多文化共生なTOYAMA

多文化共生とは永続的なココロの営み

女性がひらく 多様性育み、企業に元気

2011-11-30 11:54:34 | ダイバーシティ
(以下、日本経済新聞から転載)
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女性がひらく 多様性育み、企業に元気
均等法25年、主要企業役員らに42人
2011/11/29 16:35

 労働人口の減少と厳しい国際競争に直面する日本の産業界で、女性の人材に対する期待が高まっている。世界のグローバル企業の多くは人材の多様性(ダイバーシティ)を競争力向上に結びつけており、とりわけ女性の視点と知恵を生かした製品・サービスの開発や生産性の向上がカギを握る。今年は男女雇用機会均等法施行から四半世紀の節目に当たり、経営・幹部層に女性の姿も珍しくなくなった。企業に活力をもたらし、新たな成長の扉をひらく彼女たちを追った。

■組織には男女両方必要

 米ボーイングの最新航空機「B787」の就航に向けて活気づく成田空港。全日本空輸のカウンターは多い日に1万人強が訪れる。航空券発行などを手がけるANAエアサービス東京(千葉県成田市)の小山田亜希子(45)は7月、約1000人の社員を束ねる旅客部部長に就任した。

小山田亜希子さん

 1987年に短大を卒業してグランドホステス枠で入社し、2002年の管理部門への異動を機に男性と同じ責任を担うことになった。「男性と比較されているのではと気負いがあった」。吹っ切れたのは06年。成田第2ターミナルから第1ターミナルへのカウンター機能の移転拡張の現場責任者となり、トラブルや客の苦情で意気消沈しがちな部下を持ち前のきめ細やかさと目配りでまとめ上げた。09年に課長へ昇進。「男性には男性の仕事の進め方、女性には女性ならではの視点があり、組織には両方が必要。この25年で女性の意識は大きく変わり、さらに活躍する社会になる」

 企業の戦力として存在感を増す女性。女性の労働力人口は10年に2768万人と均等法施行前年の85年から約17%増え、同人口全体の42%を占める。日本経済新聞社の今年8月の国内主要500社調べによると、女性の社内取締役と執行役員は計42人。小山田のように同法施行直後に社会人となった女性の中から、部長や役員として最前線に立つ人材が育っている

 日本政策投資銀行の栗原美津枝(47)は87年、日本開発銀行(当時)にただ1人の女性総合職として入行した。今年5月に部長職に当たる医療・生活室長に抜てきされ、11月から女性起業家を支援する新設組織のトップを兼務する。

 「女性を意識して仕事をしてきたつもりはなかった」が、08~10年に米スタンフォード大学に客員研究員として派遣されたことが転機となった。ベンチャー支援を研究しながら、世界の女性経営者らの生き生きとした姿を目の当たりにし、日本の企業風土は独特だと痛感した。「女性が起業家として挑戦する環境は貧弱で、企業の中でキャリアを形成するのにも時間がかかる。均等法第1世代の私たちが道を切り開かねば」。政投銀初の女性部長になった栗原の言葉だけに重い。

■部課長職で6.2%止まり


 日本は03年、「20年までに経済や政治、行政などあらゆる分野で指導的地位に占める女性比率30%」との目標を掲げた。だが部課長職に占める女性比率は6.2%(10年の4万6226事業所、厚生労働省調べ)。

 政府試算によると、労働力人口は女性や高齢者らの労働市場参画が進まないケースで50年に4228万人とピーク時(00年)の3分の2に落ち込む。目まぐるしく経営環境が変わるなか、ダイバーシティ経営は世界の潮流だ。日経が国内500社の自己資本利益率(ROE)を調べたところ、女性取締役のいる45社の平均は9.02%と、いない企業の5.73%を上回った(金融を除く、直近の本決算)。縮む国内市場、新興国の台頭、超円高など逆風にさらされる日本企業こそ殻を破る必要がある。一歩先を行くのはグローバル企業だ。

 「顧客志向の組織を実現したい。あなたが必要だ」。日産自動車執行役員の星野朝子(51)は02年、カルロス・ゴーン社長(57)にこう口説かれ、社会調査研究所(現インテージ)から転職した。経営学修士(MBA)を取得し、専門はマーケティング。「会社を変えることを期待されていると感じた」と振り返る。

 これに応えるように、情報をベースに意思決定することを根気強く訴えた。当時、購入者の8割は男性名義だったが、夫婦への聴きとりを通じ、多くの場合、妻が購入の決定権を握っていることを数字で証明した。

■女性活用で成長後押し

 異なる経歴を持つ社員が健全な議論を戦わせることから活力や創造性、競争力が生まれる。そこでは性別も国籍も年齢も関係ない――。星野と、彼女の改革を支えたゴーンに共通する考えだ。「ダイバーシティを追求する企業でないと重要な経営判断さえも、あうんの呼吸や都合のいいデータで下してしまう危険性が増す」。星野はこう実感している。

 9月、米国サンフランシスコ。アジア太平洋経済協力会議(APEC)は初めて「女性と経済サミット」を開いた。講演した米国務長官のヒラリー・クリントン(64)は世界の経済活性化に向け女性の潜在力の重要性を訴えたうえで、日本については「男女の雇用格差を解消できれば国内総生産(GDP)が16%押し上げられる」と指摘した。女性の活用にこそ、ニッポンが世界で勝ち残るヒントがある。

=敬称略

(高橋香織、安川寛之、石塚史人、星正道)


[日経産業新聞2011年11月29日付の記事を再構成しました]

まず、個より始めよ―― 被災障害者の過酷な現実から考える防災のあるべき姿

2011-11-25 10:17:58 | ダイバーシティ
(以下、DIAMONDonlineから転載)
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まず、個より始めよ――
被災障害者の過酷な現実から考える防災のあるべき姿
災害に強い町づくりを、過疎の町と障害者たちに学ぶ

 前回、東日本大震災の際、高さ2.7メートルの津波に襲われた北海道・浦河町で「完璧」に津波避難を成し遂げた「浦河べてるの家」の精神障害者たちのエピソードを紹介した。

 それでは、障害者が被災するとはどういうことなのであろうか?

