多文化共生なTOYAMA

多文化共生とは永続的なココロの営み

多文化共生考える機会に 6月28日に講演会 伊賀市で

2015-06-25 16:02:28 | 多文化共生
(以下、伊賀タウン情報ユーから転載)
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多文化共生考える機会に 6月28日に講演会 伊賀市で

編集部 (2015年6月 9日 12:17)
150609.jpg 多文化共生理解講演会「共に学び、共に楽しむ、共笑な毎日をめざして」が6月28日午後1時30分から、伊賀市上野丸之内のハイトピア伊賀でを開かれる。入場無料。

 市の多文化共生推進事業の一環。多文化共生社会の実現に向けた取り組みを紹介を通じて市民に身近に感じてもらうことが目的。

 第1部の講演会は、午後1時30分からスリランカ出身で羽衣国際大学(大阪府堺市)教授の「にしゃんた」さんが、地域社会での多文化共生を進める上で大切なことについて話しをする。

 第2部は、午後3時からボランティア団体「伊賀日本語の会」テクニカルアドバイザーの船見和秀さんがコーディネーターとなり、市職員や自治協議会の代表者、外国人住民ら5人と「多文化共生のまちづくり」についてパネルディスカッションを行う。

 定員200人。当日は、ポルトガル語、スペイン語の同時通訳もある。

 問い合わせは伊賀市人権生活環境部市民生活課(0595・22・9702)へ。

国際色 街づくりに 多文化共生へ振興会発足 沖縄市

2015-06-25 15:59:36 | 多文化共生
(以下、琉球新報から転載)
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国際色 街づくりに 多文化共生へ振興会発足 沖縄市
2015年6月11日 13:30


沖縄市に発足した、おきなわ多文化共生のまちづくり振興会の開所式=6日、市仲宗根町


【沖縄】外国人との共生を図る「おきなわ多文化共生のまちづくり振興会」が6日、沖縄市仲宗根町24の5に発足し、開所式があった。市国際交流協会会長を務めた喜納高宏さんが開設した。約50カ国の国籍を持つ外国人が住む沖縄市で、文化の違いを認め合い、対等な関係を築く地域社会づくりに取り組む。
 事務所は約40平方メートルの広さで、各国のオープンスペースとして講座や会議、イベントなどの開催を計画している。県内在住外国人の制作した工芸品などのアンテナショップとしての機能も持つ。
 開所式には県議会、市議会、県、関係機関などの代表ら多数が参加した。喜納代表は「コザの持つ国際色、他地域にない自由度を、多くのサポーターと共に街づくりに反映していきたい」と話し、市多文化共生推進計画と連携した取り組みを展開していく考えを話した。
 振興会では、多文化共生カフェと銘打った企画を今後、定期開催していく方針で、この日はイタリア編として講演会や映画上映会が開催された。
 イタリア総領事館(大阪)の沖縄連絡員のマッセターニ・マルコさんは、在住18年間の沖縄について講演した。子どもが1人で出歩き、オートロックではなく外から扉が開く生活環境を示し「イタリアでは考えられない安全な生活は、お金で買えない価値あるもの。沖縄は天国」と評価した。
 沖縄生活にもなじんだマルコさんは「最近は驚くこともなくなったが、沖縄では差別に遭ったこともない。オープンマインドを示す『いちゃりばちょーでー』の文化は素晴らしい地域の誇り」と、軽妙洒脱(しゃだつ)な語り口で会場を沸かせた。
 喜納さんは、7月のカフェはペルー編、8月はブラジル編を計画しており、在住外国人の集いの場としても活用を呼び掛けている。月~金曜日は午後3~7時まで開所し、土日、祝祭日はイベントなどを計画している。問い合わせは(電話)098(989)9392。

93歳寂聴さん、国会前「命懸け」スピーチ

2015-06-22 22:03:21 | ダイバーシティ
(以下、東京新聞から転載)
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93歳寂聴さん、国会前「命懸け」スピーチ

