多文化共生なTOYAMA

多文化共生とは永続的なココロの営み

廃人ドラッグ、に思う

2014-08-19 22:10:01 | ダイバーシティ
(以下、毎日新聞から転載)
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発信箱:廃人ドラッグ、に思う=小国綾子
毎日新聞 2014年08月19日 東京朝刊

 厚生労働省の募集した「脱法ドラッグ」の新名称として「廃人ドラッグ」という案が、実際に採用された「危険ドラッグ」より票を集めたと聞いて、胸が苦しくなった。確かにその方がインパクトは強いかもしれない。でも「廃人」では薬物依存者への偏見を助長する。

 17年前、薬物依存者と家族を1年間取材した。ドラッグに深く依存する人の多くは、いじめや虐待を受けた過去があったり、人付き合いが苦手で自分に自信がなかったり、さまざまな困難を抱えていた。「クスリが唯一の友だちだった」という声もよく聞いた。親たちの闘いも壮絶だった。友だちより家族より命よりドラッグが大事、となった依存症の我が子から、金をせびられ、暴力を振るわれ、子供の借金の取り立てまで……。かばうことが我が子の回復を遅らせると学び、時には警察に通報し、毅然(きぜん)と対応しようと努める親の切なさ。ある母親は当時妊娠中だった私のおなかを何度もなで、「ほめて育てろと聞いて懸命にほめて育てたのに、それが娘を『良い子でないとほめてもらえない』とクスリへと追いやったなんて」と泣いた。

 法の網をかいくぐり、新たな化学物質が次々登場する危険ドラッグは、規制や取り締まりだけでは抑え込めない。遠回りに見えても、乱用・依存者への治療や回復支援を充実することこそが、交通事故など悲しい事故に巻き込まれる被害者をこれ以上生まないことにつながるはずだ。

 生きづらさを抱え、ドラッグに頼り、しかしそこから抜け出そうとしている彼らを、どうか「廃人」と切り捨てないでほしい。彼らの回復を、その家族の闘いを支えよう、という社会でありたい。(夕刊編集部)

「リベラルであること」の難しさとは何か?

2014-08-19 11:55:52 | ダイバーシティ
(以下、東洋経済ONLINEから転載)
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「リベラルであること」の難しさとは何か?
湯浅誠×乙武洋匡 リベラル対談

プラスの積み重ねで育てられた

湯浅:乙武さんの書かれた『自分を愛する力』(講談社現代新書)を読んだのですが、私と乙武さんの家庭には似たところがあるのです。私の兄は障害者なんですよ。乙武さんのお父さんも転勤拒否していたそうですが、うちのオヤジもです。オヤジは日経新聞の社員でしたが、転勤しなかったため同期でいちばん出世が遅れた。そんな父親をお互いがんで亡くしたという点も同じですね。

乙武:そんな共通点があったのですね。

湯浅:でも違うところもありました。乙武さんは自己肯定感が高いけれど、うちの兄貴はとても低かった。とにかく人見知り。特に小さい頃は、家に人が来るとコタツの中に隠れてしまう。私が車イスを押して外出しても、人のいない道、いない道を行きたがる。

乙武:確かに、それは相違点かもしれませんが、むしろ障害者としてはお兄様のほうが一般的なのかもしれません。

湯浅:私ね、小さい頃は自分が損しているとずっと思ってたんですよ。兄貴とケンカすると、たいがい私が怒られる。

乙武:ああ、なるほど。

湯浅:オヤジもおふくろも、どちらかというと兄貴のほうにフォーカスしてるから、私は自己主張しても損するだけ、みたいな感じがありましたね。でも私はそれでも、気がついたら「なんとかなるさ」という性格になって、この年齢まで来てしまったんですけど(笑)。

乙武:私には決定的に恵まれているところが2つあったんです。ひとつは生まれた瞬間からこういう体だったもので、親はもう一生寝たきりだろうと覚悟していたという点。だから僕が寝返りを打った、起き上がった、自分でごはんを食べた、字を書いた、それだけで大喜びですから、プラス、プラスの積み重ねで育ててもらえた。

湯浅:はい。

乙武:親って、生まれるまでは「五体満足であってさえくれれば」なんて言うくせに、そのうち「この子は運動ができない」「勉強ができない」とか、いろんなイチャモンをつけてくる(笑)。でも僕はもともとゼロベースなので、些細な成長でさえすごく喜んでもらえた。

湯浅:わかります。

乙武:もうひとつは僕の生まれつきの性格が、目立ちたがり屋だったこと。車イスに乗っていて、ましてや手足がないとなると、みんな僕を見ますよね。誰が悪いとかじゃなくて、物珍しいものには自然と目が向くのが人間の本能だから。でも、普通は自分が目立つのは「いやだ、恥ずかしい」という人が多いし、おそらくお兄様もそうだったのだと思います。

