひとえに個々の人間、私たちの文化的所産が天から下ったものなどではなく、私たち一人一人の人間が最終的な作り手なのだと信じて疑わない少数の人々に話をしているのです。」