【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】
11/14 イタリア旅行6日目、オプション旅行で行った「ナポリ・ポンペイ日帰りツアー」の続きです。
ポンペイ遺跡の「フォロ(フォルム)浴場」を出て、向かいの「悲劇詩人の家」の玄関の見学です。
「悲劇詩人の家」(下の地図-16)の玄関床にあった番犬のモザイクです。
白い地に黒の線で描かれたもので、陽のあたる玄関の鉄柵の外から撮った写真です。
日陰でよく見えませんが、首輪だけは赤いタイルで描かれ、絵のアクセントの他、注意を引く効果をねらったものと思われます。
絵の手前の文字は、「CAVE CANEM(カーヴェ・カーネム)」とあり、「犬に注意」の意味だそうです。
このモザイクの実物は、「ナポリ国立博物館」にあり、これはレプリカです。
「テルメ通り(Via delle Terme)」に面した「悲劇詩人の家」の風景です。
通りを挟んで向かいに「フォロ(フォルム)浴場」(下の地図-12)があり、向かって右手には次にご紹介する居酒屋の白いカウンターが見えています。
資料によるとこの「悲劇詩人の家」は、「規模的にはさほど広くはない、ポンペイ史晩年期に富を得た中間社会階級の典型的な家屋の-例である。」とあります。
又、家の壁に悲劇詩人など演劇を主題としたモザイク画が描かれていることから「悲劇詩人の家」の名称となったようです。
ポンペイの中央付近には最大5000人収容の大劇場があり、様々な(悲劇・無言劇・喜劇・笑劇・茶番劇)演劇が上演されていたと考えられています。
特に悲劇は、紀元前6世紀末に古代ギリシアで始まった最も伝統のある演劇だったようです。
見学で歩いたポンペイ遺跡西端の地図です。
ポンペイ遺跡の見学は、マリーナ門(地図-A)からヘルクラネウム門(地図-B)を通り、北西の「秘儀荘」まで歩いて回りました。
今回は、「悲劇詩人の家」から赤い丸印や、赤い四角印辺りまでの様子です。
「フォロ(フォルム)浴場」の向かいの風景です。
白い大理石製のカウンターがある居酒屋が2軒並んでいました。
午後の入浴で賑わう「フォロ(フォルム)浴場」の向かいは、居酒屋(テルモビリウム)にとっては最高の立地だったと思われます。
居酒屋のカウンターの後方から見た店内の様子です。
U字型のカウンターの上に7つの穴が開いています。
この穴にはテラコッタ(素焼き)のドリウム(壷・容器)が埋め込まれ、木の実、果実、野菜などを入れて売られていたようで、丸い石のフタなども使われていたとされています。
又、カウンターの付近に湯沸かし器を置き、蜂蜜などを入れたワインのお湯割りが販売されていたそうです。
ポンペイの主要産品は、ベスヴィオ山麓で採れたブドウで造るワインだったとされ、ご当地自慢の味だったと思われます。
カウンターと並行して通路の反対側の店内にもカウンターがあり、6つの穴が開いています。
表のカウンターにはモザイク状に大理石を張ってありましたが、上面だけのモザイクです。
通りでよく見かけた他の居酒屋は、L字型のカウンターが大半で、ここはかなりの繁盛店だったことがうかがわれます。
かつての賑わいとは裏腹に野良犬がのんびりと昼寝をしていました。
捨て犬が多く、エサを与えられて保護されているそうで、ガイドさんは顔見知りになっていたようです。
通りで見かけた居酒屋と思われる店です。
上の写真の店のカウンターは、複数の色の大理石が側面にまで張られています。
三叉路に面した比較的立地の良い店だったようです。
下の店は、目立たない店で、カウンター上面だけに一色の大理石が張られ、店の奥行きも短いようです。
居酒屋でも良く見ると色々違いがあったようです。
上段の写真で紹介した三叉路の居酒屋の前に水道がありました。
サルノ川の水を引き、貯水タンクに引いた水を鉛製のパイプで町に供給していたようです。
資料によれば水道の無い大邸宅も多く、水道の整備後でも雨の貯水に頼った状況が続いていたようです。
公共の水道は、地図-15・16の付近の赤い四角印(両方三叉路)の場所に設置されているのを見かけましたが、大変貴重なものだったと思われます。
水道の拡大写真を見ると、石の穴に蛇口が取り付けられています。
石材をつないだ金具も2000年前のものだったのでしょうか。
左下は蛇口の拡大写真ですが、近代にもあったような形で、現代ならゴムで作るパッキンの材料なども自然の材料で作っていたものと思われます。
下水道が無かったポンペイでは下水は、車道を流れていたようで、交差点近くの道路に水道があるのは、排水や、道路の清掃目的でもあったのかも知れません。
二番目の三叉路にあった水道の後ろ側です。
地面から鉛製の水道管が出て、石の裏側の蛇口につながっていました。
飾り気のない水道施設ですが、石材は全て金具で接続され実に堅牢に作られています。
すぐそばを馬車が走ることもあり、しっかりとした構造にしていたようです。
水道のすぐ近くにあったパン屋の石臼(カルティッルク)です。
