以下、長くなるが良記事なので、全文引用する。
引用元はこちら。
https://www.buzzfeed.com/jp/yoshihirokando/mochizuki-1
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日本は「遅れてきた移民国家」だ 外国人労働者を巡る現実と建前 望月優大さんに聞く
日本が外国人労働者の受け入れに舵を切った。何が起きるのか。「ふたつの日本」を出版した、ニッポン複雑紀行編集長の望月優大さんに聞いた。
ーー政府は「これは移民政策ではない」と強調しています。
まず前提として言えるのは、「移民」という言葉を客観的に定義するのは不可能だということです。
国連は「国際移民の正式な法的定義はありません」としています。
そのうえで「多くの専門家は、移住の理由や法的地位に関係なく、定住国を変更した人々を国際移民とみなすことに同意しています」「3カ月から12カ月間の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住と呼んで区別するのが一般的です」としています。
要するに「あくまでそういう言い方が一般的です」ということに留まっています。
このほか、在留年数や出入国回数に制限のない在留資格を持ってる人を「移民」と呼ぶというケースや、永住資格のある方のみを「移民」と呼ぶ人もいます。
一方、2016年自民党のプロジェクトチームがつくった文書では「入国時点で既に永住資格を持っている外国人」を「移民」とするという定義を採用しています。これは、あらゆる移民の定義の中で、最も狭い定義です。
この自民党PTの定義に照らすと、日本に入ってきている外国人の人たちは、ほとんど「移民ではない」ことになります。
政府が「移民政策ではない」と言う前提として、そもそも「移民」という言葉の定義自体が極めて流動的で、どうとでも動かせるゴールポストのような側面がある、ということを考える必要があります。
二つの支持基盤にアピールしたい政府・与党
ーー政府はなぜ狭い移民の定義を用い、自分たちの政策を「移民政策ではない」と言うのでしょうか。
いくぶん憶測な部分もありますが、日本の中で暮らしていく、定住していく外国人が増えることに対して、ネガティブな気持ちがある一定の国民がいて、その人たちが自分たちの支持層の一部だろうというふうに、与党が思っているのでしょう。その人たちに対して、ポーズをとっているということだと思います。
自民党は基本的に保守的な政党です。なぜその政党を中心とする政府が外国人の受け入れを加速するのかという点に、違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれません。
自民党の支持基盤には経済界と、保守、あるいはナショナリストといわれるような方々の両方があります。それぞれで、外国人労働者に対するスタンスは違います。
経済界は、安い労働力が欲しい。現役世代の人口が減っていることもあり、外国人でもいいから欲しいと訴えています。
もう一方の支持基盤である保守層には、外国人が定住するのは嫌だと思っている人が少なくないでしょう。
そこで両者の間を取り、外国人労働者は入れるけれど、定住はさせない。5年で帰す、10年で帰すという条件を設ける。かつ、できるだけ家族を呼ばせない。家族とともに暮らすことで、そこで子どもが生まれたりすることは認めないから大丈夫だというポーズをとっている、ということでしょう。
ずれる現実と建前
ーー実際の状況はどうなっているのでしょうか。
重要なデータの1つだと思っているのが、在留外国人の数自体が300万人近くまで増えているとともに、永住資格を持っている外国人の数が2000年ぐらいから継続的に増え続けていることです。
この中で、旧植民地である朝鮮半島や台湾にルーツを持つ「特別永住者」は微減を続けています。かわりに「一般永住者」が増えています。
