昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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浦添市美術館、葛飾北斎の「琉球八景」 №1

2010年06月17日 | 沖縄の旅
5月8沖縄旅行初日、「浦添市美術館」の続きです。

収蔵品展で、葛飾北斎の描いた「琉球八景」の展示を見ました。

数年前に「琉球八景」を知り、機会があれば是非見たいと思っていました。



葛飾北斎が、「琉球八景」を描くきっかけとなった「琉球使節」が、描かれています。

「江戸上り行列図」(沖縄県立博物館蔵)の一部で、琉球王国から江戸幕府への使節が江戸の町を歩く様子が描かれています。
(長い一列の絵の一部を二段に編集しました)

中国風の装束と、音楽で異国情緒あふれる行列に、大勢の民衆が見物したようです。

琉球から江戸へ約2,000Kmの長旅をする琉球使節は、新将軍への祝い、琉球王の新任の時に送られていたようで、江戸時代初期から幕末まで18回、明治新政府へ1回送られています。

この図は、琉球大学の開学60周年記念事業「江戸上」探検隊の案内パンフレットから借用したものです。



浦添美術館「収蔵展」のパンフレットで、葛飾北斎が描いた「琉球八景」の一つ「長虹秋霽[ちょうこうしゅうせい]」の一部が掲載されていました。

北斎が、「琉球八景」を描いたのは1832年(天保3)で、その年第16回目の琉球使節を迎えた後で、江戸の町は、琉球使節への関心が盛り上がっていたようです。

北斎が、世界的に有名な「富嶽三十六景」を完成させたのが、その前年の1831年です。

大胆な構図で描く風景画の新境地を開いた北斎の絵は、信仰の山「富士山」を描いたこともあり、この時代大いにもてはやされたようです。

「琉球八景」は、北斎が「富嶽三十六景」で勢いのある時に描かれたようです。

「琉球使節」の行列を見た江戸の人々が、この絵により更に琉球への憧れをかき立てられたものと思われます。

数年前、この絵を見て北斎が、琉球に行って描いたのではないかと思いました。

しかし、調べてみると江戸幕府が発刊した中国の書物「琉球国志略」に挿入されている「球陽八景図」を参考にしたことがわかりました。

「琉球国志略」は、1755年に清国(中国)が琉球に送った冊封副使「周煌」が書いたもので、滞在した那覇の風景八か所を描いたようです。

以下に、「北斎」の絵と、参考にした「周煌」の絵を上下に並べて紹介します。



上段の絵は、葛飾北斎が描いた浮世絵版画「琉球八景」の一つ「泉崎夜月」です。

下段の墨絵は、「周煌」の「泉崎夜月」です。

「琉球八景」は、那覇市内にあり、この絵の泉崎の地名は、沖縄県庁のすぐ西に残っています。

北斎は、「泉崎夜月」の名称から元絵にない月を描き、夜の雰囲気を出したようです。

浦添美術館で見た北斎の絵と比べて極めて見劣りのする画像ですが、興味のある方は是非実物を観賞し、感動を味わって頂きたいと思います。

「周煌」が書いた墨絵「球陽八景図」は、本の左右2ページに描かれた画像を結合していますので、中央に切れ目が残ってしまいました。



上段の絵は、北斎の「臨海湖聲[りんかいこせい]」です。

下段の絵は、「周煌」の「臨海潮聲」で、北斎は「潮」を「湖」にアレンジしています。

この場所は、那覇市西町にある「三重城」で、那覇港の防衛や、貿易船のために築かれた施設だったようです。

このブログでも<那覇港の城塞「三重城」>で「三重城」を紹介しています。



この上下の絵は、「粂村竹籬[くめむらちくり]」です。

「粂村」は、現在の那覇市久米付近で、中国系の人々が居住していた町です。

現在、日中友好で造られた中国庭園「福州園」があります。



この上下の絵は、「龍洞松涛[りゅうどうしょうとう]」です。

何と!! 北斎は、大胆にも雪景色にアレンジしています。

この場所は、那覇市の「奥武山公園」付近で、海に突き出した山には昔あった「龍洞寺」が見えます。

残り四点の絵は、次回とします。


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