そうすると街に出るのがおっくうになったり、「この人は自分に対してどういう視線を向けるんだろうか」と、他人の様子をうかがうようになってくる。これは当然だと思うんですよね。

湯浅:そうかもしれないですね。

乙武:ところが僕の場合は小さい頃から、目立ったり、注目を浴びたりすることが嫌ではなかった。だから「じろじろ見られて大変だったんじゃないですか」「嫌な思いをされてきたんじゃないですか」とよく聞かれるのですけど、どちらかと言えば「目立ってうれしい」くらいに思っていたんですよね。

湯浅:ほう。物心ついたときから目立つのが好きだったのなら、それって先天的なものなんですかね。

乙武:そうかもしれません。この2つは僕の自己肯定感の形成に、決定的に大きかったと思います。

湯浅:本にはずっとそのままで大人になったと書いてありますが……。

障害者であるより、有名人であるほうが大変

乙武:もっと正確にいうと、『五体不満足』(講談社文庫)がベストセラーになるまでは、視線を浴びることへの抵抗は特になかったのです。障害者であるということを差し引けば、普通に生きてきたわけですから。ところが、自分がいわゆる“有名人”になると、視線の質が変わってくるのです。

湯浅:どう変わりました?

乙武:今までは「未知との遭遇」みたいな視線を向けられてきた。それに対しては何の抵抗も感じていなかったのですが、今度は「既知との遭遇」になるわけです。「ああ、あの乙武さん」だと。そして一方的に写真を撮られたり、サインをせがまれたりするようになった。

湯浅:しんどかったんじゃないですか?

乙武:一般の方からお声がけいただくのはまだよかったのですけど、出版後、しばらくは週刊誌にずっと張られていて、家の前3カ所くらい、あっちの電信柱とこっちのコインランドリーに誰かがいてこっちを見ている。つねに監視をされているような感覚。

湯浅:それはつらい。

乙武:そういう生活が1年、1年半と続いたとき、原因不明の頭痛と吐き気に悩まされるようになりました。病院に行ってひととおり検査しても原因がわからなくて。

湯浅:そこで初めて、目立つことの大変さを知ったということですね。

乙武:目立つって、そう楽なことばかりでもないな、と(笑)。

湯浅:この本の中で、乙武さんがスポーツライターから教育分野に転身するきっかけとして、2003年と2004年に起きた、少年少女による幼児や同級生の殺人事件を挙げていますね。もちろん被害者はつらいけれど、加害者も苦しかったのではないか。周囲にいた大人が子どもたちの発するSOSのサインに気づき、軌道修正していれば、こうした事件を起こさずに済んだかもしれないと。

乙武:僕らはどうしても表面的なところばかりに目を向けてしまう。でも、「どうしてそうなったのか」という裏側にも、もっと目を向けていくべきだと思うのです。

湯浅:世の中、なかなか殺人事件の加害者の身になって考える人は少ないと思うのですけど。

乙武:それは自分の境遇が大きく影響しているのだと思います。『五体不満足』が出版されて、多くの方が僕のことを評価してくださるようになった。でも、そこに違和感があったのです。「自分はそんなに褒められるような人間ではない。もし褒めていただくとしたら、それは僕の周りだ」と。

僕の周りの人が、僕をつくってくれた


湯浅:周りとは?

乙武:両親や学校の先生方、クラスメートや近所の方々。みなさんから見えているのは僕ひとりなので、「乙武さんがすごい」となりますけど、その乙武洋匡をつくりだしたのは、やはり周囲にいた人々だったわけです。

湯浅:そうですね。

乙武:少年犯罪においても、同じことかなと。僕らに見えているのは11歳、12歳の子供が人を殺したという部分だけです。でも、そこに至るまでの経緯にも目を向けたら、また違うものが見えてくるはずだ。そんなふうに考えるクセがついたんですよね。

湯浅:よくわかります。私が自分自身と社会との関係を考えるようになったのは、ホームレスの人と付き合ったり、生活に困っている人の相談を受け始めたりしてからですね。あるときに、それこそ私はなんとかなると思えるけれど、「なんとかなるとはどう逆立ちしても思えない人が、世の中にいる」という事実を、知ってしまった。

乙武:なるほど。

湯浅:逆に、なぜ自分のことはなんとかなると思えるのだろうと振り返ってみると、私には「溜め」があったなと。つまり家族や友人や経済環境など、自分を支えてくれるもの。私はそれを「溜め」という言葉で表現するようになったのですけど。そこで初めて「自分にとって当たり前だと思っているものを持たない人がいる」と気づいたんですよね。