2015年6月19日 朝刊


国会前で行われている抗議行動に参加し、安保法案反対を訴える瀬戸内寂聴さん=18日午後、東京・永田町で
写真
 死を覚悟した訴えが、国会前に響きわたった-。十八日夜、東京・永田町の国会議事堂近くで繰り広げられた安全保障関連法案に反対する抗議行動に、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(93)が参加した。すぐれない体調と高齢を押して駆け付けた「命懸け」のスピーチは、主催者発表で二千人以上集まった参加者の心に深く刻み込まれた。 
 「どうせ死ぬならここに来て、『このままでは日本はだめだよ』と申し上げて死にたかった」。法衣姿の寂聴さんが車いすから立ち上がり、国会議事堂裏の歩道で語り始めると、抗議行動に集まった人たちからどよめきが上がった。
 背骨の圧迫骨折や胆のうがんなどで昨年五月から療養生活に入り、ほとんど寝たきりだった。今年四月には法話を再開したが、完治にはほど遠い。
 一九二二年に生まれ、太平洋戦争末期の空襲では母親と祖父を亡くした。自著で「戦争の生き残り老人は、嫌われてもののしられても、戦争反対を言い続けなければならない」と記すなど、戦争を憎む思いは人一倍強い。九一年の湾岸戦争、二〇〇一年の米アフガニスタン攻撃の際には断食も決行した。
 「良い戦争は絶対ない。すべて人殺しだ」。この日も、反戦を訴える舌ぽうは衰えをみせなかった。約五分のスピーチを終えると、参加者たちは「ありがとう」と声を上げた。
 抗議行動への参加を決意したのは二日前の十六日。スピーチ後、会見した寂聴さんは「年寄りを集めて国会前に座りたかった。必ず冷えて三人や四人は死ぬ。あなた方(報道陣)はほっとけないから大騒ぎする」と冗談めかして振り返った。
 今の状況は開戦に向かっていた当時の日本の雰囲気に似ているという。「表向きは平和だが、すぐ後ろの方に軍靴の音が続々と聞こえている。そういう危険な感じがする」
 療養中も法案をめぐる国会論議に注目していた。「このまま安倍晋三首相の思想で政治が続けば、戦争になる。それを防がなければならないし、私も最後の力を出して反対行動を起こしたい」と決意を語った。
 参加者からは感激の声が相次いだ。東京都小平市のNPO法人役員保坂みどりさん(63)は「あの年齢で、命を懸けて来てくださるなんて。すごく勇気をもらった」と声を弾ませた。
◆国会前スピーチ要旨
 瀬戸内寂聴です。満九十三歳になりました。きょうたくさんの方が集まっていらっしゃったが、私よりお年寄りの方はいらっしゃらないのではないか。去年一年病気をして、ほとんど寝たきりだった。完全に治ったわけではないが、最近のこの状態には寝ていられない。病気で死ぬか、けがをして死ぬか分からないが、どうせ死ぬならばこちらへ来て、みなさんに「このままでは日本はだめだよ、日本はどんどん怖いことになっているぞ」ということを申し上げて死にたいと思った。私はどこにも属していない。ただ自分一人でやってきた。もし私が死んでもあくまでも自己責任だ、そういう気持ちで来た。だから怖いものなしです。何でも言って良いと思う。
 私は一九二二年、大正十一年の生まれだから、戦争の真っただ中に青春を過ごした。前の戦争が実にひどくって大変かということを身にしみて感じている。私は終戦を北京で迎え、負けたと知ったときは殺されると思った。帰ってきたらふるさとの徳島は焼け野原だった。それまでの教育でこの戦争は天皇陛下のため、日本の将来のため、東洋平和のため、と教えられたが、戦争に良い戦争は絶対にない。すべて人殺しです。殺さなければ殺される。それは人間の一番悪いことだ。二度と起こしちゃならない。
 しかし、最近の日本の状況を見ていると、なんだか怖い戦争にどんどん近づいていくような気がいたします。せめて死ぬ前にここへきてそういう気持ちを訴えたいと思った。どうか、ここに集まった方は私と同じような気持ちだと思うが、その気持ちを他の人たちにも伝えて、特に若い人たちに伝えて、若い人の将来が幸せになるような方向に進んでほしいと思います。