直近だと、110万人近くの方が永住資格を持ってます。この人たちが、日本で法務省が発表している在留外国人の4割を占めてます。これが現実なんです。
一般永住者には、多様な国籍の方が含まれています。中国、韓国だけでなく、ブラジル、フィリピン、ベトナムなどの方などが多くいらっしゃいます。
政府が「永住させず、出稼ぎ労働者をぐるぐる回していくだけなので、日本では移民が増えない」という建前は、この現実と大きく乖離しています。
どの政治的立場をとる人であっても、この現実を正しく認識しないと議論にならない、と私は思っています。
ーー建前と現実の乖離はなぜ起きるのでしょう。
外国の方々と話をしていると分かってくるのが、入国した時に「出稼ぎ」のつもりで来ていたとしても、いつの間にか日本でずっと暮らしていたということは、人生のなかでは起きえる、ということです。
日本の方と結婚するとか、家族を呼べる日系人の方だと、特に子どもが日本社会に定着していくとか、さまざまな理由があります。
移民であろうがなかろうが、私たちは自分の人生がどうなるのかすべて予期することはできません。人生の様々な出来事を通じて、ある土地から離れられなくなることは、だれであれ起きえることです。
その積み重ねとして、ニューカマーの方たちを中心に、1990年ぐらいから定住が進んでいるという現実があります。
定住への道は「むしろ開かれた」
これから受け入れていく特定技能の外国人の方たちについても、同じことが絶対に起きないとか、それをコントロールできるのだと政府が言い切ることができる根拠は、全くないと思います。そして過去の例を見ても、コントロールすることは現実的には不可能だと思います。
特に今回、「特定技能2号」という資格が、1号の上位資格のようなかたちで用意されました。一定の試験に合格すれば、1号から移行が可能になります。
特定技能2号は、更新回数に上限がない在留資格として設計されています。
実際に動き出せば、非熟練の外国人労働者が熟練の労働者にキャリアアップして定住していくという道が、むしろ開かれたと言って、過言ではないと思います。
日本は基本的人権を尊重する国のはずだ
ーードイツなど欧州各国は第2次大戦後、外国人労働者を受け入れました。
ヨーロッパは戦場になり、たくさんの若者が亡くなりました。そこからの復興と経済成長で、旧植民地や中東などの若い単身の労働者をたくさん受け入れました。
しかし、1970年代にそれでオイルショックが起き、新規の受け入れを停止しました。とはいえ、すでにその国で暮らし、働いている人たちを強制的に帰国させられるかといえば、それはできないんです。
というのも、欧州各国は人権や民主主義を重視しています。
人権を完全に無視すれば「強制帰国」も可能でしょうが、自由や民主主義、人権を自分たちの価値観の中核に置いている国々が、経済的な都合だけで人の生きる場所だったり働く場所を縦横無尽にコントロールできるかといえば、やはり無理だったんですよ。
その結果、既存の人には残ることを許し、家族の呼び寄せを認めたという経験を、ヨーロッパ諸国はしています。そこから、彼らとともにどう暮らしていくかという問題に直面して、いわゆる「社会統合」に向けた様々な政策を、試行錯誤しながらつくっています。
日本も欧州と同じように、自由民主主義と基本的人権の尊重を信じる国です。それが憲法にも書き込まれています。憲法で人権と自由が保障されていることにより、日本国民の生活も守られている部分があります。
欧州とは異なる基盤に立つ湾岸諸国
ーー一方、欧州と並ぶ外国人労働者受け入れ先であるペルシャ湾岸の産油国は、外国人労働者を厳しく管理し、送還も行っています。
欧州の経験をみると、いま日本で暮らす300万人近い外国人を、景気の悪化等で帰せるというふうに考えるのは、歴史を見ればそれが正しくないことは明らかです。
しかし、今の日本で、人権感覚がどこまで共有できているのか不安になる時があります。
例えば、技能実習生の女性が日本で妊娠し、雇い主から帰国か中絶を迫られるというケースがありました。