お店には三基の石臼や、石窯があり、小麦の製粉から石窯で焼き上げるまでの一貫生産だったようです。
写真左下に石臼の断面図の概略図を自作して載せました。
臼中央の四角い穴に臼を回す木の棒を差し込み、その横の小さな穴にピンを差して固定させる構造です。
小麦は、上のホッパーに入れ、下から粉になって出るもので、木の棒水平に回す作業は、ロバや、奴隷だったとされています。
円柱形の石を二段に重ねて回す日本の石臼と違い、石の接触面が広く、処理能力が大きい分、多くの労力がかっていたと思われます。
ポンペイにはこのようなのパン屋が約20軒あったとされ、通りをあるくと石窯や、石臼をよく見かけます。
本に石臼が1時間に約5Kgの小麦を挽くと書かれており、石臼の稼働時間を計算してみました。
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1.食パン1斤に小麦250gを使用、1人・1日0.5斤食べるとした小麦の必要量は、125g/人・日です。
人口約15,000人のポンペイでは1,875Kg/日と推定。
2.ポンペイのパン屋20軒に平均3基の石臼があるとしたら合計60基、石臼の処理能力を平均5kg/時と仮定したら、町の合計処理能力は、300Kg/時と推定。
3.1,875Kg/日(町の小麦の必要量) ÷ 300Kg/時(町の処理能力) = 6.25時間/日(石臼の推定平均稼働時間)
●この仮定では、準備・休憩・後片付けを考慮すると、ほぼ1日中動いていたことになりますね。
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パンを焼いていた石窯(オーブン)がありました。
レンガで造られた窯の入口を見ると、その奥にも入口があり、奥の燃焼室は二重の壁に囲まれた構造になっているものと思われます。
左上の窯(オーブン)は、ローマのピザ屋さんで撮った現代の窯の写真ですが、ポンペイの窯とほぼ同様、二重の構造になっているようです。(パンや、ピザは、燃焼室に入れて焼き上げられます)
現代の窯(オーブン)の基本的な構造が2000年前に出来ていたことには驚きです。
ポンペイ遺跡の見学は、現代と古代で、何が変わり、何が変わらなかったのか考えさせられるものでした。
参考文献
「ポンペイの歴史と社会」ロジャー リング著、堀 賀貴訳
「POMPEI RICOSTRUITA」Maria Antonietta Lozzi Bonaventura著
「世界の生活史ポンペイの人々」ピーターコノリー著
11/14 イタリア旅行6日目、オプション旅行で行った「ナポリ・ポンペイ日帰りツアー」の続きです。
ポンペイ遺跡の「フォロ(フォルム)浴場」を出て、向かいの「悲劇詩人の家」の玄関の見学です。
「悲劇詩人の家」(下の地図-16)の玄関床にあった番犬のモザイクです。
白い地に黒の線で描かれたもので、陽のあたる玄関の鉄柵の外から撮った写真です。
日陰でよく見えませんが、首輪だけは赤いタイルで描かれ、絵のアクセントの他、注意を引く効果をねらったものと思われます。
絵の手前の文字は、「CAVE CANEM(カーヴェ・カーネム)」とあり、「犬に注意」の意味だそうです。
このモザイクの実物は、「ナポリ国立博物館」にあり、これはレプリカです。
「テルメ通り(Via delle Terme)」に面した「悲劇詩人の家」の風景です。
通りを挟んで向かいに「フォロ(フォルム)浴場」(下の地図-12)があり、向かって右手には次にご紹介する居酒屋の白いカウンターが見えています。
資料によるとこの「悲劇詩人の家」は、「規模的にはさほど広くはない、ポンペイ史晩年期に富を得た中間社会階級の典型的な家屋の-例である。」とあります。
又、家の壁に悲劇詩人など演劇を主題としたモザイク画が描かれていることから「悲劇詩人の家」の名称となったようです。
ポンペイの中央付近には最大5000人収容の大劇場があり、様々な(悲劇・無言劇・喜劇・笑劇・茶番劇)演劇が上演されていたと考えられています。
特に悲劇は、紀元前6世紀末に古代ギリシアで始まった最も伝統のある演劇だったようです。
見学で歩いたポンペイ遺跡西端の地図です。
ポンペイ遺跡の見学は、マリーナ門(地図-A)からヘルクラネウム門(地図-B)を通り、北西の「秘儀荘」まで歩いて回りました。
今回は、「悲劇詩人の家」から赤い丸印や、赤い四角印辺りまでの様子です。
「フォロ(フォルム)浴場」の向かいの風景です。
白い大理石製のカウンターがある居酒屋が2軒並んでいました。
午後の入浴で賑わう「フォロ(フォルム)浴場」の向かいは、居酒屋(テルモビリウム)にとっては最高の立地だったと思われます。
居酒屋のカウンターの後方から見た店内の様子です。
U字型のカウンターの上に7つの穴が開いています。
この穴にはテラコッタ(素焼き)のドリウム(壷・容器)が埋め込まれ、木の実、果実、野菜などを入れて売られていたようで、丸い石のフタなども使われていたとされています。