93歳寂聴さん、国会前「命懸け」スピーチ

2015-06-22 22:03:21 | ダイバーシティ
(以下、東京新聞から転載)
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93歳寂聴さん、国会前「命懸け」スピーチ

2015年6月19日 朝刊


国会前で行われている抗議行動に参加し、安保法案反対を訴える瀬戸内寂聴さん=18日午後、東京・永田町で
写真
 死を覚悟した訴えが、国会前に響きわたった-。十八日夜、東京・永田町の国会議事堂近くで繰り広げられた安全保障関連法案に反対する抗議行動に、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(93)が参加した。すぐれない体調と高齢を押して駆け付けた「命懸け」のスピーチは、主催者発表で二千人以上集まった参加者の心に深く刻み込まれた。 
 「どうせ死ぬならここに来て、『このままでは日本はだめだよ』と申し上げて死にたかった」。法衣姿の寂聴さんが車いすから立ち上がり、国会議事堂裏の歩道で語り始めると、抗議行動に集まった人たちからどよめきが上がった。
 背骨の圧迫骨折や胆のうがんなどで昨年五月から療養生活に入り、ほとんど寝たきりだった。今年四月には法話を再開したが、完治にはほど遠い。
 一九二二年に生まれ、太平洋戦争末期の空襲では母親と祖父を亡くした。自著で「戦争の生き残り老人は、嫌われてもののしられても、戦争反対を言い続けなければならない」と記すなど、戦争を憎む思いは人一倍強い。九一年の湾岸戦争、二〇〇一年の米アフガニスタン攻撃の際には断食も決行した。
 「良い戦争は絶対ない。すべて人殺しだ」。この日も、反戦を訴える舌ぽうは衰えをみせなかった。約五分のスピーチを終えると、参加者たちは「ありがとう」と声を上げた。
 抗議行動への参加を決意したのは二日前の十六日。スピーチ後、会見した寂聴さんは「年寄りを集めて国会前に座りたかった。必ず冷えて三人や四人は死ぬ。あなた方(報道陣)はほっとけないから大騒ぎする」と冗談めかして振り返った。
 今の状況は開戦に向かっていた当時の日本の雰囲気に似ているという。「表向きは平和だが、すぐ後ろの方に軍靴の音が続々と聞こえている。そういう危険な感じがする」
 療養中も法案をめぐる国会論議に注目していた。「このまま安倍晋三首相の思想で政治が続けば、戦争になる。それを防がなければならないし、私も最後の力を出して反対行動を起こしたい」と決意を語った。
 参加者からは感激の声が相次いだ。東京都小平市のNPO法人役員保坂みどりさん(63)は「あの年齢で、命を懸けて来てくださるなんて。すごく勇気をもらった」と声を弾ませた。
◆国会前スピーチ要旨
 瀬戸内寂聴です。満九十三歳になりました。きょうたくさんの方が集まっていらっしゃったが、私よりお年寄りの方はいらっしゃらないのではないか。去年一年病気をして、ほとんど寝たきりだった。完全に治ったわけではないが、最近のこの状態には寝ていられない。病気で死ぬか、けがをして死ぬか分からないが、どうせ死ぬならばこちらへ来て、みなさんに「このままでは日本はだめだよ、日本はどんどん怖いことになっているぞ」ということを申し上げて死にたいと思った。私はどこにも属していない。ただ自分一人でやってきた。もし私が死んでもあくまでも自己責任だ、そういう気持ちで来た。だから怖いものなしです。何でも言って良いと思う。
 私は一九二二年、大正十一年の生まれだから、戦争の真っただ中に青春を過ごした。前の戦争が実にひどくって大変かということを身にしみて感じている。私は終戦を北京で迎え、負けたと知ったときは殺されると思った。帰ってきたらふるさとの徳島は焼け野原だった。それまでの教育でこの戦争は天皇陛下のため、日本の将来のため、東洋平和のため、と教えられたが、戦争に良い戦争は絶対にない。すべて人殺しです。殺さなければ殺される。それは人間の一番悪いことだ。二度と起こしちゃならない。
 しかし、最近の日本の状況を見ていると、なんだか怖い戦争にどんどん近づいていくような気がいたします。せめて死ぬ前にここへきてそういう気持ちを訴えたいと思った。どうか、ここに集まった方は私と同じような気持ちだと思うが、その気持ちを他の人たちにも伝えて、特に若い人たちに伝えて、若い人の将来が幸せになるような方向に進んでほしいと思います。