思わぬ時に妊娠することは、人生ではあり得ます。だから、こういうことが起きることを前提に、制度を作らなければいけない。日本人ならば産休が取れるわけです。外国人であれ、日本人であれ、その人権を保障する必要があります。
しかし、識者から例えば「シンガポールでは外国人労働者の権利は広く認められていないから、日本もそうしたほうがいいんじゃないか」という意見が出てくることがあります。
(シンガポールでは、外国人労働者は富裕層や専門職とそれ以外に大別され、非熟練労働者には定住を防ぐさまざまな規制があり、国際人権団体は批判している。例えばメイドの女性は年に2回、性感染症と妊娠の検査を受け、妊娠が分かれば帰国を命じられる。)
シンガポールや湾岸諸国と日本では、憲法で保障され、実践されてきた人権意識というものが根本的に違うはずだと、僕は信じています。
しかし、「外国人は、自国民なら享受できる権利を制限されても仕方ない」「自己責任で来ているのだから、こちらの都合が悪くなった時に一定程度制限をかけるような制度にすべきだ」という感覚が、日本国内に拡がっているのではないかと感じることがあります。
合理性だけを考え、人間を鉄とか小麦のような「素材」として見ていいのでしょうか。人権を尊重し、人間をモノとして扱わないということが、日本という国が戦後、選んできた道だと思います。そして、日本人はそこを誇ってきたと思うのです。
日本人と外国人は「同等の給与」か「最底辺に合わせる」のか
ーー政府は1990年代、いわゆる単純労働者を受け入れない理由として、日本人の雇用を奪うことや、労働市場の二階層化が起きることを挙げていました。
すでに、そうなっている部分が、一定の程度で存在すると思います。
例えば労働市場の階層化。「上」と「下」に分かれてしまうという問題です。
特に技能実習制度というのは、その職場に基本的に張り付き、ずっと極めて低い賃金で最長5年間働くといういう制度です。キャリアを積んで工場長になるとか、別の会社に転職するといったことが全く想定されてないわけです。
一方、普通の労働者は違います。
例えば自分を例にとると、大学生の時にアルバイトで時給900円とかで働き、その時は低賃金の労働者でした。しかし、大学を卒業すれば、正規雇用で採用され、賃金が安定していきます。正規雇用の場合、一般的には年功序列で少しずつ賃金が上かることになります。
このルートから、特定の日本人を制度的に排除することは絶対にできなません。「人生は常にやり直せる」「すべての人は同じ権利を持っている」というのが、日本社会の建前ですから。
しかし外国人は、制度的にそこから排除されています。「その前提であなたたちは入国してるんだから、排除されても仕方ないですね」ということになっているわけです。特に技能実習生に対しては。
ーー安倍首相は「外国人労働者は日本人と同等以上の給与で」と言ってます。
「同等」の待遇をどうつくるのかは、極めて難しい課題だと思います。
「同等の賃金」ということと「最低賃金」を混同するケースも、おそらく生まれてくるでしょう。「だれであれ、最低賃金さえ払っておけばいいんだ」ということになるかもしれません。
財界が外国人労働者の導入を求めてきた背景には、人口バランスの問題があります。総人口よりも早いペースで現役世代の人口が減り、働ける人口の割合が少なくなっています。それが短期的には様々な職場で、いわゆる人手不足の状況を生み出しています。
一方、外国人であることによって、学校や病院など、さまざまな社会的なリソースから断絶してしまいがちな現状が日本にはあります。
彼らを受け入れるならば、しっかりと社会と結び付けていくための手段も、合わせて準備していかないといけないわけです。
例えば受け入れる外国人の数にあわせて必要な日本語教師は何人になるのかといった点も、一緒に考えなければなりません。
どれだけの外国人をどういうスピードで受け入れ、どんな社会統合政策を取るのかという議論を、政府や官僚に任せきるのではなく、社会全体で参加していかないといけないと思います。
外国人を社会で受け入れる準備は?