乙武:その「溜め」がないと、人々は「何ともならない」と感じた。

湯浅:これは健康と同じで、失ってみないと気づかないというか、私や乙武さんみたいにきっかけがないと気づけない。そのためにも、いわゆるリベラルな価値観を広めていく必要があると思うのです。乙武さん自身はそれをどうやって伝えていこうと思っていますか。

乙武:そうですね。最近、リベラルの難しさをすごく感じるんですよ。たとえば、ものすごく右傾化した人々や何か強い主張を持った人々には、相手を否定することで自分たちの主張をより際立たせるという手法をとっている方が多い。

僕はリベラルという言葉へのこだわりはないけれど、自分自身のスタンスとしては、やっぱり多様性を認めるということを強く伝えていきたい。しかし、「多様性を認めるべきだ」と主張してしまうと、自分とは「相いれない主張も、多様性のひとつとして認めなければいけない」というジレンマが出てくるわけですよね。

湯浅:そこは、リベラルの基本的なジレンマですよね(笑)。

乙武:相手はこちらを否定してもいい。でも、こちらが相手を否定することはできない。これは、すごく不利だなと。では何を論拠に「伝えていくのか」を考えると、やはり個人的な経験が論拠になるのかな。僕の場合、それこそほかの方には逆立ちしてもできない経験を積み重ねていますし、ほかの方には見えない景色も見てきたでしょうから、少しは説得力のある話ができるかもしれない。それが今のところの自分のスタイルですね。

「多様性を否定する人」も認めるつらさ

湯浅:リベラルが不利だというのは、おっしゃるとおりです。「多様性を否定する人を肯定するのが、多様性を認める」ということですからね。それって、ただつらいだけじゃないかって(笑)。

乙武:そうなんですよね(笑)。すごく難しい。

湯浅:そのドツボにはまらないためには、感情や経験に基づいた話をするのがいいかもしれない。自分がそうだったという事実を相手は否定も肯定もできないわけで、論争にはなりませんよね。それをやっていく意義は大きいと思います。大きいと思いますが、その次のステップをどうするかという問題があります。

たとえばリベラルな価値観を守るような制度・政策を作ろうという話になったら、自分の経験や感情から話を立ち上げつつも、論争的な領域に入っていかざるをえないじゃないですか。そうなったときは、どうしますか。

乙武:正直、これといった答えを見つけられてはいません。今までの僕の活動領域では、先ほどもお話していたように、自分の経験を論拠にしていればよかった。つまり自分はこんなふうに生きてきました。自分から見えた景色はこういうものでした。それを、メディアを通して伝えていくことで、何か考えるきっかけを得る人がいたり、生きるためのヒントをつかんでくださる方がいたり、それで完結していたんですね。

ただ私自身の視点が、私個人から教育という分野に移り、さらに教育から社会というものに移っていくと、その手法だけではどうしても限界がある。それは、まさに最近、感じつつあることなのですよ。

湯浅:乙武さんが、社会活動に本気でここまでかかわろうとしている話を聞くのは心強いですね。

なぜ、あえて「カタワ」という言葉を使うのか

イメチェン前の湯浅氏は怖かった?

乙武:湯浅さん、随分イメージが変わりましたよね。僕が初めて湯浅さんにお会いしたのはまだイメチェン前だったので、「ビフォー・アフター」を存じあげていますが(笑)、湯浅さんご自身は、イメチェンによる効果を感じていらっしゃいますか。

湯浅:ええ。感じていますね。少なくとも、「前は怖いという印象を持っていた」と白状してくれるようになった(笑)。実は、そう思われていたとは、全然、知りませんでした。「湯浅さんって怖いですね」なんて軽口をたたけないくらい怖かったんでしょうね。

乙武:わはは。軽く傷つきますね(笑)。

湯浅:今までも親しくなると、「実は笑うんですね」とか言われてましたけど(笑)、怖そうだと言ってくれる人はいなかったですね。そんなつもりはまったくなかったんですけどねえ。

乙武:正直、僕も怖い人だと思ってましたもん(笑)。メガネかなあ、やっぱり。

湯浅:いや、テーマだと思います。私が扱っているのは貧困問題でしょう。テレビで笑いながら話せる問題じゃないわけですよ。私だって友達といるときは笑って酒飲んでたりしてますけど、テレビカメラが回っているときに笑顔で「いや、日本で餓死が起こっているんです」とは言えない。