フィリピン出身の韓国国会議員・李ジャスミンさん 「多民族・韓国」をどう見るか

2015-06-02 18:14:45 | 多文化共生
(以下、The Huffington Postから転載)
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フィリピン出身の韓国国会議員・李ジャスミンさん 「多民族・韓国」をどう見るか
The Huffington Post
投稿日: 2015年06月02日 12時30分 JST


韓国の国語辞典では、「韓国人」を「韓国国籍を持つか、韓民族の血統と精神を持つ人」と定義している。
しかし韓国は今、外国からの移住と国際結婚が増加し、「韓国人」という言葉も再定義を迫られている。急増する農村の結婚や人口の統計を見れば、多文化家庭(国際結婚家庭)の数は間違いなく今後も増えていくだろう。増加する多文化家庭は韓国を多様性ある社会にするものであり、その過程で偏見と社会的な葛藤も生じる。

李ジャスミンさんは、フィリピンで生まれ、18歳で韓国人と結婚して韓国の地を踏んだ。韓国籍を取得し、韓国の外国人家庭や国際結婚家庭を支援する活動に従事しながら、テレビや映画にも出演していたが、2012年の総選挙で与党・セヌリ党から比例代表で立候補し初当選した。すると、韓国社会からの激しいバッシングや、インターネット上での人種差別的な書き込みにさらされることになった。そんな注目の女性に、ハフポスト韓国版がインタビューした。

──どうして韓国に来たんですか?
夫に言われて、韓国に挨拶にだけ行くつもりでした。両家とも結婚を反対しましたよ。フィリピンの結婚式には夫の家族は誰も来なかったの。実家の両親は「おまえはなぜ歓迎されないのか」と言われました。私は純粋だったんです。「結婚はこの人とするの、夫の家族とするんじゃない」と思っていた。ところが韓国に来てみると、結婚とはまさに家族とするものだった(笑)。もともと韓国に定住するつもりはありませんでした。

──でも、どうして定住することになったのですか?

3カ月後にフィリピンに帰ったとき、妊娠したことがわかりました。夫は「絶対に韓国で産め」と言って、韓国に戻ってきた私をフィリピンに帰さなかったんです。私はフィリピンに帰って学校を卒業しようと思っていたのに、夫も義理の父母も「子供は誰が世話するの?」と言いました。後で聞いた話ですけど、私をフィリピンに帰したら初孫を抱けないと心配していたそうですよ。

──今はどうですか?

今も一緒に住んでいます。最初は義理の両親と義理の祖父母、義弟まで6人が一緒に住んでいました。私が子供を2人産んで、義弟が結婚して子供ができたら家族が11人まで増えました。2010年に夫が事故で亡くなり、義理の祖母も亡くなったので、今は9人です。
「多文化政策に与党も野党もない」

李ジャスミン議員は、2012年の総選挙でセヌリ党の比例代表で15位で当選して国会議員になった。それ以前は、ソウル市の外国人公務員第1号となる「外国人生活支援主務官」を務め、韓国語が堪能なのでKBSテレビの国際結婚家庭を紹介するバラエティー番組「Love In Asia」やEBS(教育放送)の韓国語教育番組などに出演した。
──国会で印象深かったことは?