ーー日本語教育の公的な位置づけを求める「日本語教育推進法」の早期成立を求める署名活動が行われました。
子どもと大人と両方に対する教育は重要です。一方で労働者として入ってくる大人や、その家族への公的な支援が極めて乏しいという現状があります。
子どもは一応、義務教育の年齢であれば受け入れてもらえます。とはいえ、それで日本語をしっかり教えてもらえるかといえば、地域や学校によって違いがあります。
大人については自助努力を求める部分が強くあるので、そこはもうちょっと政策的にしっかり対応するということを態度で示したほうがいい。 政策として示し、かつ予算を投入する必要があります。
特に重要なのは、日本語の先生や教育施設といった、人的なリソースとインフラです。オンライン教育のようなものを含め、整えることに政府がコミットしないと、日本語教師になる側も、安心できないでしょう。
日本語教師の多くは非正規雇用です。外国人支援に関することの多くは、非正規雇用やNPOでまかなわれている現実があります。
そして日系4世は来なかった 日本は外国人が「働きたい国」であり続けられるのか
日本は外国人にとって今後も「働きたい国」なのか。そうではない可能性を示す兆候が、すでに出ている。
アジア各国で経済成長が続くうえ高齢化が忍び寄っています。日本の外国人労働者を国籍別に見ると、最も多いのは中国ですが、その比率は年々下がっています。代わりにベトナムとネパールが急増しています。
一方、韓国や台湾も外国人労働者の受け入れを強化しています。「外国人は日本で働きたがっている」と思う日本人は多くいますが、そういう状態であり続けられるのでしょうか。
将来を示唆する「日系4世受け入れ事業」
ーー日本にこれまで技能実習生を送り出してきた中国などで、経済成長が続いています。韓国や台湾も外国人労働者の受け入れを強化しています。日本は、これからも外国人が働きたい国であり続けられるのでしょうか。
2018年7月に始まった日系4世の受け入れ事業は、将来を示唆する話だと思います。
これは南米の日系人4世が日本で働けるという制度ですが、厳しい条件を付けています。年齢は18〜30歳までで、家族帯同は不可。滞在の上限は5年に限っています。
政府がここまで厳しい条件を設定した理由を、私は次のように推測しています。
90年代以降に入った日系の南米人で、日本に定住した方がかなり多くいました。家族を呼び寄せ、子どもたちも生まれました。しかし、政府は定住を促進するというようなかたちでの対応というのを積極的には取ってこなかった。
家族を呼べ、かつ更新回数に上限のない在留資格を与えると、こういうことが起きるんだという学習を、政府の側がしたのだろうと思っています。
だからこそ日系4世の人たちに対しては、単身限定で上限5年といった制約をかけ、「こんな人だったら、日本で働いてもらってもウエルカムです」と呼びかけたわけです。
日本政府が求めるような日系4世は、いなかった
ところが蓋を開けてみると、日系4世の2018年12月までの受け入れ人数は、4000人の枠に対し、わずか4人でした。
日本政府が求めるような日系4世は、実際にはいなかった、ということです。
そして、日系4世に対して課した条件と、技能実習生や特定技能1号に課している条件は似ているところがあります。特に単身で、数年で帰ることが前提という点です。
政府は、ドアの開け閉めを通じて、外国人労働者数に政策的な調整をかけようとしています。
「いつか帰国することが前提の外国人労働者をぐるぐる回していく」という、フランスやドイツにもできなかったことを、この国は自由民主主義を奉じながらも、実現できるんだと思っているのかもしれません。政策をうまくチューニングすれば、可能だと。
特に今の政策は官邸主導で動いていると思うので、命令を受けるそれぞれの役所の側は、必死になってとにかくかたちをつくったという部分はかなり大きいんじゃないかと思います。
外国人政策のインパクトの大きさを直視すべき
外国人に関する政策は、人間にかかわることです、だから、極めて長期にわたるインパクトがあるのですが、その政策を極めて短期的なロビイングや選挙対策などの中で、近視眼的な感覚の中で作ってしまっているのではないでしょうか。
こういうことの積み重ねが、学校に行けてない外国籍の子どもが出てくるという、取り返しのつかないインパクトを与えてしまっています。
仮に3年間、学校に行けなかったとします。それが例えば7歳から9歳の間だとすると、その子の人生全般に、極めて大きな影響が出ます。そういうことを本当に考えているのかは疑問です。
僕としては将来、問題が深刻化しても「知らなかった」とは言わせないぞというふうに思っています。
というのも、こういう形ですでに、30年やってきているわけです。それで、いろいろな問題は起きてきたことは、政府の側は知っているわけじゃないですか。
