そのお客さんとは、もう6年の付き合いになる。
御主人と2人でクルーズ船に乗るのが趣味で平均すると年に3回ほどクルーズに出かけていたクルーズ好きなお客さん。乗船の2週間くらい前になると決まって日数分のドレスを買いに来てくれる、60代前半の女性である。いつも明るくサバサバした性格の人で、とてもありがたいお客さんでもある。コロナ禍で1年半くらい行けなかった時もあったけれど、昨年、再開すると早々、船旅に出かけていた。
一度にたくさん購入してくれるため、5年前から来店するときは前もって連絡してもらい、お客さんの好みそうなドレスを準備するために、その日は必ず私がお店にいるようにしていた。こんなお付き合いが、この先も続くのかなと思っていた。
先週の終わりに、「また船に乗るから、お店に行くよ。いつ、いる?」と、連絡があった。約束した日にお店にいると、珍しく若い女性と一緒だった。「弟のお嫁さん、義理の妹ね…」と、紹介してくれた。いつものように前回のクルーズの写真をたくさん見せてくれた。食事の写真ばかりだったけれど、それはいつものことだった。その後、2人で小一時間、あれこれ楽しそうに6日分のドレス選んでいった。お会計を済ませた後、帰り際に入り口のマネキンに着せてあった狸のファーの付いたウールのコートの前に立ち止まった。
「これ、高いでしょ…?」と聞かれ、値段を言うと、
「やっぱりね、予算オバーだからちょっと考えるね…」と、言って帰って行った。
今思えば、ちょっと痩せた姿が気になっていた。
その2日後、義理の妹さんからお店に連絡があった。その時、私は留守でアルバイトのおばちゃんが対応していた。
義理の妹さんは、「お店の入口にあるマネキンに着せてあるウールのコート、まだありますか?もしあれば、お値段を教えていただけませんか?」と、おばちゃんに聞いたらしい。で、おばちゃんは、マネキンに着せてあったコートの値段を確認して、その価格を伝えた。けれどそのコートは、実はあのコートではなかった。あの日、クルーズのお客さんが帰った後、私が別のウールのコートに着せ替えており、色は似ているものの完全に違う商品だった。もちろん価格も違う。けれど、おばちゃんはそんなことは知らないから、着せてあるコートの値段を伝えてしまっていた。
義理の妹さんは、価格を聞くと、「週明けに行くので、それまで取り置きしてください…」と、言って電話を切ったそうだ。
で、今日、私がお店にいるタイミングで来てくれた。
まずコート自体を間違え、さらに値段まで間違えて伝えていることをお詫びした。それから「なぜお姉さんが気に入っているコートを義理の妹さんが電話で取り置きをしたのか?」そんなことを尋ねると、想定外のことが返ってきた。
「義理の姉は大腸がんの末期で、余命あと半年足らずだということ。今回のクルーズが多分、最期になるだろうということ。先日、このお店に来た翌日から出発の2日前まで安静をとって入院していること…」そんなことを話してくれた。なんでも、この義理の妹の旦那さんは、結構、いい加減な人らしく、そんな弟に尽くしてくれる義理の妹に申し訳なくて、お姉さんはいつも優しく接してくれて、以前から本当の姉妹のように仲が良いのだという。そして、あの場にいて、諦めて帰ったことを目の当りにして、「多分、最期だから、お世話になった義理の姉が喜んでくれるならと思って、プレゼントしようと思った…」いうことだった。
にもかかわらず、うちは肝心のコートの価格を伝え間違えている。そもそもコート自体が違っており、さらに価格も異なると知り、彼女は大きく落胆していた。
しかもこの義理の妹の旦那は仕事をコロコロ変えるため、いつも生活が安定せず、今回は貯金を下ろして現金を持ってきたとのこと。そんな状況下で義理の姉はよく金銭的にも助けてくれたようだった。それ以外にも病気が発覚してから今までのこと、義理の妹さん自身の身の上話まで、そんな話をひとおとり、時間にして2時間弱も聞いてしまっていた。
