たろの日記ページ,gooブログ版

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国が幸福を決めることの恐ろしさ

2011-12-11 18:00:44 | ココロ
国が国民の幸福度を規定するらしい。ぞっとする。

ブータンのマネなんだろう。でも貧しい国が貧しい中で幸福を噛み締めるのと,豊かな国が幸福であることを求めるのは意味が違う。特に今豊かだが,この先(本当かどうかともかく)お先真っ暗…という風潮が蔓延している日本で,国が幸福を規定するのは,「貧しくなったが幸せだからいいでしょ?…」といういいわけに使われる公算が大きい。幸せというのは,案外不自由な中で感じることも多く,自由であればあるほど幸せが見えにくくなるから,幸せを感じさせるのは不自由にすればいい…なんてなりかねない。本家のブータンでさえ,情報が自由化されていく現代で国民総幸福で政治をするの難しくなってきてる…って話じゃなかったっけ?。

個人的には幸せを国が規定するなんて真っ平という想いがある。もちろん経済的な豊かさと幸せはイコールじゃないと思うし,経済的豊かさばかりを追い続けて不幸せになるという現実はあるので,幸せに目を向けるのはいいと思う。豊かさよりも幸福を重要視するのはいいことなのかも知れない。でも幸せを数値化するのはおかしい。全体で幸せを規定するのもおかしい。

幸せは最終的には個人の問題とは思うが,個人の問題とした結果,見えない人には見えなくなる。だから個人の外から幸せを規定する…というのは,あることはあるのだけど,これは一種の宗教感みたいなものなんだと思う。

それでも経済成長時みたいに,国民の大半が同じ未来をイメージしてるときは,そのイメージ(この場合は経済的豊かさだった)を幸せに結び付ける事は良い意味があったのかも知れないが,右肩下がりになってる時代に幸せを規定するというのはどういうことなんだろうと思う。まさか「困ってる人を助けるのが人の幸せ」とか言って(その事自体は間違いではないが),社会福祉向け増税をするってことはないですよね;-p。

いずれにせよ,国(役所)が,こういう事を数値化するのはろくなことがない。行政というのは,一般的に数値目標を決めて政策を行い,無理やり結果を合わせようとするものだから。豊かになった上での結果として幸福を測るのなら良いのだけど,逆になりそうな気がする。
コメント
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