どうしても「こういう問題があるんです」という訴え調になる。そのうえ服装には、まったくこだわってなかったので、怖い印象になってしまっていたみたいです。

乙武:それは仕方がない部分ですよね。

湯浅:私の反省は、社会活動家と名乗る以上は、自分が人に与える印象にもっと自覚的であるべきだったということですね。とにかく洋服と一緒で無頓着だったものだから、全然気にしていなかった。

乙武:僕は身なりについては、わりと早い段階から意識していました。障害者問題や貧困問題って、どちらも一般の方にとってはなじみのない分野であり、発言しにくい分野だと思うんですよ。

湯浅:下手なこと言ったら、怒られそうなイメージがある(笑)。

乙武:でも、本来はそうであってはいけない。そう考えると、望むと望まざるとにかかわらず、今の日本では障害のことなら僕が、貧困のことなら湯浅さんが、社会に対しての入口になってしまっている部分があると思うのです。その入口である人間がどういう風体をしていて、どれくらい親しみやすい人間かは、みなさんが入口をくぐってみようと思うか思わないかを大きく左右する。だから身なりの話は、くだらないことのように見えて、実はけっこう大事なのかなと思っています。

湯浅:それ、いつ気がつきました?

乙武:『五体不満足』(講談社文庫)の中に、「障害者ももっとおしゃれをしたらいいのに」と書いた章があるんですね。僕自身、すごく洋服が好きだったのもあって。それに対して「本当にそのとおりだと思います」とか、「乙武さんのように障害のある方がオシャレ好きだなんて意外でした」という反響をいただいて、「あ、これは大事だな」と。

賛同者を増やすことの必要性



湯浅:そういう声を聞いたら、それをすぐ受け入れる柔軟さを持っていたのですね。私がそう思えるようになったのは40歳を超えてからです。内閣府の参与を務めたときに、「政策を実行するということは、反対する人の税金も使うということだ」と思ったんですよね。

たとえばホームレスの人の炊き出しなんかをやってると、怒鳴り込んでくる近所のおばさまがいる。「アンタたちがそんなことをするから、この公園にホームレスが増えるんじゃないか。汚れるし、子供も遊ばせられなくなるじゃないか」って。もちろん丁寧に対応するけれど、心の中では反論しているんですよ。「こっちは生きるか死ぬかの問題なんだよ」みたいにね。

でも参与をやっているとき、ふと思ったのは、あの怒鳴り込んできたおばさんの税金も使うんだよな、と。あのおばさんが「そんなことに税金を使うなら、あたしは税金を払わない」と言っても、税務署は差し押さえることもできちゃうんだよな、と。

乙武:確かに。

湯浅:そう考えると、あの人も利害関係者として認めないといけないし、それが公的なことをやるということなんだと思ったら、少しでも賛成してくれる人をいかに増やすかを考えなくちゃいけない。賛成とまではいかなくても、せめて強固に反対しないくらいになってくれるといい。そのためにやれることは、なんなのか、いろいろな方法を考えないといけない。

私はそれまで合意形成ということを、ちゃんとまじめに考えたことがなかった。だけどこれからは、まったく相いれない価値観の人とどう合意を形成していくのか、交渉学とかファシリテーションとか、そういうことも本気で考えないといけないと思いましたね。

乙武:湯浅さんは何冊も著書を出されていますが、いつもそのときの自分の考えを凝縮して、1冊の本を執筆している。ですから、どの本も、書いた時点ではウソは1ミリもないと思うんですよ。ところが今、参与を経験された湯浅さんが、たとえば最初の本を読み返すと、きっと疑問に思う点がたくさん出てくるのではないでしょうか。

湯浅:それはもう、満載です。

乙武:そこがきっと参与をご経験なさった財産なのかなと思うんですよね。あれだけすばらしい活動をされてきて、知見がたまってきた。それを基に世の中を動かすには、価値観の異なる人ともぶつかりあって、着地点を見いだして合意形成をしないといけない。それこそ僕らが今、向き合わなければいけないことなんだ、というふうに変化してきた。ご著書を連続して読むと、その変化がすごくリアルに伝わってきます。

湯浅:乙武さんはそういうことないですか。自分が過去に書いた本を読み返すと、今と考えが違うようなことが。

乙武:考えが変わったというより、「そうとらえられるのか」という誤算はありましたね。いちばん大きいのは最初の本(『五体不満足』)ですよ。それまで障害者というのは「かわいそうな人」「不幸な人」であると思われていた。確かにそうした側面もあるかもしれないけど、僕自身は障害者として生まれて、毎日幸せに暮らしている。そんな人間もいるのだと伝えたくて、あの本を書いた。つまり不幸に寄りすぎたイメージを真ん中に戻したくてあの本を出したのですが、あまりにも多くの方に読まれたために、今度は「なんだ、障害者も幸せなんだ」というイメージに寄りすぎてしまった。

障害当事者や家族からクレームや批判が届いた


湯浅:そんなつもりはなかったのに?