「障害者」と一口に言っても、障害の程度や内容は人によりさまざまである。まず、比較的想像しやすい身体障害者の実例を紹介しよう。
障害者が被災するということ
――熊篠慶彦氏の体験

熊篠慶彦氏。特定非営利活動法人ノアール理事長。障害者の性のバリアフリー化に関する多様な活動を展開。

 川崎市宮前区在住の熊篠慶彦氏は、特定非営利活動法人ノアールを運営して障害者の性のバリアフリー化に関する活動を行う、極めてアクティブな身体障害者である。生まれつきの脳性麻痺により四肢が不自由なので、電動車椅子を利用している。

 3月11日、熊篠氏は、自宅で外出の準備を始めようとしたところ、地震に襲われた。川崎市は震度5弱であった。熊篠氏の住まいの中では、家具の転倒は起こらなかったが、本棚の本が何冊か落ちたそうだ。

 地震の発生後、川崎市ではすぐに停電が発生した。このことは、熊篠氏が外に出られなくなることを意味した。熊篠氏が外に出るためには、住まいに設置されている電動リフトを利用しなくてはならない。停電すれば、リフトは利用できなくなる。外出に備えて、電動車椅子のバッテリはフル充電状態だったが、それ以前に外に出ることができない。

 熊篠氏は、まず情報を得ようとした。何が起こったのか。電車は動いているのか。停電しているので、パソコンとインターネットは利用できない。非常時に備えて所有していた電池式のラジオで情報を得た。東京の都市圏に大混乱が起こっていることが判明した。熊篠氏は出かける予定を断念した。

 次に熊篠氏が行ったのは、友人知人たちに無事を知らせることだった。出かけるためにフル充電状態にしてあった携帯電話を利用し、Twitterとブログに「無事」と書き込んだ。この後は、電気の供給が復旧するまで携帯電話の電源をオフにしていたそうだ。いざという時の最後の命綱だからである。

 熊篠氏は独居で自立生活を営んでいるが、四肢の不自由な障害者が自立生活を営むにあたっては、数多くの電気機器が必要である。停電のため、それらは全く利用できなくなった。照明も暖房も利用できず、暗く寒い中で、熊篠氏は数多くの問題について思いをめぐらせた。食事はどうすればよいのか。米は買ってあるし、ふだんから、3日分くらいのレトルト食品の備蓄などの危機管理はしている。しかし、水とガスは止まっていないけれども、電気が使えない。ピザや寿司の出前を取ることも考えたが、電話は不通になっていた。結局、その晩は、冷凍庫にあったおにぎりをガスの火で煮込んで食べたそうだ。

 飲食すれば大小便が出る。しかし停電のため、トイレの局部洗浄機能は使えない。熊篠氏は「大が出たらどうしよう」と心配した。幸いにして、「大」は出なかったそうだ。

 暗くて寒くてすることがないので、熊篠氏は17:30ごろにベッドに入り、ラジオに耳を傾けていた。ベッドは電動ベッドである。熊篠氏はふだん、ベッドをさまざまな高さで利用する。高くして読書用の机がわりに利用することもある。もし、その状態で停電していたら、熊篠氏が自力でベッドに入ることは不可能であったと思われる。幸い、その時の電動ベッドは、熊篠氏がベッドから電動車椅子に移乗した時のままの状態であった。熊篠氏は自力でベッドに入ることができた。

 そのうちに、いわゆる「帰宅難民」の様子がラジオで報じられはじめた。もし熊篠氏が予定通り外出していたら、車椅子で「帰宅難民」になったであろう。

 各自治体は、災害時に障害者の安否を確認して避難などの行動を支援するシステムを提供している。川崎市にもそのシステムはあり、熊篠氏も登録していた。しかし、電話回線のつながりにくい状態が長時間続き、熊篠氏も携帯電話の電源をオフにしていた。結局、そのシステムを利用した連絡は、来なかったのか、来ても通じなかったのか判然としない状態であったそうだ。

 熊篠氏は、「宮前区の福祉課の職員の人数は5人か10人くらいだから、人数を考えると対応できっこないんですよ」という。

 ふだんヘルパー派遣を受けている介護事業所からの連絡もなかったそうだ。介護事業所は、どこもギリギリの少人数でやりくりしているので、このような非常時に対応する余裕はないことが多い。致し方ない事情ではあるのだが、結局、熊篠氏の安否を公式には誰も確認できなかったということになる。

 電気の供給は、22:00ごろに復旧した。熊篠氏は「停電はそんなに長くは続かないだろう」と楽観していた。その後の計画停電も、近くにJRの操車場があるため免れた。
震災後、ライフスタイルは一変
外出を控えざるを得なくなった様々な事情

