昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

川平の豪族「仲間満慶山英極」

2007年05月31日 | 沖縄の旅
底地ビーチの駐車場の南西側にある「仲間満慶山英極(なかまみつけーまえいきょく)」の墓を参拝させて頂ききました。
この墓は、断崖の洞穴を墓にしたものと思われ、「ヤドピケー」といわれているようです。


「仲間満慶山英極」(1467年~1500年?)は、八重山地方に豪族が群雄割拠していた15世紀末、川平の豪族だった人です。
「仲間満慶山英極」の館は、川平の仲間森にあったそうで、一昨日掲載の「川平貝塚」 は同様の場所・時代と考えられます。

当時の八重山には西表島祖納の「慶来慶田城用緒(けらいけだぐすくようちょう)」、与那国島の女傑「サンアイイソバ」、波照間島の「明宇底獅子嘉殿(みうすくししかどぅん)」、石垣島には石垣市街地辺りに「長田大主」、平久保に「平久保加那按司」、大浜の「オヤケアカハチ」などの豪族がいました。

琉球王朝と組んだ宮古島の仲宗根豊見親は、西表島祖納の「慶来慶田城用緒」、石垣の「長田大主」(仲宗根豊見親の子と言われている)を軸に八重山への影響力を強めていたようです。
その中で石垣島では「オヤケアカハチ」の勢力が強大化しつつあり、1500年「長田大主」を追い詰め、西表島へ逃がしてしまった事件により「オヤケアカハチの乱」が展開して行きます。
琉球王朝軍・仲宗根豊見親軍が迫ることを知り、孤立した「オヤケアカハチ」は、周辺の豪族へ助けを求めたようです。
「オヤケアカハチ」の助けを求められた「仲間満慶山英極」は、琉球・宮古島・中国などの情勢を判断したのか、その申し出を断ったそうです。
「オヤケアカハチ」との会見からの帰り、「オヤケアカハチ」の仕掛けた落とし穴にかかり、襲われて殺されてしまったそうです。
「オヤケアカハチ」は、琉球王朝軍・仲宗根豊見親軍との決戦に備え、敵対勢力の一掃を企る意図があり、助けを求める名目で接触したことも推察されます。

「仲間満慶山英極」は、「平家の末裔とも言われており、同じ平家の末裔と言われる西表島祖納の「慶来慶田城用緒」とつながる宮古島の仲宗根豊見親側に立ったものと考えられます。


底地ビーチの駐車場の南西から「仲間満慶山英極」の墓に行く道の入口付近にある施設です。
水道に関係する施設と思われますが、とても背の高い施設です。


墓へ向かう道の様子です。
道の両側は、茂みが広がっています。


道の奥に階段があり、その先は高い断崖がそそり立っています。
その断崖の下に墓が見えてきます。


墓前で手を合わせて拝ませて頂きました。
墓碑に「英傑 仲間満慶山英極」とありましたが、写真がうまく撮れていませんでした。


向かって左には石碑があり、故人を称えたことが刻まれているようです。
現在も、子孫の方々は、祖先「仲間満慶山英極」を大切にお祀りされているようです。


墓を斜め前から撮った様子です。


正面右隣に「仲間サカイ之墓」と刻まれた墓碑があり、その後ろに故人を称えた石碑があります。
「仲間サカイ」は、1713年~1813年に生きた女性で、有名な「鷲ぬ鳥節」の元となった「鷲ユンタ」作ったと言われ、「仲間満慶山英極」の子孫とされているようです。
「鷲ぬ鳥節」に興味がある方は、沖縄三線のサイトで 「鷲ぬ鳥節/宮良高林」を試聴できます。

かって石垣島の市街地大川に「与那国御嶽(ユノーオン)」があり、「仲間サカイ」はその御嶽の神司(かんつかさ)だったようです。
アーケードの商店街「あやぱにモール」には「鷲の鳥節」発祥の記念碑が建っているようですが、見落としていました。

明和大津波が発生した年が1771年で、御嶽のある市街地大川にも巨大な津波が襲ってきたことと思われます。「仲間サカイ」が58歳前後の頃と考えられ、約100歳まで生きたことを考えると、その一帯では数少ない生存者と推察されます。


正面左隣にも墓があります。
特に墓碑はありませんでした。


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