又、カウンターの付近に湯沸かし器を置き、蜂蜜などを入れたワインのお湯割りが販売されていたそうです。
ポンペイの主要産品は、ベスヴィオ山麓で採れたブドウで造るワインだったとされ、ご当地自慢の味だったと思われます。
カウンターと並行して通路の反対側の店内にもカウンターがあり、6つの穴が開いています。
表のカウンターにはモザイク状に大理石を張ってありましたが、上面だけのモザイクです。
通りでよく見かけた他の居酒屋は、L字型のカウンターが大半で、ここはかなりの繁盛店だったことがうかがわれます。
かつての賑わいとは裏腹に野良犬がのんびりと昼寝をしていました。
捨て犬が多く、エサを与えられて保護されているそうで、ガイドさんは顔見知りになっていたようです。
通りで見かけた居酒屋と思われる店です。
上の写真の店のカウンターは、複数の色の大理石が側面にまで張られています。
三叉路に面した比較的立地の良い店だったようです。
下の店は、目立たない店で、カウンター上面だけに一色の大理石が張られ、店の奥行きも短いようです。
居酒屋でも良く見ると色々違いがあったようです。
上段の写真で紹介した三叉路の居酒屋の前に水道がありました。
サルノ川の水を引き、貯水タンクに引いた水を鉛製のパイプで町に供給していたようです。
資料によれば水道の無い大邸宅も多く、水道の整備後でも雨の貯水に頼った状況が続いていたようです。
公共の水道は、地図-15・16の付近の赤い四角印(両方三叉路)の場所に設置されているのを見かけましたが、大変貴重なものだったと思われます。
水道の拡大写真を見ると、石の穴に蛇口が取り付けられています。
石材をつないだ金具も2000年前のものだったのでしょうか。
左下は蛇口の拡大写真ですが、近代にもあったような形で、現代ならゴムで作るパッキンの材料なども自然の材料で作っていたものと思われます。
下水道が無かったポンペイでは下水は、車道を流れていたようで、交差点近くの道路に水道があるのは、排水や、道路の清掃目的でもあったのかも知れません。
二番目の三叉路にあった水道の後ろ側です。
地面から鉛製の水道管が出て、石の裏側の蛇口につながっていました。
飾り気のない水道施設ですが、石材は全て金具で接続され実に堅牢に作られています。
すぐそばを馬車が走ることもあり、しっかりとした構造にしていたようです。
水道のすぐ近くにあったパン屋の石臼(カルティッルク)です。
お店には三基の石臼や、石窯があり、小麦の製粉から石窯で焼き上げるまでの一貫生産だったようです。
写真左下に石臼の断面図の概略図を自作して載せました。
臼中央の四角い穴に臼を回す木の棒を差し込み、その横の小さな穴にピンを差して固定させる構造です。
小麦は、上のホッパーに入れ、下から粉になって出るもので、木の棒水平に回す作業は、ロバや、奴隷だったとされています。
円柱形の石を二段に重ねて回す日本の石臼と違い、石の接触面が広く、処理能力が大きい分、多くの労力がかっていたと思われます。
ポンペイにはこのようなのパン屋が約20軒あったとされ、通りをあるくと石窯や、石臼をよく見かけます。
本に石臼が1時間に約5Kgの小麦を挽くと書かれており、石臼の稼働時間を計算してみました。
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1.食パン1斤に小麦250gを使用、1人・1日0.5斤食べるとした小麦の必要量は、125g/人・日です。
人口約15,000人のポンペイでは1,875Kg/日と推定。
2.ポンペイのパン屋20軒に平均3基の石臼があるとしたら合計60基、石臼の処理能力を平均5kg/時と仮定したら、町の合計処理能力は、300Kg/時と推定。
3.1,875Kg/日(町の小麦の必要量) ÷ 300Kg/時(町の処理能力) = 6.25時間/日(石臼の推定平均稼働時間)
●この仮定では、準備・休憩・後片付けを考慮すると、ほぼ1日中動いていたことになりますね。
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パンを焼いていた石窯(オーブン)がありました。
レンガで造られた窯の入口を見ると、その奥にも入口があり、奥の燃焼室は二重の壁に囲まれた構造になっているものと思われます。
左上の窯(オーブン)は、ローマのピザ屋さんで撮った現代の窯の写真ですが、ポンペイの窯とほぼ同様、二重の構造になっているようです。(パンや、ピザは、燃焼室に入れて焼き上げられます)
現代の窯(オーブン)の基本的な構造が2000年前に出来ていたことには驚きです。
ポンペイ遺跡の見学は、現代と古代で、何が変わり、何が変わらなかったのか考えさせられるものでした。
参考文献
「ポンペイの歴史と社会」ロジャー リング著、堀 賀貴訳
「POMPEI RICOSTRUITA」Maria Antonietta Lozzi Bonaventura著
「世界の生活史ポンペイの人々」ピーターコノリー著