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障害者といじめ問題

2013-12-02 12:17:43 | ダイバーシティ
(以下、朝日新聞から転載)
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障害者といじめ問題

エッセイ
立石芳樹 (たていし・よしき)
2013年12月 2日

 本格的に寒い季節となりました。皆さん、体調はいかがでしょうか。今年は強い寒気が日本列島に舞い降り、いちだんと厳しい冬になるという予報なので、健康には充分気をつけていきましょう。

 先々週のコラムで、進路選びでの注意点について書きました。さんざん悩んだ末にようやく進路を決め、無事、希望通りの学校に入学できたとしても、そこがすべてのゴールというわけではありませんよね。学校生活はつねに、予想もつかないトラブルととなり合わせです。

 その中でも特に親御さんの頭を悩ませる大きな問題が……「いじめ」です。

 文科省発表のデータによると、小中学校でのいじめ発生件数は近年増加傾向にあり、今や、いじめのないクラスはない、とまで言われています。障害の有無にかかわらず、多くの子どもがいじめに苦しんでいるという現状は、この20年あまりの間で変わっていないようです。

(障害者はいじめの対象になるか)

 これが、今回のメインテーマです。もっと正確な表現で言えば、(障害者であるという理由だけで、いじめの標的にされる可能性があるか)というかたちになるでしょうか。

 この問いにイエス、つまり、障害の有無がいじめに遭うリスクを左右するとこたえる人は、障害者は弱い存在だ、というのをその根拠としています。障害を持っているといじめによる暴力をはねかえす力が弱まるのだから、結果として継続的なターゲットにされてしまう。また、いじめる側も障害という弱さにつけこんで、さらなる悪質な暴力をはたらくのではないか……。

 これに対する反論としては、「いじめ無差別説」というものがあります。現代のいじめはほぼ無差別に行われており、障害のない子もターゲットにされているのだから、障害があるというだけではいじめの理由にならない。

 どちらの意見にもそれなりの根拠と正当性があるように思えますが、僕の実感としては、「いじめ無差別説」のほうが現状に近いような気がします。年齢的に、昔のいじめについてあまり深く語ることはできませんが、今のいじめの構造を見ていると、どうも、その本質自体が少しずつ変わっているように見えるのです。

 いじめの原因として一般的に思いつくのは、(○○ができない)とか、(××がまわりよりも下手)というような、いわゆる具体的な理由ですが、現実には、はっきりとした理由のないいじめも多く、それがこの問題の根深さを物語っています。

 いじめられる側はもちろん、いじめる側でさえも、(なぜいじめるのか)がわからない。いじめの問題をいつまでも、のび太君とジャイアンのような牧歌的な関係によってとらえていると、事の本質を見失ってしまいます。

 僕自身、小学校から高校まで地域の普通学校に通っていましたが、一度もいじめらしいいじめに遭ったことはありません。どのクラスでも年度の早い段階からわりとスムーズにとけこむことができましたし、それぞれの年代で心の許せる友人もいたので、少なくとも人間関係でのトラブルに巻き込まれることはありませんでした。

 けれど、同じ時期に普通学校に進学したリハビリセンター時代の知り合いに聞くと、中学時代はしょっちゅう、歩く時に使うクラッチ(松葉杖のようなもの)を隠されたり、ノートをゴミ箱に捨てられたりと、クラスメイトからのしつこいいじめに遭っていたようです。

 他の知り合いからも同じようないじめの体験談を聞くこともあり、そうした話を耳にするにつれ、いつしか、(僕はたまたま運がよかったのかな)と思うようになりました。

 いじめ問題は、進路選びにも影響します。普通学校だといじめのリスクが高いだろうから、安全に思える特別支援学校を選ぶ。けれど、本当にそれで良いのでしょうか?

 確かに、支援学校は生徒の人数も少なく、先生の目も行き届きやすいので、いじめが起こるリスクは低いと言えるでしょう。ただし、それは決して、(支援学校にはいじめがまったくない)ということを意味するものではありません。先生方がどんなに努力なさったとしても、人間と人間が同じ空間で過ごすかぎり、いじめのリスクはつねに生じるものです。

 (いじめがないだろうから)という消極的な理由だけで支援学校を選ぶことに、僕は反対です。

 いじめに近い言葉として、からかい、というのがあります。いじめとからかいの違いは何かと聞かれると、僕もすぐにはこたえが出せないのですが、直感的なイメージとして、からかいのほうがいじめよりも軽く、親しみやすい印象があります。

 いじめと、からかい。このふたつの線引きは、意外に難しいんですよね。片方は単にからかっているつもりでも、受け取る側はいじめとして、深刻に考えてしまう。あるいは、はじめのうちは軽いからかいだったのが、だんだんに本格的ないじめに発展してしまう。どちらのケースでも、当人同士で最後まで解決するのは限界があるので、どこかのタイミングで親や教師の介入が必要となるでしょう。

 誤解を恐れずに言えば、障害者をからかいたくなる気持ち自体は、僕も理解できるんですよね。特に、小学校低学年のうちは物事をまっすぐにとらえる時期ですから、同じクラスに自分と違った格好の友達がいれば、何だろうと興味を持つのが自然です。

 僕は障害の特性上、極端に緊張したり興奮したりするとよだれが垂れてしまいます。今はある程度自分の力でコントロールできるようになったのですが、小学校ぐらいまではその傾向が特にひどくて、教科書もよくよだれで濡らしてしまうほどでした。

 ある日の休憩時間。僕のよだれが今まさに机の一点に落ちようとしたその時、近くで見ていた友達がすかさず言ったのです。

「あっ、よだれ爆弾だ!」

 これも、大人の基準をあてはめれば、いじめの範囲に入るのかもしれません。けれど、その時の僕は、いじめられたという感覚はまったくありませんでした。むしろ、話題の中心になれたことですごくうれしい気分になったのを覚えています。

 もしもこれが、

(よだれが垂れてて気持ち悪い)

 などと言われたら、さすがの僕も傷ついたかもしれませんが、何しろ(よだれ爆弾)ですからね。こんなユーモラスな表現は、小学生にしかできません。ちょっとした一言によって、笑いのあるコミュニケーションが成立する。人間関係の楽しさというのは、その部分にあるのではないでしょうか。

 いじめとからかいの違い。最後に僕なりのこたえを出すとすれば、一方的か双方向か、ということだと思っています。いじめは、相手の気持ちや反応に関係なく行われる一方的なものですが、からかいは本来、双方向的なものです。(よだれ爆弾)というフレーズに心から笑うことができた時点で、僕とそのクラスメイトとのコミュニケーションは成立しているのです。

 個々の関係性を一切考慮することなく、(いじめもからかいもすべて悪いことだ)という建前を教師の側が押しつけてしまうと、健全なかたちでのコミュニケーションも阻害してしまい、かえって本人を孤立させてしまうことにつながりかねません。ただ、最初は軽いからかいから始まったものがだんだんに深刻ないじめへと発展するケースは考えられるので、大人の目による適切なチェックはもちろん必要ですけれど。

 教育現場からいじめをなくそうと努力することは、もちろん大切です。けれどその一方で、障害の有無に関係なくいじめへの免疫というか、(万一いじめに遭ったらこういうプロセスで対処をする)というマニュアルを事前に持っておくことも、自衛策としては必要なのではないでしょうか。

 悲しいことですが、現代において、学校でいじめに遭うというのはもはや、特別な現象ではなくなっています。それは、障害があろうとなかろうと関係ないことです。皮肉なことに、いじめ問題では、障害児も健常児も(平等)なのです。

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