外国人の受入や移民政策の話になると、必ずといっていいほど諸外国での多文化主義や多文化施策はどうなっているのかという話になる。
そして多くの記事や論文、著書では「諸外国では失敗している」ゆえに「日本でも失敗する」といった短絡的な論調でまとめられている。
今回、ご紹介するのはForbesの記事で、「寛容な多文化主義政策が頓挫した国、オランダで何が起きたのか」というもの。
引用元はこちら。
https://forbesjapan.com/articles/detail/27574
まず、出だしからこうはじまる。
「欧米の多文化主義政策は、なぜ行き詰まってしまったのか。そして、「多文化共生社会2.0」時代に突入しようとしている日本は多文化先進国から何を学ぶべきなのか。第1回の記事では欧米の多文化共生政策の失敗を概観したが、今回はいち早く多文化主義政策を導入し、そして頓挫してしまった「自由の国」オランダの例を見てみよう。」
そして、著者は多文化主義の定義を「社会の文化・宗教の多様性を尊重し、マイノリティに自由と平等を保障しつつ、かれらの社会・経済統合を促す政策」としている。
ちなみに、オランダの多文化主義政策がいかに進んでいるかという点については、「移民のための市民権指標」(ICRI)では、オランダはスウェーデンに次いで第2位である(2013年現在)。多文化政策のお手本と言われるカナダやニュージーランドよりもずっと評価が高い」としている。
それゆえに、オランダでの頓挫に学ぶ点が多くあるという論旨になっている。
多文化主義政策が進んでいると紹介しながらも、行き過ぎていっるのではないかということで、いくつかの事例も紹介している。
「第二次大戦のホロコーストではポーランドに次いで多数の犠牲者を生んだオランダ。戦後は、宗教・文化・性的指向のマイノリティの権利や尊厳を重視し、高度にリベラルな社会政治制度づくりに注力した」、「インドネシアや南米スリナムの旧植民地からの移住者や、モロッコやトルコからの出稼ぎ移民と家族を国家の一員として受け入れ、かれらの文化・宗教の自由を保護し、オランダ人と同等に公共サービスや福祉を与えてきた」、「ヒンズー教やイスラム教系宗教学校など、マイノリティたちによる言語や文化の民族教育は国が全額補助した」、「国営放送のテレビやラジオの放送時間の20%は民族マイノリティ向けの番組に充てることが法律で義務づけられた」、「民族コミュニティ内の「自治」を認め、国は一切干渉しないこととした」云々。
後半に行けばいくほど、それはいかがなものか?という疑問が出てくるだろう。
もちろん、そんな構成で文章を作成しているのだから。
そして、こう続く。
「理想像に近いインクルーシブな多文化主義システムを作り上げたオランダだったが、現実には、移民の社会統合は進まず、オランダ人との間にできた溝は埋まらなかった。
1999年から2004年の間の平均では、15歳〜64歳の生産年齢人口の移民(EU加盟国は除く)の就業率は58パーセント弱、オランダ人の就業率より2割以上低い。1973年のオイルショックや2008年のリーマンショックなど不景気のたびに移民の失業率は跳ね上がったが、とくに2世の若者層の失業は高いレベルで推移している。
移民の多くは、以下に述べるようなエスニック地区で育ったため、オランダ語が話せず、国の文化やしきたりにも疎く、低学歴・低スキルというハンディキャップを負っている。かれらのような「落ちこぼれ」を大量に出した責任は、多様性(ダイバーシティ)を尊重するあまり、マイノリティの融合をないがしろにしてきた政府にあるというのがもっぱらの意見だ。」
「寛容もここまで度を越すと福祉に依存する移民が増え続け、福祉をお目当てに移住してくる外国人が増え、国の福祉行政が破綻するのではないか」と、オランダ国民は眉をひそめているという。
自分はかれこれ10年以上、多文化の世界に慣れ親しんでいるが、果たして諸外国の状況を踏まえて、「これだから多文化主義は失敗する」みたいな言い方が成り立つのか甚だ疑問に思っている。
確かに日本の多文化共生は遅れている。外国人の人権は十分に保護されているとはいえないし、日本語教育はいまだにボランティア任せで、子どもの教育も放置され続けているといっていいだろう。
どちらかというと、スタートラインにすら立っていないとも言えるかもしれない。スタートラインにすら立っていない者と、50mや100mも先を走っている者と比較することなのか。多くの人は100m競争のように物事を単純化し、50m先には、こういう事態が待ち受けている。100mも進むとこうなってしまう。だから100m走はしない方がいいと考えているのかもしれない。
しかし、ごく個人的には同じ競技だとは思っていないし、ルールも同じだと思ってもいない。近代社会の法制度は似たようなところは多くあるかもしれない。だからといって、日本における多文化共生が諸外国と比較可能と断ずることができるのだろうか。
少し立ち止まって考えてみれば、日本という国の特異性、日本人という特異性、日本語の特異性。そういうものが横たわっていることに気づくのではないか。
ただ、多くの人にとって、それは当たり前すぎて、そして空気のようにそこに満ちており、実感することも叶わないことなのかもしれないが。