乙武:はい。そこで何が起こったかというと、ある種のクレームや批判が届くわけですよ。クレームを寄せてくるのは、ほとんど障害当事者か、そのご家族や支援者でした。どういう批判かというと、「お前は恵まれている」というものです。「おまえのように親に愛され、周囲に応援されて生きてきた障害者なんか、ほとんどいないんだ。たまたまラッキーだった人生をそんな大々的に語られても、みんながそううまくいくわけじゃないんだ」とか、「おまえみたいなやつが出てきたおかげで、『乙武さんだってああして頑張ってるんだから、あなたも頑張れるはず』と、おまえと同じ頑張りを強要された。どうしてくれるんだ」などなど。

これは本当に想像もつかなかった。僕は養護学校ではなく、地域の学校で健常者とともに育ったもので、特に障害のある友人がいなかったんですよ。だから自分以外の障害者の境遇や困難を知らなかった。まあ、だからこそ書けた本ではあったのでしょうけど。

期せずして障害者の代表のように扱われるようになり、いくら自分のことを語っているつもりでも、世間からは「障害者はこうなんだ」と受け取られてしまう。そのあたりのもどかしさは、今でも感じることがありますね。

湯浅:なるほど。

私が今、自分の過去の本を読んでいちばん強く感じるのは、一言でいうと、基本的なトーンの違いなんですよね。昔は「なんでわかってくれないんだ」っていういらだちを吐き出すようなトーンなのです。わからない人に寄り添う感じはない。

もちろんそれに共鳴してくれる人もいるし、それで問題の存在に気づいてくれる人もいるのだけれど、でもそのトーンのせいで妙に責められているような感じを受ける人もいて、その人たちはむしろ遠ざかってしまったりする。そうすると結果的に私は目的が果たせていないということになる。

障がい? しょうがい? だったらカタワでいい


乙武:確かに湯浅さんのおっしゃるとおり、あえて過激で挑発的な言葉を使うことで、一般の人の目を引きつける効果はあります。でもそういう言葉を使うことで敬遠する人も出てくるのも確かで、その使い分けはすごく難しい。

たとえば、僕は自分自身のことをツイッター上で「カタワ」などと表現する。いまでは差別語とされていますから、当然、炎上するわけです。では、なぜあえてそんな言葉を使うかというと、最近、障害の「害」という字を平仮名で表記する風潮が広がっている。なぜなら「害」という字が社会の害になっているように感じるからだと。でもそれを平仮名にするなら、今度は障害の「障」の字だって、「差し障る」という字なんだから、それも平仮名にしろという話になるだろうし、「しょうがい」などとすべて平仮名にするくらいなら、もう別の言葉にしてしまおうという流れになっていくと思うのです。

だったら、「カタワ」でもよかったんじゃないかと。「カタワ」の語源って、「車輪は片方だけだと不具合がある」=「片輪」ですから、そこまで侮辱的な意味ではなかったはずなのです。でも、それが使われていくうちに「差別的だ」という理由で、「身体障害者」という呼び方になった。イタチごっこだと思うんですよ。障害者に対する本質的な意識や考え方を変えないかぎり、いつまで経ってもそれが続くだけでしょう。

湯浅:根本的なところ、でね。

乙武:まさに。そうした問題提起の意味で使っているのですが、まあ過激は過激ですよね。でも、過激な言葉を使うことで振り向いてくれる人が、やっぱり多いわけです。

しかし、先ほどもお話したように、そういう手法をとることで離れていく人もいるわけで、そのあたりのさじ加減に難しさがあるんですけど。

湯浅:つまりある時期までは、そういう攻撃的なスタイルが必要なことがある。でもある段階を越えると、それだけではやっていけなくなる。そうするともうちょっとウイングを広くしながら、それこそ強硬な反対をやわらかい反対にもっていくようなことをやらないといけない。それには、とんがっているだけでは駄目だということになる。これは必然的な変化だと思うのです。

湯浅 だけどその切り替えが遠くから見ると、変節とも見えるわけですよ。「あいつは有名になって人が変わった」とか「媚びるようになった」とか言われることもある。でもそれをしないと前に進まない。

乙武:障害にしても貧困にしても、マイノリティですよね。マイノリティの問題を解決するには、マジョリティを味方につけないといけない。でも、マジョリティはマイノリティの問題に興味がない。

