はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

静岡県の東海道5-4

2011-04-14 10:58:25 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」5回目-4  2011/3/30

袋井駅 ― 袋井宿 ― 木原一里塚 ― 見付宿 ― 宮之下一里塚 ― 天竜渡船場
 6:00      6:10       9:42       7:45      9:16        10:08
         0.6k       2.9k       8.5k      13.4k        17.1k
 
― 中野町 ― 浜松宿 ― 八丁畷 ― 春日神社 ― 舞阪宿 ― 新居町駅
  11:15     12:42      13:38     15:13     15:50    16:43
  21.1k     28.7k      31.1k     4.05k     42.9k    47.6k

                       浜松宿へ(中野町)

天竜川を渡るのに苦労してしまった。
3本ある橋の何所に歩道があるか分らず、まず池田の渡船場から下ってきて、最初の
国1バイパスの上り線の上に土手を登って出たが歩道は無い。
次に隣の下り側はと見るが、よく見えない。横断したくても道は分断されているので歩く
事が出来ない。仕方なく土手を降りガードを潜って今度は旧国1の土手を登ってみたが、
やはり歩道は無い。だがその先のバイパス下り線の横に歩道が見えた。
しかしここは横断禁止になっていた。でもガードレールは足の短い私でも跨げそうだ。
車の流れを見計らって強引に横断するか----
止めましょう横断禁止の所を渡るのは。ならどう行くのか。分ってしまえば簡単で、
池田からの堤防を下ってきて、最初に堤防を降りる車道を道なりに下る。次にある
バイパスの信号を渡り右折すれば橋に続く歩道がある。
では私はどうしたかったて? 当然有視界歩行をしてしまいました。ご免なさい。
でも私のような方法を取った街道歩きの人は多かっただろうな。

長い橋を渡る。渡りきった橋の袂に案内板が立っていた。読んでみると
「江戸の日本橋と京の三条大橋を結ぶ東海道五十三次は全長500kmの道のりですが、中野町
は丁度その中間にある事から、江戸と京の真中の道「なかのまち」と名付けられました」
またまたありました「まん中」が。なんか嬉しくなってしまう。元祖争いならぬ「まん中」争い。
果たして、いずれが真実か?

中野町にはの入口の立札にも、こんな紹介があった。
「十辺舎一九の東海道中膝栗毛には「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸よりも
六十里、京へも六十里にて、ふり分けの所なれば中の町といえるよし」と記されている」
60里となれば60番目の一里塚も近くにあるはずだ。見付では59里目(63)の一里塚を過ぎて
来たので、もうそろそろある頃だ。どんな一里塚だろう。きっと復元されているだろうな。
期待をしたくなってきた。こうなると元祖争いは中野町を応援したくなる。

だが元祖争いはいずれも静岡の町同士だ。ここはお互いに花を持たせて、こうしよう。
・掛川の中道寺は歩いた時間のまん中で(京と江戸を同時に出発して出会った場所)
・袋井宿は宿場の数のどまん中(54÷2=27)
・中野町は距離から押した真ん中だ(60番目の一里塚)



天竜川を南に少し下った所に神社がある。そこに明治天皇の記念碑が立っていた。今まで
あった記念碑は、明治元年に明治天皇が初めて江戸に向かう東下りのときの記念碑だった。
だがここの記念碑は明治11年北陸東海御巡幸の記念となっていた。
明治11年といえば、天竜川に通しの木橋「天竜橋」が完成した年だ。
きっと明治天皇はその木橋を渡ったのだろう。
それにしても此処の記念碑は大袈裟な名前が付いている。「玉座迹」とか「明治大帝御聖跡」
案内板も「明治天皇玉座迹の碑」となっていた。

堤防を降りて神社の横には先ほど紹介した立札が立っている。その立札の下には「中野町道路
元標」の石碑がある。説明によると道路元標とは「市町村の道路の起点終点を示した物です。
大正九年施工の旧道路法により、各市町村に一ヶ所の設置が定められていた」とある。
だが道路の起点や終点がない中間の村はどうしたのだろう? 更にこんな表現も
「ここにある中ノ町道路元標は中ノ町村の起点を示すもので、当時の規格に忠実に作られてい
ます」何々道の基点ではなく村の基点? 更に忠実に作られていると云う事は複製品なのか?
まだ書いてある「市町村の数と同じ12244基が設置され、現存する物は全国で1600基ほど、
静岡県内では、おそらく唯一の、たいへん貴重なものです」となると本物か?
短い説明だったが幾つもの?を感じてしまった。

家に帰り中野町の道路元標を調べたが、本物かどうかハッキリしなかった。
だがこんな事も書いてあった。
「中ノ町道路元標となってるが、正しくは中ノ町村のようです」-------

             

立派な門構えの家は金原明善の生家で道の反対側には記念館もある。
金原明善とは天竜川の二宮金次郎と言うべき人で、天竜川の洪水を何度も経験した事から、
私財を投げうって堤防の補強に努めた。また洪水を防ぐには山に植林する事だとして、天竜川
上流の植林にも励んだ。これは現代の「緑のダム」の先がけだと云えそうですね。
また現在天竜美林と賞賛されているのは、この時の植林の成果だそうです。

明善は他にも天竜川最初の木橋「天竜橋」の完成にも寄与しています。
それにしても私財を投げうって堤防整備に力を注いだ割には立派な家だ。

ここまで大きな川は富士川、安倍川、大井川、天竜川と渡ってきたが、それぞれ堤防はあった。
それは当然なことで富士川の雁堤は延宝2年(1674)、安倍川の薩摩土手は慶長11年(1606)、
大井川の天正の瀬替えは天正18(1590)に大きな改修工事を行っている。
だが何故かこの天竜川の堤防だけが明治時代と新しい。
浜松と言えば家康も住んでいた浜松城もあるのに?