最初、他の議員さんから「韓国語がうまいね」と言われました。いくら外国出身でも、国会議員になるくらいなら韓国語は上手で当たり前です。「私は外国出身の女性だから、こんなことを言われるんだ。固定観念を破らなければ。外国出身の代弁者として国会に来たからには、頑張らなければ。私が会える人にはみな会わなければ」と心に誓いました。

──最初の外国出身の国会議員として、何がいちばん大変でしたか?

「初めて」なのが最も難しいところです。新しい道を切り開かなければならないのに、道を尋ねることも、誰かに着いていくこともできないけど、私の後に2番目、3番目の外国出身議員が出てこなければならない。インターネットのコメントでこんなものを見ました。「韓国の国会議員が、なぜ外国人のための政策をするのか」。 韓国人のための政策をする議員は299人もいます。私は「韓国人になった外国出身者を代弁しろ」と国会に送られたのです。選挙区ではない、比例代表の趣旨としてもそうです。

──セヌリ党が比例代表の名簿に載せた理由は何でしょうか。与党は外国出身者を主な有権者と認めているのでしょうか?

そう見ることは可能です。実際には、選挙権を持つ外国出身者は15万〜17万人しかいませんが、その義理の両親がいます。選挙中は、劣勢と言われた地方を中心に何度も通いましたが、私を見て「お母様、セヌリ党に入れてください」という外国出身の女性が多かったんです。

──セヌリ党の政策は、ジャスミンさんと合わないのではないですか?

多文化政策(国際結婚家庭の支援政策)は、与党も野党もありません。特に農村選出の議員は関心が高いです。私のところによく来て、私に多くを期待してくれている。ところが私が一人でできることではありません。任期の前半は外交統一委員会で北朝鮮の脱北者政策に関わりましたが、多文化政策と似ていて参考になりました。そして女性家族委員会で多文化政策、任期の後半は環境労働委員会で外国人労働者政策を担当しています。本当に不思議なのは、野党は外国人労働者に関心が高いと思っていたのに、違うんですよ。外国人労働者は選挙権がないから。
ネット上のバッシング「腹いせだと思いたい」


インターネットでは、フィリピン生まれの彼女に「お前の国に帰れ」「フィリピンで発生した韓国人殺害の責任を取れ」と非難が殺到する。ドイツ生まれで韓国籍を取得したイ・チャム前韓国観光公社社長も経験しなかったことだ。野党・新政治民主連合が発議した児童福祉法改正案(外国人家庭の子供の支援策拡大)に、ネットで「李ジャスミン法」の名前がついて広く知れわたり、李ジャスミン氏は発議に加わってもいないのに「不法入国者の子供も支援するのか」と激しく攻撃され、ポータルサイトの「リアルタイム検索語順位」にも登場した。
──インターネットで見かける人種差別発言の中で代表的な「お前の国に帰れ」という言葉ですが、何か言いたいことはありませんか?

私の国に来ているじゃないですか。私の国は韓国です。フィリピンの人は非常に肯定的で楽観的です。おそらく私がずっとたくましく生きていられるのは、そのおかげです。この韓国社会で、そうでもなければおかしくなっていたと思います。「東南アジア人と結婚すると、韓国の平均IQが落ちる」「数学の平均点が下がる」といったコメントもあります。だけど、国際結婚家庭の子のサッカーチームがあるんですが、その監督が「子供たちを指導していて韓国サッカーの希望を見た」と言っていました。ある子のお母さんはラテン系ですが「韓国の子供たちにないものがうちの子にはある」と言います。ラテン系は柔軟性が高いですから。

──そういったコメントは、若い人が書いていると思われますが、外国出身者への見方は世代別に違いますか?