 しかし、極めてアクティブだった熊篠氏の行動は、震災後、一変した。熊篠氏は「出かけるのが怖い」と考え、なるべく外出を控えるようになってしまったのである。あの震災の日、多数の健常者が「帰宅難民」となり、徒歩で数時間をかけて帰宅することになった。

 熊篠氏は、「障害者だからというつもりはないし、言いたくもないけど」と語るけれども、大型の電動車椅子に乗っており、タクシーを利用することのできない熊篠氏が「帰宅難民」となったら、健常者には想像を絶する困難があることだけは間違いない。

 また震災後、道路の路面の状況が変わったことも、熊篠氏に外出を控えさせる原因となっている。震災で陥没したり、陥没した跡が埋められたりで、路面の凹凸などの状況は大きく変わっている。しかし、そのような細かい路面情報はどこにもない。車椅子利用者は、自分が通過することによって路面の情報を集積して行動に役立てているのだが、震災などで大きく状況が変わると、情報の収集と集積をやり直さなくては安全を維持できないことになってしまうのだ。

 では、次に大きな災害が首都圏を襲ったら?

 熊篠氏は、「どうにもならないものはどうにもならないでしょう。行政に頼る・地域で支えるといったことが絵空事とは言わないけれど、そういう備えが機能しなくなるのが大災害の時でしょう?都市部のように集中していればいるほどリスクが大きいし」と語る。確かに、それはそのとおりであろう。
浦河町役場の取り組み
――自治体の限界の中で必要なインフラ整備

浦河町役場。職員約140人が、町民約14000人の生活を支える。

 では、精神障害者たちが完璧な津波避難をやり遂げた浦河町では、自治体はどう考えているのか。

 浦河町保健福祉課長・吉野祐司氏は、筆者に、「緊急時、自治体が災害弱者すべての避難を支援することは、基本的に無理だと思います。地域の協力をお願いするという方向にならざるを得ません」と答えた。

 正直なところ、筆者は驚いた。「無理」と明言する自治体職員に初めて接したからである。しかし、考えてみれば当然のことである。有事の際、東京23区と概ね同面積の浦河町に点在する災害弱者を、140人(平成22年4月現在)の浦河町職員が支援することは、現実的に不可能だ。

 では、自治体として出来ることは、浦河町の場合は何であろうか。

浦河町保健福祉課長・吉野祐司氏

「行政として行わなくてはならないことは、まず第一に現状の確認と、情報提供、避難所の開設です。その後、物資提供、健康ケアを行う必要もあります。物資も、地域住民全員に行きわたる量は備蓄できないので、足りない場合は、自衛隊や他の自治体に応援をお願いする可能性があります」(吉野氏)

 幸い、今回の震災では、避難所の必要性はそれほど高くなかった。もともと浦河町は、全国平均の数十倍の頻度で地震に襲われてきた地域である。住民は地震に対して非常な慣れがある。今回も、避難所に避難しなくてはならない差し迫った脅威があるかどうかは疑問であった。避難所に避難した住民の主なニーズは、「夜間に来るかもしれない津波が怖いので、海岸線から少しでも離れたい」ということであった。避難所の使用率が特に高かったのは、海の近くに住んでいる高齢者夫妻であった。ちなみに、3月11日の大震災の際の浦河町全体での避難率(避難所に来た人の比率)は11%だったそうである(この他に、知人宅等への避難・車で避難して車中泊といった避難行動を行った人々もいた)。

 浦河町企画課長・浅野浩嗣氏は、役所としてすべきこととして

「避難場所を作ること」

 を挙げる。学校・公園などがあれば、それらを利用するが、避難場所として適切な場所がない地域も多い。そのような地域には、民間の空き地などを避難場所として利用できるようにする必要がある。実際に、浦河町職員が所有者と交渉を行ってきた結果、現在はどの地域にも避難場所がある状態になっているそうだ。

 次に必要なのは、その避難場所に実際に避難できることである。そのためには、避難ルートを確保する必要がある。その手すりは、平時にも生活の利便性を高めるであろう。

 浦河町の場合、町の動脈といってよい「浦河街道」が海のすぐそばを走っており、その道路が被害を受けた場合には交通が利用できない状態になることが問題である。そこで、もっと高い場所に第二の道路を作り、地域と地域を結ぶ役割を担わせる計画があるそうだ。

「利便性が高くなり、安全性も高くなるのが理想です」と浅野氏は語る。
“地震慣れ”した住民の防災意識をどう高めるか

浦河町総務課参事(防災担当)・三澤裕治氏

 それにしても、インフラに関して可能な取り組みは多くない。より重要なのは、住民の意識を高めることだと思われる。この問題について、浦河町総務課参事(防災担当)・三澤裕治氏は「ふだんの防災意識を高めることは、簡単ではありませんね」と率直に語る。

「浦河町の住民は地震慣れしています。地震に対して、経験値があります。経験値がありすぎて、安心しています。だから問題なんです。そこで、生の情報を提供することにしました」(三澤氏)

 浦河町では、「何メートルの津波が来たら、どこが浸水するか」を予測した浸水予測地図を作成した。今月(2011年11月)中に全世帯に配布する予定である。「だからこうしなさい」と書いてあるわけではなく、ただ、浸水予想が示されているだけである。