で、おばちゃんが誤って伝えたコートの金額は3万9800円である。
片や義理のお姉さんが欲しがっていたコートは6万9800円。義理の妹さんは、今回、なけなしの貯金を下ろして義理の姉のコートを購入する為に4万円を持ってきていた。
こんな話を聞いてしまった以上、この義理の妹さんを手ぶらで返していんだろうか?と、一瞬、頭をよぎったが、持ち前の外面の良さと勢いで、「これまで僕も散々、お姉さんにはお世話になりましたから、お姉さんが気に入っていたコート代は、3万円ちょうどで良いです…」と、言ってしまった。
「そんな、申し訳ないです…」と、躊躇していたけれど、
「大丈夫、遠慮しないでお持ちください…」と、押し切った形になった。
「ありがとう…」と、たくさん言っていただいたけれど、
帰った後、「なんで、せめてあと9800円もらわなかったんだと…」、正直、ちょっと頭を抱えた自分がいた。
けれど、あの義理の妹さんの気持ちを考えたら「39,800円安く売ったくらいで、小さいこと言うな!」と、言う、もう一人の自分もいた。たしかにそうだ、クルーズのお客さんはもう亡くなってしまうかもしれないのに、「なんなら、タダで差し上げても、良かったんじゃないか!」と、思ったりもした。
こんな時こそ、商売なんて考えず、義理や人情を優先すべきだったんじゃないかと、自分の小っちゃさを改めて実感させられている。
さらに、もうクルーズのお客さんと会うこともないのかと思ったら、急に寂しくなって、さらに落ち込んでしまった。
思いがけず、重たい話に接してしまい、モヤモヤが抜けないでいる。
帰宅してすぐにジムに行って、クタクタになるまで走っても、どこか頭が冴えてしまっている。
今日の日のことは、多分、ずっと忘れないだろうと思う。
御主人と2人でクルーズ船に乗るのが趣味で平均すると年に3回ほどクルーズに出かけていたクルーズ好きなお客さん。乗船の2週間くらい前になると決まって日数分のドレスを買いに来てくれる、60代前半の女性である。いつも明るくサバサバした性格の人で、とてもありがたいお客さんでもある。コロナ禍で1年半くらい行けなかった時もあったけれど、昨年、再開すると早々、船旅に出かけていた。
一度にたくさん購入してくれるため、5年前から来店するときは前もって連絡してもらい、お客さんの好みそうなドレスを準備するために、その日は必ず私がお店にいるようにしていた。こんなお付き合いが、この先も続くのかなと思っていた。
先週の終わりに、「また船に乗るから、お店に行くよ。いつ、いる?」と、連絡があった。約束した日にお店にいると、珍しく若い女性と一緒だった。「弟のお嫁さん、義理の妹ね…」と、紹介してくれた。いつものように前回のクルーズの写真をたくさん見せてくれた。食事の写真ばかりだったけれど、それはいつものことだった。その後、2人で小一時間、あれこれ楽しそうに6日分のドレス選んでいった。お会計を済ませた後、帰り際に入り口のマネキンに着せてあった狸のファーの付いたウールのコートの前に立ち止まった。
「これ、高いでしょ…?」と聞かれ、値段を言うと、
「やっぱりね、予算オバーだからちょっと考えるね…」と、言って帰って行った。
今思えば、ちょっと痩せた姿が気になっていた。
その2日後、義理の妹さんからお店に連絡があった。その時、私は留守でアルバイトのおばちゃんが対応していた。