女性家族部が文化受容度の調査をしています。小・中・高校生は大人よりも高く出ています。若年層の方が開かれているのです。

あるとき、捜査機関の関係者から議員室に電話が来ました。私の悪口をネットに書きこんで、第三者から名誉毀損で告発された人がいたそうです。「なぜそんなことをした」と聞いたら「単に面白いから。みんな書き込んでいるから。そして『いいね!』がものすごく押されるから」と答えたそうです。インターネット特有の現象でもあります。「李ジャスミン」という単語が入ると、より多くの人が見るそうです。インターネットメディアも、私に関係ない内容でも常に記事のタイトルに「李ジャスミン」と入れる。たくさんクリックされるから。悲しいですよ。私のブログは「コメント欄」を閉鎖しました。たくさんの国際結婚家庭の人が私のブログを読みたがっています。ところが、ある外国出身の女性からメールがきました。「李議員が好きでブログを訪問したのに、傷ついてしまいます。申し訳ありませんが、もうこれ以上見られません」

2年前にある経済学者から「景気が悪ければ悪いほど、最も弱いターゲットを攻撃する。今後も景気がさらに悪くなるだろうから覚悟してください」と言われました。腹いせの対象なんでしょうか。私はそれも肯定的に考えようとしています。腹いせだと思いたい、腹いせならどれほどいいか。本心であんなコメントを書き込んでいるとしたら、本当に良くないこと。でも、社会がそうなればなるほど、コメントの質が悪くなるほど、国会では、肯定的であれ否定的であれ議題となって、外国人政策に頭を悩ませることになるんです。

──すべて前向きにとらえているようです。そのようなエネルギーを与えたのは誰ですか?

当然、最も多くの影響を与えたのは夫です。韓国社会のすべてを夫から学び、私が政界に入門することを誰よりも強く支持してくれました。夫との結婚15年の間、私たち夫婦はほぼ毎日夕方に軽くお酒を飲んで、カラオケに一緒に行きました。みんなから「毎日顔を合わせているのに、どうしてそんなに会話が多いのか」と言われました。私が韓国という国を肯定的に見られるようにしてくれたのは、まさに私の夫でした。

──それでもストレスが爆発する瞬間、どう気分を鎮めていますか?

携帯電話でゲームをします(笑)。忙しい中、携帯電話を一人でのぞいてゲームをすると、何か自分にエネルギーが溜まった感じがします。昔はジムに行って運動しましたが、どこへ行っても顔が知られてしまったので、できれるだけ公共の場所は避けて、一人でできることだけします。

──政治以外に、最も重要と思うことは何ですか?

子供です。私が政治の門を叩いたのも子供のためです。韓国の国際結婚家庭に住んでいる子供たちは先例がなく、お手本になる人がいない。他の人ができないなら、私が子供たちの先例になろうと思ったんです。政治に飛び込んでどのような非難を受けても、たとえ0.001%でも、今より役立つ社会を作ることができるのなら、やらなければならないと決心しました。そして国際結婚家庭の子供たちにとっていいことであれば、すべての韓国の子供たちにもいいことだと信じています。

──国際結婚家庭であるなしに関わらず、次世代を担う子どもたちに最もかけてあげたい言葉は何ですか?

親と社会と他人が求める人生ではなく、自分自身の人生を生きなさい。マルチン・ルーサー・キングは「If I cannot do great things、I can do small things in a great way」(偉大な仕事ができなければ、小さなことを偉大な方法でなしとげられる)と言いました。多くの人々はただ「偉大で巨大な成果」だけを目標にしています。しかし、小さなことでも偉大な方法で成し遂げられれば、それは本当に素晴らしい人生なのです。
「韓国に合った移民政策を見つけなければ」


──外国出身の国会議員が誕生して、政界や韓国社会で変化したことがありましたか。
いろいろ批判されたけど、私は気にもとめません。それでも私は逃げ隠れしませんでした。行事もすべて行きましたよ。他の議員たちから言われました。「韓国が国際社会に開かれた『マインド』を持っていると思っていたのに、まだ韓国民の理解のレベルがそこまで行っていなかった。李ジャスミン議員がいるから『私たちは遅れている。もっと改善しなければ』とわかった」。政策をつくる人たちが「大きな気づき」を得たと言います。反発が大きいほど同僚議員は「これは正さなければ」と、さらに悩むことになるのです。

──任期が1年残っています。2016年の総選挙では外国出身の議員が増えると予想しますか?