「まず、ご自分で考えていただきたいんです。『津波てんでんこ』ではないけれど、個人の意識を高めることが一番大事だと思っています」

 それでは、考えることはできるけれども行動できない弱者はどうすればよいのか。

「町の民生委員さんたちから、『どうやって避難の必要な人たちを守ったらいいんですか』とよく聞かれるんです。そこで『まず、自分が“逃げるぞー!”と大きな声を出して逃げてください』と言っています。誰かが大声を出して逃げていれば、それを聞いて逃げる人が出てくるし、その逃げる人を助ける人も出てきます」(吉野氏)

 結局、自分で考えて自分で行動する人が数多くいなければ、共同体や公共には何もできないということなのかもしれない。

「よく、『自助共助公助』と言っています。自分を助けるのが最初。次に共同体での助け合い。最後に公共が支援させていただく。どうしても、この順序にならざるを得ません」(浅野氏)
まず、個人が自分を助けよ

 前回述べたように、「べてるの家」の完璧な津波避難の出発点は、清水里香氏の「津波の時にパニックになったら逃げられない、どうしよう」という個人的な悩みだった。清水氏の「助かりたい、自分を助けたい」という思いが、清水氏の住む「べてるの家」のグループホームのメンバーに共有され、国立リハビリテーションセンター研究所を巻き込み、浦河町を動かす動きとなったのだった。

「べてるの家」には、「自分助けは人助け」という格言がある。自分の困っていることを解決すれば、そのことで同じ悩みを持つ他の人も助けられる、という意味だ。清水氏の「自分助け」は、数多くの人を地震と津波の恐怖から救うことになった。

 熊篠氏の場合も、冷静な情報収集・判断・日常からの危機管理が、パニックや被害の拡大から本人を救った。山で遭難した時の対処の基本は、まず「うかつに動かないこと」である。状況を把握し、どうすれば確実に対処できるかが理解できるまでは、動くこと自体がリスクである。熊篠氏は停電によって外出できず、その状態で情報収集を行わざるを得なかったのだが、重度障害者の1人が自分自身の安全確保を行うことによって、どれだけ医療その他の社会資源の有効活用が行われたか。考えるまでもないであろう。

海すぐそばにある防潮堤。海抜4mの高さ。東日本大震災の際、浦河町を襲った津波(2.7m)から町を守った。だが、ハードウェアだけに頼らずに、防災時図などのソフトウェアに力を入れたり、住民の意識を高めることも重要だ。

 浦河町役場の吉野氏は語る。

「ハードウェア、インフラはなかなか作れません。資金の問題もありますし、作ったからといって役に立つかどうかという問題もあります。たとえば、津波から逃げようのない地域に、高さ30mくらいの『お助けタワー』を作ればいいんじゃないか?というご意見もあるんですが、着工途中に津波が来ちゃうかもしれないし、30年後、老朽化した時に津波が来て倒壊して役に立たないかもしれません。でも、ソフトウェア、意識や知識はその日から役に立ちます。だから、防災地図などのソフトウェアづくりや、地域住民の意識を高めることに、特に力を入れています」

 自分は災害時に何が怖いか。どのような災害から、どのように助かりたいか。

 まずは自問自答してみることが、より確実な防災への一歩かもしれない。

(ライター みわよしこ)

外国人留学生向け「就活塾」12月開講

2011-11-25 10:17:26 | 多文化共生
(以下、産経新聞から転載)
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2011年11月24日
外国人留学生向け「就活塾」12月開講 人材育成・人材派遣の是空

 人材育成・人材派遣、海外ビジネス支援事業を行う是空(大阪市中央区)と外国人留学生を中心とする人材育成・人材派遣のパイオニアのセルテック(大阪市中央区)は、外国人留学生向け「就活塾」を開講する。

 「就活塾」は、定住外国人に対する日本でのビジネスマナーや、在留資格・法律・労働慣行、日本語などを学ぶ職業訓練コース「定住外国人ビジネスコミュニケーション養成科」(厚生労働省求職者支援制度)を実施してきた経験を活かし、新たに作り上げた独自のカリキュラムで、希望者には日本企業とのマッチングも行うプログラム。

 「外国人留学生向け就活塾」説明会および無料就職説明会を12月1日に行う。時間は、午後6時30分~午後8時。場所は、第7松屋ビル1162号 是空セミナールーム(大阪市中央区本町橋2-23)。定員は、20名(※外国人留学生に限る)

幸福度「秋田37位」をどう見る

2011-11-25 10:17:00 | ダイバーシティ
(以下、朝日新聞【秋田】から転載)
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幸福度「秋田37位」をどう見る

2011年11月15日

国内の湖で水深が最も深い田沢湖。秋田県は湖、海、山と豊かな自然に恵まれている


 法政大大学院の坂本光司教授が発表した「47都道府県の幸福度に関する研究結果」で、秋田は37位だった。「日本一幸せ」なのは福井県民で、上位3県は北陸3県。東北では19位の山形が一番高かった。合計特殊出生率や総実労働時間、平均寿命など40の指標で点数化し、総合点順に並べたもの。秋田県民はこの順位をどう見たのか。

 「秋田は20位以内に入ってもいいのでは」というのは、秋田市高陽青柳町の会社員鈴木純二さん(55)だ。凶悪事件が少ないし、「農業県で豊かで、食べ物はおいしい」。そのうえ、「秋田美人もいる」。