面白い話を見つけた。浜松城は別名出世城。家康は元より藩政260年の間に25代の城主が誕生
して幕府の要職に就いた者も多く、老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人などを輩出した。
だがこの城主たちは自分の出世の事しか興味がなく、浜松藩内の内政には目もくれない。
当然莫大な経費がかかり即効性の無い堤防整備などに一顧だにしなかった。
そのため天竜川の本格的な河川改修は金原明善の時代にまで遅れてしまった。

現代でもそうですよね。警察や税務署などのキャリアたちが、若く何の経験も無いのに署長に
なり、在任中はただ失敗をしないように前例主義に徹しいる。こんな悪癖がこの時代から、ズート
引継がれてきたのかと思うと情けなくなってくる。



金原明善の生家より少し西の右側に、姫街道の起点の案内板があった。この露地は昔の道標
では「従是鳳来寺」となっていたが、姫街道の入口で安間口だったと書いてある。
となると姫街道は東海道と同じく池田の渡しで天竜川の西岸に渡り、この安間口から姫街道に
入ったのか?
姫街道を歩き出す前に調べておかないといけないな。

期待していた60里目の一里塚の所在が分からず地元の人に聞いてみた。しかし「ある事は
知っているが何所にあるかは分らない」とつれない返事。しかし諦めるにしては惜しすぎる。
すると「おーい! ここにあるよ」と先ほどの人が手招きしている。
戻ってみると ありました。ありました。写真のような案内杭が1本だけ。

誰だ!立派な一里塚が復元されているかもしれないなんて期待した奴は。
アーア折角応援したくなったのに、そんな気持ちは一遍にしぼんでしまった。
十辺舎一九も「ふり分けの所なれば中の町といえるよし」とわざわざ書いた甲斐が無いだろう。
ガッカリしついでに文句も言ってしまえ。
中野町と中の町では意味が違う。ここは中野町になった時点で宿場町競争に負けたのだ。

    

JR天竜川駅の入口の所にお宮の松の説明板があった。イエイエ紹介する程のことは無い。
ただお宮さんの境内に大きな松があったという事だけ。金色夜叉のお宮の松とは、縁もゆかりも
なかった。
それより神社の入口にあった秋葉山の常夜灯。ここでは鞘堂と説明している。
石灯籠と常夜灯の違いはさておき、常夜灯と鞘堂の違いは何だ。外観は袋井や磐田にあった
常夜灯となんら違いは無い。中を覗いてみると灯篭はなく神棚が見えた。
鞘堂とは建物を風雨から保護するため、外側から覆うように建てた建築物で、中尊寺金色堂が
有名だ。ではここの鞘堂は何を保護しているのか、神棚か?

中野町を過ぎてから面白くない道が続いている。東海道筋の都市は何所も戦災で焼けてしまって
いるので仕方ないが、矢張りこれでは面白くない。面白くないので疲れも出てくる。袋井から
ここ琵琶橋まで既に25kmも歩いている。見付宿からだって16kは歩いているのに、まだ本陣には
着いていない。全く嫌になる。しかも浜松警察署の近くにあるはずの馬込一里塚跡の標識も
見当たらなかった。全く泣き面に蜂だ。

馬込川の橋を渡る。この馬込川はむかし天竜川が流れていた跡とのことだ。
こんな町中を暴れ天竜が流れるようでは浜松に国府ができなかったはずだ。
左側に高いアクトタワーが見えてきた。浜松は県庁所在地の静岡より人口も多く、このタワーが
できる頃は完全に静岡を凌駕する勢いがあった。
だが最近はその勢いがすたれアクトタワーには空室が目立ち、駅前のデパート跡は幽霊ビルに
なっているという。いま行われている統一地方選挙でも浜松は政令都市で初めて無投票で市長が
決まってしまった。何とも情けないことだ。
浜松人の持つ「やらまいか精神」で是非勢いを取り戻して欲しい。

             

連尺町の交差点を右折するとやっと本陣跡に辿り着いた。
場所はビル街の一角で面白くも何と無いが、ともかく浜松宿に付いた。余りにも長く感じたので
見付からの距離をGPSで見てみると16.5kmとなっている。では江戸時代の里程標はというと
四町七里で、なんとGPSと同じく約16.5kmだった。
余りにもドンピシャリで驚いたが、これはたまたまの偶然だろう。それにしてもこの宿場の
間には天竜川があるのに長すぎないか、大井川も安倍川も川の近くに宿場があり、富士川には
間の宿があった。それがここでは東岸には長森の立場と池田の渡し。西側は中ノ町があったが
いずれも宿は無いようだ。
これでは天竜川の川止めのときはどうしたのだろう。折角川辺まで行ったのに、また見付や
浜松まで戻らなければならなかったのか。そんな馬鹿な!旅人は怒ってしまうだろう。
若しかして池田や中ノ町でも内緒で旅人を止めていたのではないだろうか。

後で調べると見付・浜松間は宿場間の距離が東海道で一番長かった。

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