湯浅:そこが決定的なジレンマですよね。

最後にひとつ伺いたいのですが、乙武さんは今後、何か着手しようと思っていることとか、思い描いていることがありますか。

教育は“学校”だけではない


乙武:僕はこの10年近く、教育をメインフィールドに小学校教師や東京都教育委員を務めてきたのですが、それだけでは限界も感じていたところなのです。教育というと、どうしても学校教育だけがクローズアップされがちですが、本来、子どもは「家庭」「学校」「地域」の三者で育てられるんですよね。

学校教育については、かなり深くかかわることができた。また、2児の父として、家庭教育にも当事者としてかかわることができている。ただ、地域との接点を持てていないということに気づいたのです。そこで、「グリーンバード新宿」というゴミ拾いのボランティア団体を立ち上げました。ゴミ拾いにかぎらず、さまざまな活動を通じて、地域の住民同士をネットワークで結んでいこうというのが目的です。高齢化が進むだけでなく、高齢単身世帯がどんどん増えていく状況で、いざ災害が起こったときに誰もが孤立しないためのまちづくり。こうした地域活動が、防災や治安、子育てや地域教育につながっていくものと確信しています。

湯浅:ほんとうに、親だけでなく、先生だけでなく、地域の人にも守られて子どもは育つのですよね。

最後になりますが、乙武さんにとって、リベラルとは一言でいうと、どういう意味だと思いますか。

乙武:これがリベラルなのかはわかりませんが、僕が教育においても、また社会においてもいちばん実現したいことは、「生まれついた境遇や環境によって不利益が生じない社会にしたい」ということです。それが僕の中でリベラルと親和性の高い思いかな。

湯浅:乙武さんは『自分を愛する力』(講談社現代新書)の中で、「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの詩(「わたしと小鳥とすゞと」)の一節を引用していますが、これはまさにリベラル的なマインドですよね。

(構成:長山清子、撮影:今井康一)

被災地のDV/地域の人権意識高め防止へ

2014-08-19 09:44:46 | ダイバーシティ
(以下、河北新報から転載)
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被災地のDV/地域の人権意識高め防止へ

 東日本大震災の被災地で、配偶者からの暴力(ドメスティックバイオレンス=DV)が深刻化している。人の尊厳をないがしろにし、心身を傷つける暴力がはびこる地域社会で復興は語れない。そう認識し、被害者を支える地域の人権意識啓発と関係機関の連携強化を急ぎたい。
 警察へのDV相談件数は2013年、宮城県警が前年比236件増の2092件、福島県警が17件増の857件、岩手県警は70件増の368件。いずれも過去最多となった。内閣府が被災3県の女性を対象に実施している悩み・暴力相談には13年度、4837件が寄せられ、うち13%が配偶者や交際相手からのDVに関する内容だった。
 一般社団法人社会的包摂サポートセンターが厚生労働省、復興庁の補助事業として全国展開している24時間電話相談「よりそいホットライン」。13年度のまとめで、DV・性暴力相談の割合が被災3県ではそれ以外の都道府県の2倍近くに上った。
 相談から浮かび上がるのは、生活再建がままならず、先の希望が見えずに孤立する被災家庭、DV被害者の姿だ。「DVが原因で別居していた夫が津波で家も職場も失い戻ってきた」「被災で生活環境が激変し、夫が引きこもりがちになった」「職を失ったまま失業保険も切れ、弔慰金も使い果たして経済状態が悪化した」。そうした状況下で夫の暴力が激化している。
 狭い仮設住宅では逃げ場がない。地方は人間関係が濃密なため、行政の窓口に知り合いがいる場合も多く、相談しづらい。世間体を気にして暴力は隠されがちだ。性別役割分業意識が根強く、自分がDV被害者であることに女性自身が気付いていない事例も少なくないという。
 DVは震災前から数多く潜在していた。震災を機に表面化したわけだが、それも氷山の一角。復興が遅々として進まない現実の中、時間の経過とともにさらに深刻化する危険もはらむ。
 「相談件数の増加はある意味、いいことだ」と、DV被害者の支援活動を25年続けているNPO法人ハーティ仙台の八幡悦子代表は言う。相談しないケースこそ事態が悪化し、殺人など重大な事件に至ると、早期対処の必要性を指摘する。
 DVは、それを目の当たりにする子どもへの虐待でもある。子どもへの暴力が重なっているケースも少なくない。それを逃れたシングルマザーの経済的困窮は、共に暮らす子どもの貧困問題だ。DVの深刻化は多様な社会問題と連鎖している。
 DVを防止し、被害者を支援するために必要なのは何か。人権教育、男女平等教育の推進だと専門家は口をそろえる。
 行政の担当者や相談員、民生委員など支援する側が人権、男女平等の視点を持ち、連携することが重要だ。そして市民もまたその視点でDVに気付き、専門家や相談機関につなげる地域力を高めたい。どんな暴力をも許さない「世間の目」が求められている。もちろん、被災地だけでなく、あらゆる地域で。