 秋田市の市民団体代表、武内伸文さん(39)も「37位という順位をあまり悲観することはない」と話す。海や山といった豊かな自然に恵まれ、街なかに温泉も湧く。「他に代え難い伝統だってある。単純に数値化できないところにこそ、秋田の魅力があります」

 ビジネスにあまりガツガツしていない県民性は「弱点」かもしれないと感じる半面、「秋田の幸せは、そういうものから正反対のところにある」とも思う。「生活や地域から受ける幸福度は、決して低くないと思っています」

 ウィッグサロンを経営する秋田市御野場のヘアアーティスト佐々木洋子さん(51)は建築業の夫の転勤について埼玉、札幌、名古屋などに住み、秋田に戻ってきて18年。秋田の県民性を「アピール下手」と見ている。「女性は肌っこがきれいなのに、個性を出そうとしていない」と厳しく、「37位と低いのも納得」。

 「高齢者が住みにくいから、37位は妥当だと思う」と話すのは男鹿市船川港双六の三浦幹夫さん(62)だ。男鹿海洋高校臨時教諭で、民生委員もしている。

 「地域には小中学生が10人もいない。高齢者だけの住まいはやっぱり寂しいのでは」。さらに、交通の便が悪いことも挙げる。「病院に行くためにバスに乗り、片道30分以上かけて往復千円以上払わなければならないのはつらい」

 NPO法人「あきた地域資源ネットワーク」の永井登志樹さん(59)は「37位は健闘した結果」と見る。高齢化率や人口減少率が高く、自殺率が全国ワーストという現状が念頭にある。「今後、直面していく深刻な問題を考えると、あんたんたる気持ちになる」という。

 一方、秋田を魅力あふれる土地だとも考える。今秋、PRに取り組んできた男鹿半島・大潟地域の地形が「日本ジオパーク」に認定された。「ナマハゲやかまくらといった冬祭り、山深い秘湯など独自の文化も残っている。美人も誇れる」。足元を見つめ直すことが幸福度アップのかぎになるかもしれない。

 秋田大教育文化学部の島沢諭准教授(41)=経済政策=は「住めば都という言葉があるように、何が幸福かは、人それぞれ価値観が違う。高い自殺率など個別の指標を改善することが先決で、一喜一憂する必要はないと思う」と話す。

 島沢准教授は2位にランクした富山県の出身。秋田県の良さとして、初等教育の充実や持ち家率の高さ、犯罪率の低さなどを指摘。「子育て世代にとっては、これらの評価は魅力的に映り、住みやすい県と感じるのではないか」と話す。

 川反通りでバーを営んで18年の秋田市将軍野、照井恒夫さん(54)も「幸福度」の基準は人によって異なると思う。若い人は街の中を便利だと感じるだろうし、自身は田舎でのんびり暮らすことにひかれる。「幸福度は自分の気持ち次第。自分が一番いたい場所が幸せな場所ではないでしょうか」

「イエ」や「クニ」を超えて

2011-11-24 22:42:05 | ダイバーシティ
「イエ」や「クニ」を超えて

日本には今、たくさんの外国人が住んでいます。このことを、私たちは、私たちの国とはちがう他の国の考えを持った人たちが住んでいると考えがちです。本当にそうでしょうか。
私たちは日本という国に住む日本人だと思っています。日本人であることを、自分のアイデンティティとしています。同じく、他の国から来た人に対して、私たちは、その他の国を彼らのアイデンティティとしているのであろうと考えます。
しかし、本当にそうでしょうか。私たちは自分が住んでいる国を自分のアイデンティティとして確立しているのでしょうか。日本に住む日本人としての帰属意識から、また、何かに所属していたいという安心感から日本人であると思っているのでしょうか。
日系ブラジル人(日本からブラジルに移住した日本人)の人たちはどうでしょう。ブラジルに住み、外国人と言われ、日本に移り住み、また外国人と言われる。彼らはナニジンなのでしょう。すでに2世代3世代にわたって日本に住む在日コリアンの方からも同じ話を聞きます。私はナニジンなの?と。
多文化共生は、ちがいを残しつつも、ちがいを乗り越えていくものだと思います。一番ベースになるちがいはアイデンティティでしょうか。
以下に、うち(NPOタブマネ)の代表の田村の言葉を掲載します。今から10年以上前の言葉になります。
「世界の人びとがしなければならないことは、「自分とどう向きあうか」であり、自分と向かいあってはじめて、自分のアイデンティティはこれだ!というものになっていくのではないでしょうか。それこそがアイデンティティであって、けして人から与えられるものではないのだと思います。20世紀の人びとは、国や民族にアイデンティティをゆだねていました。国家や民族の概念が崩壊しつつある現在、国に変わる何かを考えておかないと、人は宗教や偏った民族主義による架空の枠を設けて他者を排除してしまいます。
アイデンティティとは国籍や民族ではなくて、多様な個を自分のなかにみいだしていくとではじめて手に入れられる「自らの存在感」といえるのではないでしょうか」