維持できればいいと思っています。(野党議員が)冗談で「誰か紹介してほしい」と言ってきましたが、人材を見つけるのは難しいことです。まず韓国語が上手でなくてはならない。私が韓国に来た20年前は、日本とフィリピンの出身者が多かった。両国とも統一教会の信者が多いからでしょう。ベトナムは2000年から増えました。フィリピン人は英語を話すけど韓国語はうまくない。日本人は政界進出が難しい。だから私のような人はあまり多くありません。

──国会議員の間にぜひやり遂げたいことは何ですか?

韓国は10年後、20年後には、より国際的な社会になります。国の扉を閉じない限り、構成要素は多様化するしかありません。それをどう取り込んでいくか、今は何の計画もありません。次の選挙で国会議員にならなくても、多文化政策を総括する「コントロールタワー」ができればいいですね。現在、国務総理室に3つの委員会があります(外国人政策委員会、外国人労働者政策委員会、多文化家庭政策委員会)が、事務局もなく委員だけで年に1、2回会議するだけでは難しいと言わざるを得ません。

──子供たちはすでに大学1年生、中学校3年生です。軍隊に行ったり就職したり、大変な年頃ですね。
去年、国際移住機関(IOM)の総会で、お父さんが日本人、お母さんはフィリピン人という28歳の人に会いました。日本に住んでいるその人は、幼いときは分からなかったけど、20代半ばになると「子供の頃に受けたあれは、実は差別だったことがわかるようになった」と言いました。子供たちに「いつ差別を受けたと思う?」と聞くと「ない」と言います。でも後で分かるんです。韓国の国際結婚家庭というのはまだ20年くらいの歴史しかありません。5〜10年後に、この世代の子供たちが、自分たちが受けた差別を語り出すんです。

──差別を受けずに就職できるような制度を作れないでしょうか? アメリカには性少数者枠のようなのがあります。

韓国社会が持つ大きな問題の一つです。国際結婚家庭の子どもたちは、他の子と同じように扱われるべきか、あるいは特別扱いされるべきか、ジレンマがあります。私の娘は学校で出席を取るとき、他の子と同じように「はい」と答えたら、先生が突然止まって「君のお母さんはフィリピン人だから元気だな」と言いました。そこまではいい。あとで子供は私に「先生に『私のことは少し放っておいて』と言って」と言いました。授業中も「何をしてくれるのかな」と、ずっとうちの子にばかり尋ねてくる。私はこれを「誤った配慮」と表現しています。韓国で生まれた私の娘みたいな子には、他の子と同じように接するのがいいと思います。

韓国社会には国際結婚で生まれた2種類の子供がいます。韓国で生まれた子と、外国で生まれた子。韓国の制度では一緒くたにして支援している。初期の国際結婚家庭の子供たちは全員、放課後に学校がありました。集まって景福宮(ソウルの史跡)に連れて行かれたりしましたが、韓国で生まれ育った子供たちが、なぜ景福宮に2回も3回も行かなければならないのか。福祉のように一人一人に合わせた対応が必要なのに、研究もされていない。

──ハフィントンポストの各国版編集長が、ドイツのミュンヘンで会議をした時、フランス版の編集長に「シャルリ・エブド」のテロについて質問しました。「移民の歴史が長いのに、社会や文化が制度的に対応できなかったことが原因ではないか。韓国も同じ状況を経験するかもしれない。アドバイスをしてくれ」と。ところが「ご覧の通り、私たちもアドバイスする言葉がない」と言われました。

ヨーロッパは、韓国と状況がとても違います。フランスは移民労働を受け入れていますが、韓国は事実上だめでしょう。韓国で育つ国際結婚家庭の子供たちは韓国的な要素を持っています。私の息子も韓国生まれ、韓国育ち。フィリピンについては何も知らず、事実上、純粋な韓国人です。母親がフィリピン出身というだけです。韓国はアメリカやヨーロッパの移民政策を真似るのではなく、韓国に合った政策を見つけなければならないと思います。