それでもなお、こういうご都合主義的な政策をとり続けるということが、あまりにも人権軽視というか、外国人を軽視しているような気がします。
人権を巡る建前と現実のずれは日本人にも
「人権」という建前と現実のずれが、外国人に対しては、露骨に出ています。私は、実は日本国民に対してもそういう側面があると思っています。
国家の合理性からすると、やはり低賃金で働いてくれる労働者がいたほうがいい。あるいはすごいコストのかかる医療は、できるれば削っていきたい。
特に最近、終末期医療の医療費の話が話題になってますが、国家の視点で見ると「無駄」に見えることに対して人権というものが制約になって言いづらいんだけれども、本当は言いたいことがいっぱいあると思うんです。
雇用の保障はコストがかさむ。できれば医療費や年金はカットしたい。こういうことが、移民・外国人の方たちに対しては、非常に露骨に表れていると感じます。
世界で深まる分断
これは日本だけの問題ではなくて本当は利害を共有してるはずの人々の間に楔を打つということが、世界で政治的にある種、流行していると感じます。
人々が互いに味方になりうるはずなのに、「敵」として煽り立てるようなことを、票集めや人気集めのために行えば有効性があるということが、欧州やアメリカで示されてしまいました。
ただし、今の日本では、そういうカードを使わなくても選挙で勝てる状況があります。
だからむしろ、政府の側には外国人の受け入れを、むしろ社会に気づかれないうちにやりたいぐらいという思いがあるのではないかと。これは、人気取りのためではなく、経済界からの現実的な要請に基づいたものですから。
とはいえ、日本で今、露骨な外国人排除の動きがないから、そういうことを考えなくていいんだ、寝た子を起こさないほうがいいんだという風には、思いません。
潜在的にリスクがあるのだからこそ、今のうちからしっかりことを受け止めて、そういうことが起きないように心の準備をして、「連帯」という考え方を身につけていくのは、すごく大事なことだと思っています。
大切なのは「連帯」を考えること
ーーご著書の『ふたつの日本』で、外国人を巡る問題は、「彼ら」ではなくて「私たち」の問題だと書いておられます。
それはもちろん、これは日本国籍の人の問題だという側面もあるのですが、それ以上に「私たち」の定義や境界線みたいなものの問題だという意味を込めてます。何が「私たち」なのか、ということです。
国籍でズバッと線を引いて、「こっちが私たちで、あっちは違う」という考え方自体をアップデートするというか、ほぐしていくことが、大切なのではないかと思います。
実際に日本で20年暮らしてる人が、なぜ「私たち」ではないのか、ということです。国籍に関わらず社会の一員として税金を納め、働いているわけですから。
日本社会の像を見つめ直す好機に
ーー日本には2018年度末で273万人の外国人が暮らしています。これは、欧州各国と比べても少なくありません。しかし日本の場合、総人口が欧州各国より遙かに多いという点で、外国人が相対的に目立たない部分はあるのでしょうか。
そうだと思います。しかし、総人口が減っているわけですし、割合だけを見て「まだ日本は日本人だけのピュアな国だ」「まだ外国人は2%しかいない」と言っていても、しょうがないと思います。
いま起きている変化は、サービス業に外国人労働者が入ってきて、生活動線のなかにあるコンビニや飲食店などで普通に外国人と接する機会が増えていることです。かつ、観光客も増えていますから、外国の人が増えているという感覚が、社会全体で共有されていると思います。
これはある種、チャンスとして捉えています。自分たちの国の自画像みたいなものを創造しなおして、更新するタイミングにすべきだと思います。
ーーこの本のタイトルにある「ふたつの日本」とは、どの「ふたつ」を意味しているのでしょうか。
これは、いろんな意味を掛け合わせています。建前の日本と現実の日本っていうのはもちろんあります。もう1つは、民族的に一体で、純血性が高く、同質性が高く、「一つである日本」ということと、それに対して、複数性とか複雑性みたいなものをはらみ、かつ、メンバーがどんどん入れ替わっていくような日本っていう意味も込めています。
そして、この国で暮らしている中での「安定か不安定か」、あるいは「上なのか下なのか」という意味での、ふたつという部分も込めています。
最後の「上か下か」で言うと、やはり外国人の方は多くが「下」に入れられています。
しかし、そこには外国人だけじゃなくて、日本人もたくさんいます。
だから、同じ構造に置かれた日本人と外国人が対立するのではなく、互いに同じような境遇にあり、かつ近いパワーバランスの中で働いているんだという認識を共有できるようになるといいな、と僕は考えています。
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後日、要点をまとめておきたい。