この続きは、11月26日に富山大学で開催される「東アジアとともにいきる富山県の未来」の基調講演「多文化共生から始まる地域の未来」へどうぞ。

外国人受入制度と実態の狭間から

2011-11-24 22:41:15 | ダイバーシティ
外国人受入制度と実態の狭間から

日本には今、たくさんの外国人が住んでいます。法務省統計によると213万人もの外国人が住んでいるわけですが、中でも最も多い国籍が中国で、69万人弱の方が住んでいます。
在留資格も様々で、永住者や日本人の配偶者といった、いわば日本の地域住民に限りなく近い人や、留学生として一時的に日本に滞在し、将来、日本での就業を視野に入れた生活を送っている人もいますし、帰国を前提とした技能実習生という資格で日本に来ている人たちも多くいます。
この技能実習生制度は、日本の進んだ技術を学び、帰国後に母国の発展に寄与してもらおうという制度なのですが、この制度の前身である「研修・技能実習制度」は国際的にも非常に評判が悪く、国連から「奴隷制度ではないか」といったような報告もなされています。韓国では、外国人の受け入れに関し、日本の制度を参考にし、同じく研修制度も取り入れていましたが、日本が研修制度改正・廃止する前に、率先して廃止しました。
こうした国際的な批判や制度の是非以前の問題として、制度の目的とその実態にかい離があること、すなわち、それほど日本の社会が直面している問題が深刻であることを受け止めなくてはならないでしょう。制度に不備があれば、その不備が判明した時点で修正するのは当然ですが、制度以前に、その制度ではカバーしきれない問題であるとすれば、それは制度の問題ではないし、外国人の受け入れの問題でもないし、さらに大きく社会全体の問題として考えていくべきことでしょう。
この続きは、11月26日に富山大学で開催される「東アジアとともにいきる富山県の未来」の報告②「富山県の受入事例から見た現状と未来」へどうぞ。

地域に住む外国人

2011-11-24 22:40:45 | ダイバーシティ
地域に住む外国人

日本には今、たくさんの外国人が住んでいます。法務省の統計によるとH22末では213万人の人が191の国から来ていることになってます。国連加盟国数が192なので、ほぼ全世界の国や地域から日本に来て、住んでいることになります。
そして、日本での活動(仕事)の種類や身分にごとに日本に住んでよいとされる資格が27種類あり、日本に住んでいる外国人は191の国と27種類の資格(在留資格)に分類されるマトリクスがあることになります。とても壮大な数になります。ここに言語や宗教、文化、性別や年齢というちがいも加わるため、これだけで、まさに一人として同じ人はいないともいえるでしょう。
しかしながら、日本に住む外国人は、特定の国の人が、特定の県や地域に偏重し、また、特定の資格の人が特定の県や地域に偏重しています。こうした偏重はなぜ生じるのでしょうか。
端的にいうと、必要とされる地域に必要とされる外国人が住んでいるということです。これを逆の言い方をすれば、それぞれの地域の課題が外国人の居住状況を見ていくだけで、浮き彫りになってくるということです。どんな国籍のが、どんな資格の外国人が住んでいるのか。それこそが、それぞれの地域が直面している課題であるということになります。
外国人は単に生活者として地域に住んでいるわけではなく、地域の課題に適合した人として住んでいるということです。積極的な言い方をすれば、地域の課題を解決するために住んでいるとさえ言えるわけです。
今、日本には213万人もの外国人が住んでいますが、現在、日本が迎えている人口減少社会のスピードから考えると、ものの4~5年で、外国人の存在を帳消しにしてしまうことになります。
私たちの地域社会はどういう課題を持っていて、そのためにどういう選択肢を持っているのでしょうか。
この続きは、11月26日に富山大学で開催される「東アジアとともにいきる富山県の未来」の基調講演「多文化共生から始まる地域の未来」へどうぞ。

http://t.co/X1FnknCA

外国人労働者

2011-11-24 22:39:21 | ダイバーシティ
外国人労働者

日本には今、たくさんの外国人が住んでいます。たくさんの外国人が住んで、仕事をし、生活しているので、彼らは「外国人労働者」と言われます。日本に住み、日本国内の企業に就業し、企業すなわち日本の産業を共に担っている人たちです。他方、外国人であっても日本国内で生活しているので、労働者であると同時に、消費者でもあります。つまり、私たちと同じ、生活者であるわけです。
こうした外国人生活者が100万人、200万人、、、1000万人と増加していくと、どうなるでしょう。労働力が増えるので、生産力は向上するでしょう。消費者も増えるので、消費効果も高まるでしょう。一方で、外国人であるがゆえにコストがかかる面もあると言われます。日本語の教育にコストがかかるとか、日本での生活指導に(文化的違いの相互理解のための)時間的コストが必要とも言われます。
さらに、どんな外国人でも日本に住めるわけではなく、一定の要件を満たした場合にのみ、日本に住むことができる制度になっているために、どのような外国人が日本に住むことが好ましいか、好ましくないかといった議論も多くあります。「制度」である以上、それは人が決めるものであり、人が決めるものであるため、人に備わっている大切な感情という側面も、こうした議論に付加されることになります。
人が生活していくことであるため、感情を排除することなど、到底、できるものではありませんが、感情は論理的な比較検討を得意とはしないものです。
このため、まずは論理的な面かつ経済的な面にのみ限定してスポットを当て、どういった外国人がどの程度のボリュームで日本に増加した場合、日本の産業に与える効果はどの程度あるのだろうか?という試算を行ってみることも必要でしょう。
この続きは、11月26日に富山大学で開催される「東アジアとともにいきる富山県の未来」のパネルディスカッションへどうぞ。