2014年08月19日火曜日

「仮放免」外国人の在留資格求め陳情

2014-08-19 09:15:26 | 多文化共生
(以下、NHKNEWSWEBから転載)
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「仮放免」外国人の在留資格求め陳情
8月18日 18時17分

「仮放免」外国人の在留資格求め陳情
不法滞在で入管施設に収容されたあと、「仮放免」として一時的に釈放されている外国人について、働くことが認められないなど不安定な生活が続いているとして、支援団体が地方議会に対し在留資格を認めるよう国に働きかけることを要請する陳情を始めました。

陳情を行ったのは、日本で暮らす外国人を支援するNPOで、18日、東京・板橋区の区議会に陳情書を提出しました。
NPOによりますと、「仮放免」として一時的に釈放されている不法滞在の外国人は在留資格がないため働くことが認められず、健康保険にも入れないなど不安定な生活が続いているとしています。
また仮放免の人たちの中には、日本人と結婚して長年生活していたり、子どもが日本語しか話せなかったりするなど、母国に帰るのが難しい事情を抱えている人も多いということです。
こうしたことから陳情書では、さまざまな事情で長期間日本に滞在している仮放免の外国人について、在留資格を認めるよう国に働きかけることを要請しています。
仮放免の外国人は、入管施設での収容が長期化することを避けるため、法務省が4年前に仮放免を柔軟に認めるようになったことから去年末で3235人と年々増えていて、支援団体によりますと、仮放免の期間が7年を越える人も出てきているということです。
NPO「APFS」の加藤丈太郎代表理事は、「仮放免の人たちのなかには人生の半分以上を日本で生活している人もいて帰るに帰れない事情を抱えている。日本でともに生きていく存在として在留資格を認めるよう呼びかけていきたい」と話しています。
NPOでは、仮放免の外国人がいる自治体を中心に関東地方のおよそ40の地方議会に陳情を行うことにしています。

7年間“仮放免”の一家は
埼玉県に住む不法滞在のフィリピン人の一家4人は、7年前に仮放免となり、不安定な生活を続けています。
一家の父親と母親は20年前に出稼ぎのためそれぞれ来日したあと、建設や配送などの現場で働き、結婚して2人の子どもが生まれました。
7年前に不法滞在で強制退去が決まり、その後、仮放免となりました。
しかし在留資格がないため働くことが認められず、親類の家に身を寄せて支援を受けるなどして暮らしています。
高校3年生の長男と小学校2年生の次男は、生まれた時から日本で暮らしているため日本語しか話せず、フィリピンに生活の基盤がありません。
このうち長男は高校を卒業後、介護福祉士を目指して専門学校への進学を希望していますが、このままでは日本で仕事に就くことはできません。
フィリピン人の父親は、「子どものためにも家族全員で日本にとどまることを認めてほしい」と話しています。
また長男は、「日本の文化で育ってきたので、フィリピンに行っても何もできないと思います。このような状況になっているのは、自分たち家族の責任であることは分かっていますが、日本が好きなので家族と一緒に自由に暮らしていきたいです」と話しています。

仮放免の外国人は年々増加
不法滞在の外国人は、強制退去が決まると母国などへ送還されます。
しかし、在留資格を希望して帰国を拒んでいる人や、難民認定を申請している人などは直ちに送還されず、入管施設に収容されます。
このうち、家族の状況や収容の期間などを考慮して一時的に施設から釈放するのが仮放免です。
仮放免の人たちは、保証金の支払いや定期的な入国管理局への出頭、それに住む場所や行動範囲の制限などを条件に釈放されます。
仮放免では在留資格がないため働くことが認めらず、健康保険に入ることもできません。
一方、希望すれば小中学校に通うことや、自治体の裁量で予防接種などの行政サービスを受けることができます。
法務省によりますと、ことし1月現在の不法滞在の外国人は、平成5年のピーク時の2割程に当たるおよそ5万9000人に大幅に減少しています。
一方、仮放免の外国人は入管施設での収容が長期化することを避けるため、法務省が4年前に仮放免を柔軟に認めるようになったことから年々増加し、去年末で3235人と10年前の7倍以上に増加しています。
入国管理局は、仮放免の外国人について、「仮放免で一時的に釈放された場合であっても、強制退去が決まっていることに変わりはないので働くことはできない。基本的には、母国に帰るべきと判断された人たちなので、帰国してもらうのが前提だ」と話しています。