義理の妹さんは、「お店の入口にあるマネキンに着せてあるウールのコート、まだありますか?もしあれば、お値段を教えていただけませんか?」と、おばちゃんに聞いたらしい。で、おばちゃんは、マネキンに着せてあったコートの値段を確認して、その価格を伝えた。けれどそのコートは、実はあのコートではなかった。あの日、クルーズのお客さんが帰った後、私が別のウールのコートに着せ替えており、色は似ているものの完全に違う商品だった。もちろん価格も違う。けれど、おばちゃんはそんなことは知らないから、着せてあるコートの値段を伝えてしまっていた。
義理の妹さんは、価格を聞くと、「週明けに行くので、それまで取り置きしてください…」と、言って電話を切ったそうだ。
で、今日、私がお店にいるタイミングで来てくれた。
まずコート自体を間違え、さらに値段まで間違えて伝えていることをお詫びした。それから「なぜお姉さんが気に入っているコートを義理の妹さんが電話で取り置きをしたのか?」そんなことを尋ねると、想定外のことが返ってきた。
「義理の姉は大腸がんの末期で、余命あと半年足らずだということ。今回のクルーズが多分、最期になるだろうということ。先日、このお店に来た翌日から出発の2日前まで安静をとって入院していること…」そんなことを話してくれた。なんでも、この義理の妹の旦那さんは、結構、いい加減な人らしく、そんな弟に尽くしてくれる義理の妹に申し訳なくて、お姉さんはいつも優しく接してくれて、以前から本当の姉妹のように仲が良いのだという。そして、あの場にいて、諦めて帰ったことを目の当りにして、「多分、最期だから、お世話になった義理の姉が喜んでくれるならと思って、プレゼントしようと思った…」いうことだった。
にもかかわらず、うちは肝心のコートの価格を伝え間違えている。そもそもコート自体が違っており、さらに価格も異なると知り、彼女は大きく落胆していた。
しかもこの義理の妹の旦那は仕事をコロコロ変えるため、いつも生活が安定せず、今回は貯金を下ろして現金を持ってきたとのこと。そんな状況下で義理の姉はよく金銭的にも助けてくれたようだった。それ以外にも病気が発覚してから今までのこと、義理の妹さん自身の身の上話まで、そんな話をひとおとり、時間にして2時間弱も聞いてしまっていた。
で、おばちゃんが誤って伝えたコートの金額は3万9800円である。
片や義理のお姉さんが欲しがっていたコートは6万9800円。義理の妹さんは、今回、なけなしの貯金を下ろして義理の姉のコートを購入する為に4万円を持ってきていた。
こんな話を聞いてしまった以上、この義理の妹さんを手ぶらで返していんだろうか?と、一瞬、頭をよぎったが、持ち前の外面の良さと勢いで、「これまで僕も散々、お姉さんにはお世話になりましたから、お姉さんが気に入っていたコート代は、3万円ちょうどで良いです…」と、言ってしまった。
「そんな、申し訳ないです…」と、躊躇していたけれど、
「大丈夫、遠慮しないでお持ちください…」と、押し切った形になった。
「ありがとう…」と、たくさん言っていただいたけれど、
帰った後、「なんで、せめてあと9800円もらわなかったんだと…」、正直、ちょっと頭を抱えた自分がいた。
けれど、あの義理の妹さんの気持ちを考えたら「39,800円安く売ったくらいで、小さいこと言うな!」と、言う、もう一人の自分もいた。たしかにそうだ、クルーズのお客さんはもう亡くなってしまうかもしれないのに、「なんなら、タダで差し上げても、良かったんじゃないか!」と、思ったりもした。
こんな時こそ、商売なんて考えず、義理や人情を優先すべきだったんじゃないかと、自分の小っちゃさを改めて実感させられている。
さらに、もうクルーズのお客さんと会うこともないのかと思ったら、急に寂しくなって、さらに落ち込んでしまった。
思いがけず、重たい話に接してしまい、モヤモヤが抜けないでいる。
帰宅してすぐにジムに行って、クタクタになるまで走っても、どこか頭が冴えてしまっている。
今日の日のことは、多分、ずっと忘れないだろうと思う。