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国境を越えて移動する人々

2011-11-24 22:38:21 | ダイバーシティ
国境を越えて移動する人々

日本には今、たくさんの外国人が住んでいます。人口を数として均してしまうと、外国人の割合は2%とか、そのあたりになってしまいますが、地域や地区の個別のブロック単位でみると、住民の2割が外国人であったり、幼稚園児の9割が外国人であるということが、現在の日本の社会の姿なのです。
今から21年前の出入国管理法の改正に遡りますが、そのときを境に、日本に多くの外国人が住むようになりました。当時の絶頂の好景気を支えるための苦肉の策としての外国人受け入れの法改正と言われていますが、はからずも「絶頂」を境に、日本経済は大きく後退し、デフレを迎え、失われた10年、15年、20年と出口のない迷宮に入ることになりました。
しかし、そうした状況下にあって、自動車産業をはじめとした各種の製造業が日本経済を下支えしてきました。こうした製造業を中心に多くの日系ブラジル人などの外国人が就業していることも、日本社会の実情です。
そもそも国境を越えて人々が移動するということは、どういった法制度のもとに行われているのでしょうか。日本に住む外国人は、どういう法制度のもとに移り住み、それはどういう行政機関によって行われているのでしょうか。
日本の外国人の受け入れの基幹的な制度は、アメリカの移民法をベースに作られた入国管理制度であり、それを担当する入国管理局はImmigration Bureauであり、直訳すれば「移民局」です。移民局であるにも関わらず、なぜか「入国管理」という名称となっています。
このあたりに多文化共生を制度設計できない根本的な理由がありそうです。
この続きは、11月26日に富山大学で開催される「東アジアとともに生きる富山県の未来」の報告①「日本の出入国施策の現状と未来」へどうぞ。

http://t.co/X1FnknCA

NGOダイバーシティとやま設立記念フォーラム開催結果報告

2011-11-24 16:27:27 | ダイバーシティ
NGOダイバーシティとやま設立記念フォーラムの概要をご報告いたします。
以下、NGOダイバーシティとやまウェブサイトから転載です。

http://diversity-toyama.org/?p=249
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NGOダイバーシティとやま設立記念フォーラム開催結果報告

設立記念フォーラムの開催にあたり、私たちスタッフに一番多く寄せられた言葉。
それは「ダイバーシティって何?」でした。
それにも関わらず、本当に多くの人にご来場いただき、スタッフ一同、
とても感激しています。みなさんに支えられ、NGOダイバーシティとやまは
船出することができました。どうもありがとうございました。
みなさんからは、たくさんの励ましの声をいただきましたが、
「新しい時代の幕開けを感じた」という方もあり、これからも、みなさんとともに
歩んで行きたいなと思えるフォーラムとなりました。

ごく一部分に過ぎませんが、フォーラムの開催結果をご報告させていただきます。

第1部
○「ダイバーシティとやまが目指すもの~多文化共生なとやまの未来」代表 宮田

宮田からは、自身の日本語教師としての経験から、これまで外国人の学生の
教育や生活上の悩みなどに寄り添ってきたこと、そしてボランティアとしても
外国人の小中学生と向き合ってきたことから、「外国人が日本に住む」という難しさを
目の当たりにしてきたことをお伝えしました。
また、宮田は発達障害児にも同じ境遇があること、人には理解されにくい、
様々な困難を抱えている人がいることを、映像を使って会場に伝えました。
世界にはいろんな人がいる、いろんなちがいを持っている人がいる、
いろんなちがいがあるからこそ、すべての人が支えあって、
笑いあって楽しく生きる社会ができる。
そんなメッセージをお伝えしました。
静かで圧倒的に押し寄せる感動が会場を満たしました。

○「人の多様性が地域社会の未来を築く~diversity&Inclusion」
一般財団法人ダイバーシティ研究所 柴垣

ダイバーシティ研究所の客員研究員であり、NGOダイバーシティとやまの
副代表であり、この記事を執筆している私(柴垣)から、まだまだ耳馴染みのない
「ダイバーシティ」の理念的な部分をお伝えしました。
なぜ、これからの地域社会を考えるときに、ダイバーシティの視点が必要なのか、
マクロ的な視点から定量的に導き出せる未来の姿を提起しました。
そして、ダイバーシティの主役は多様な存在である個々人であり、
多様な個々人が存在しているからこそ、しなやかな地域づくりができる。
そして、単一の価値観を持つのではなく、重層した価値観をスタンダードに
していくことが必要だということを提言しました。