「生まれた子どもたちは非常に辛い立場に」
筑波大学の駒井洋名誉教授は、「不法滞在の外国人は、日本人が働きたくないいわゆる3K労働や低賃金の労働の現場を下支えしてきた。また長く暮らしていると日本で家族が形成され、生まれた子どもたちは大きくなってもさまざまな権利が認められず、非常に辛い立場に置かれている」と話しています。
そのうえで駒井名誉教授は、「仮放免になっても就労や健康保険に入ることが認められないと、どのように生活していいか分からない。不法滞在は違法なので、厳正に法を執行するのは当たり前のことだが、日本で長期間暮らし生活基盤が確立しているなど、事情がある人については救済すべきだ」と話しています。

二つの祖国はざまで苦悩(7)日系人の強制収容 宍戸清孝さん

2014-08-19 09:14:32 | 多文化共生
(以下、河北新報から転載)
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二つの祖国はざまで苦悩(7)日系人の強制収容 宍戸清孝さん/伝える 戦後69年の夏


元米陸軍参謀総長で、退役軍人長官も務めた日系3世のエリック・シンセキ氏(左)=2000年、ワシントン(宍戸写真事務所提供)
 星条旗が風を受けてはためいていた。赤い革シートの車、どでかいソフトクリーム。写真家の宍戸清孝さん(60)=仙台市青葉区=は中学生だった1967年夏、三沢市に住む伯父と訪れた米軍三沢基地の光景が記憶の底にある。
 ベトナム戦争に向けて飛び立つ戦闘機のごう音が耳をつんざく。ふいに、幼いころ見た傷痍(しょうい)軍人の姿が浮かんだ。「戦争って一体何だろう」。子どもながら抱いた疑問が、いまの活動の原点となる。
 「日米の懸け橋となる仕事をしたい」。25歳の80年、宍戸さんは単身渡米する。その時ハワイで出会ったのが日系2世の元米兵だ。彼の体験話に衝撃を受けた。
 日系米国人は第2次世界大戦中、非情な運命にのみ込まれた。41年の日本軍の真珠湾攻撃により、日系人は米国社会から排除された。「敵性外国人」の烙印(らくいん)を押され、「ジャップ」とさげすまれた。財産や地位を剥奪され、本土では12万人が強制収容された。

 そうした境遇で、志願兵として出征した人々がいる。米国への忠誠を誓い、汚名をすすごうとした日系人、それが日系米兵だった。日系人だけによる部隊もできた。
 日本軍に入った実弟と戦った日系米兵もいた。日系人は日本や身内、米国社会のいわれなき差別と戦ったことを知る。
 「二つの祖国の間で引き裂かれた人生や、日系人としての誇りを教えてもらった」。心を揺さぶられた宍戸さんは誓う。「彼らの記録を自分の手で後世に残そう」
 ニューヨークで写真を学び、ドキュメント写真家の道を歩み始めた。仕事の傍らハワイや米国本土に足を運んだ。話を聞いたのは約100人に上る。
 日米の言葉や文化に通じた2世は、情報部隊に配属された者が少なくない。任務の特殊性から、口は重かった。足しげく通い、少しずつ胸襟を開いてもらえるようになった。
 その記録を写真展で発表してきた。2005年には、37人分の記録をまとめた著書「Jap(ジャップ)と呼ばれて」も刊行した。

 著書で紹介した沖縄育ちの2世は、故郷で日本兵の捕虜2人に面会した。小学校の同級生だったが、2人は気付かずにおののくばかり。「バカモノ、目の前にいる同級生を忘れたのか」。敵味方を超え、3人で抱き合って泣いたという。
 この2世は、ガマ(洞窟)に逃げ込んだ日本人に、沖縄方言で繰り返し投降を呼び掛けた。「両国のために最善を尽くしていた」。そんな日系米兵を宍戸さんはたたえる。「民族のはざまで苦しみながら、民族を超えた人間主義を貫き、平和を希求した」
 日系米兵の多くは鬼籍に入ったが、足跡を追い、ヨーロッパ戦跡などの取材を続ける。
 「戦争に勝者も敗者もない。共に傷つき、失うものは大きい。戦争は絶対悪だと、写真を通して伝えることが自分の使命だと思っている」

[日系人の強制収容]真珠湾攻撃から2カ月後の1942年2月、F・ルーズベルト大統領が、敵国のスパイ行為から国民を守るとの理由で「大統領令9066号」を発令。米国籍を持つ日系人を含む約12万人が土地や財産、地位を奪われ、カリフォルニア州などの砂漠地帯や寒冷地に設けられた施設に終戦まで隔離された。88年に日系米国人らへの補償法が成立し、収容所に送られたうち生存者が、大統領の謝罪文と2万ドルを受け取った。