第2部
○「+思考で障がいが活きる経営戦略」 戸枝陽基さん

戸枝さんは言います。「福祉の王様は障害者福祉だ」と。
こども、思春期、おとな、お年寄り、そして亡くなるまで
福祉の範囲は広い。でも、年代で輪切りにしてはいけない。
人生トータルで福祉を考えなくてはならないし、もっとも
シビアな部分から考えていくことが福祉の王様たる所以だと。
障がいを持っている人にも、それぞれの個性や家庭や背景が
あります。個別輪切りで捉えてもイカンと。
また、障害者の社会復帰トレーニングについても疑問を
呈されます。戸枝さんいわく
「これは何のためのトレーニングですか?」
社会復帰施設の人いわく
「社会復帰、就職に向けたトレーニングです」と。
またまた戸枝さんいわく
「このトレーニングを続けて、就職できますか?」
社会復帰施設の人いわく
「いや~、無理でしょう」
またまた戸枝さんいわく
「じゃ、このトレーニングは何のためのトレーニングですか?」
社旗復帰施設の人いわく
「社会復帰のためです」と。
いったい、何のために作業しているのかということもありますし、
トレーニングに入る前に、「このトレーニングをすれば、
こう改善されますよ」という説明がないということも
指摘されます。
これは何も、作業所の人に問題があるわけではなく、
「障害者というものは、こういうものだ」
という刷り込みがあるからだと言うことです。
私たちは、無自覚に、障害者は就労できない、だから、就業の
トレーニングを受けなくてはならない、そして、就業トレーニング
だから、高い報酬も得られないという刷り込みを持ってしまっている。
と言います。
「周囲の人が考え、障がいのある人にも役割を持たせる
社会でないと」
戸枝さんは、障がいのある人の特性を見つけて、喫茶店や
ラーメン屋、キノコの栽培なども手掛けています。どんな
人でも働ける場があるからと仰います。
「例えば、生存機能が100点中5点しかない人がいるとする。
普通だったら5%しか機能しない人は何もできない人間に
なってしまう。だが、5%動いている、心臓が動いている限り
仕事は見つけられるはずだ。」
「すべての人が、生きている限り、可能性がある」
素晴らしいお話でした。
最後に、戸枝さんは、こうお話しされました。
「ちがいばかりを探すのではなく、共通項を見つける。
共通項を見つけて、つながりの輪をひろげる。こうした
輪を広げていくのが大切です。今日はダイバーシティという
点で、ひとつの集まりがあり、富山の場に、ひとつの
しずくが落ちた。
このしずくによってできた波紋は、ひとりひとりが受け止めて、
広げていくもの。
今日の参加者は、富山を変えていく波紋のひとつとなるでしょう。」

○「外国にルールを持つ子供たちの今と未来」 小島祥美さん
小島さんは、ご自身が学校に通っていたころ、毎日、学校に行くのが
楽しくて楽しくて仕方がなかったとのことで、小学校の先生に
なったそうです。
ですが、教壇に立ったときに外国籍児童を担当して、
コミュニケーションもままならず、そして、彼らに元気がないことに
ショックを受け、「学校がつまらない」と言う彼らのこと、彼らの背景を、
まったく知らない自分に気づき、南米へと一人旅に出かけたそうです。
阪神淡路大震災が起きたとき、神戸へ行き、被災した外国人住民のために
多言語情報発信などの活動に参加され、そうした中で、学校に
通っていない(不就学の)外国籍の子どもに出会い、またまた
衝撃を受けたとのことです。
ショックの多い人生ですね。
自治体では不就学の子どもの実態を把握しておらず、不就学の
子どもは「社会からまったく見えない」ことに驚き、どうしたら
社会から見える存在になるのか、笑顔が見えるようになるのか、
悩みに悩んだ末、「私が全員に会いに行けばいいんだ!」と
思ったそうです。
しかしながら、そうした小島さんの考えに共感を示してくれる自治体に
出会うことができず、ようやくその必要性を理解してくださったのが、
岐阜県可児市の皆さんでした。それを機に、小島さんは2003年に可児市に引っ越され
たそうです。
このとき可児市では16人に1人が外国人住民で、アンケートでは本当の
声が聞こえないことから、小島さんは家庭訪問を実施されました。
訪問先の外国人の人はみなさん協力的で、小島さんはご飯をよく
ご馳走になったそうです。
この家庭訪問から学校に通っていない子どもたちのさまざまな
境遇を知ることになりました。働いている子、妊娠している子、
出産した子、また、就学の状況も様々であることがわかりました。
子どもたちがドロップアウトした最大の理由は、将来に夢を
持っていないことでした。子どもたちは小島さんに訴えました。
「僕らは一生懸命、日本語の勉強をしてる」
「だけど、どんなに一生懸命勉強しても、テストに出ないじゃないか」
「成績にも現れない」
「勉強しなくても働けるし、みんな働いてる」
「勉強して大学に行った外国人がいるのか」
「正規雇用されている外国人がいるのか」
「オマエの言っていることは全部ウソだ!」
こうした子どもたちの声を真摯に受け止め、小島さんは子どもたちが
夢が持てるよう様々な機関と連携を深め、また、小島さん自身が
コーディネーターとして可児市に採用され、ついに、可児市長が
「外国人児童の不就学ゼロ宣言」を打ち出すことになりました。
今日出来たことを喜び、具体的な目標を作っていく、そして
進路や選択肢を広げていく、こうしたことを子どもたちに見せていく
ことで1年後には、1割の子どもが不就学だった可児市で、公立中学校からドロッ
プアウトすることが多かった可児市で、不就学がゼロとなり、
中3の外国人生徒全員が卒業するまでに至りました。感動的です。
小島さんは言います。
「自己肯定感を持つことが大切。それにはダイバーシティの
視点で、環境が変わっていくことが必要」と。
今、小島さんは、映像作りというツールを使って、子どもたちが
将来の夢を語り、外国人の子ども達の姿を社会にみえることを
されています。ある子どもは言いました。
「多文化共生は当たり前のこと。私の夢は多文化ソーシャルワーカーになることです」と。







最後に。
パネルディスカッションも本当に楽しく、いろんな意見がありましたが、
これは省略させていただきます。
また次回、会場のみなさんに出会えることを楽しみにしています。
今回、お会いすることが出来なかった方、フォーラムの概要をお読みになり、
ダイバーシティに関心をもたれた方、ぜひ、私たちにご連絡をください。
一緒に「ダイバーシティなとやま」をつくっていきましょう!