はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場2-1

2014-03-20 11:54:42 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         17番広隣寺(行き過ぎた)
 1回目の遍路で予定より3寺少なく終えてしまったので今日は始発電車で出発した。
高塚駅に降りると前回にも増して冷たい風が吹き抜けていて、震え上がってしまう。建物の陰に隠れて準備を
したが、こんな日は歩き出す意欲は盛り上がらざず気分は低調。
 今日の予定は終点となる駅の候補が幾つもあり決めかねていた。理想は今回の霊場の中で一番北にある
天竜阿蔵の30番まで打って、天浜鉄道の豊岡駅をゴールにしたいのだが、推定距離が42kになってしまう。
これでは実際の歩行距離は45kmを越えてしまう、と始発電車で来たのだが-------
 次の候補は同じく天竜の29番を打ち、天竜二俣駅がゴールだが、多分このケースになると思える。
最悪は28番岩水寺を打って二俣本町駅ゴールだが、マーこんな事にはならないだろう。
いずれにしろ家康の長男信康が切腹した二俣城は見学する余裕は無さそうだ。

 強い風は幸いな事に西風で、東に向かう私の背中を押してくれる風だった。昨夜の天気予報で
「最高風速は30mから35mで人が立っていられないくらいの風」と言っていたのに、何故か強風警報でなく
強風注意報だった。
 静岡県の遠州灘沿岸地方では強風注意報は左程珍しい事ではなく、冬の風物詩といったところだ。ただ
今日の風は強いだけではなく、3月半ばなのに冷たすぎる。お蔭で歩き出しても体は温まらず、ポケットに
手を入れ肩をすぼめ俯いて歩いてしまった。
 出発時に手持ちの地図で17番広隣寺の場所を確認すると、線路と平行に続いている道を東に進み、太い
道に出たらその道を横断し、少し南側の道を暫く行った所にあった。太い道の手前には可美小学校がある。
寒いので自然と歩きは早くなる。だが一向に可美小学校が出てこない。何故だと疑問に思いだした頃ようやく
太い道に出合った。きっと俯いて歩いていたので小学校を見落としたのだろう、と太い道を横断する。
南寄りの小道に入って少し進んだが、手持ちの地図と実際の道とではカーブの曲がり具合が一致しない。
更にもう1枚のメモを見ると、高塚駅から広隣寺までは1.9kmとなっている。だとすれば20分も歩けば着く
はずなのに、既に駅から40分も歩いている。これはおかしい。絶対間違えたのだ。とスピードを緩め、誰か
いないかキョロキョロしながら歩く。幸い玄関先を掃除している女性が目に付いたので、挨拶をして広隣寺の
場所を聞くが知らないと言う。では可美小学校はと聞くと「ズート西」だと言う。困った顔をした私の手元の地図を
見た女性が「アラこの二ツ御堂は、ここから西に行った所に有りますよ」と言いだした。ナニー 二ツ御堂は
広隣寺の次の札所で広隣寺より東にある。それが今いる場所は、その二つ御堂より東側だという。
寒いからといって俯いて歩いていた罰が当たってしまった。情けない。

 二ツ御堂の場所を聞き、そこから逆に広隣寺に行く事にした。
横目で次の次の札所を見ながら西に向かう馬鹿らしさ。戻り始めて20分ほどでようやく広隣寺着いた。
多分距離にして往復3k位はロスをしただろう。これで今日予定の豊岡駅ゴールは消えた。

    
  何故かマンホールの蓋の絵柄がツバメだった                 広隣寺
               広隣寺の地図
 時刻はまだ7時半で早かったが、ご朱印をお願いして本堂でお詣りをさせてもらった。本堂に祀られているのは、
薬師三尊と十二神将で、他の寺と同じだったが、違うのは薬師如来が座っている事だ。しかもその姿は男性的で
いかにも仏様、如来様といった感じがする。予備知識では薬師如来は座位で菩薩は立位とあったが、今まで
お詣りした薬師如来は全て立位だった。そのため菩薩と同じような感じで、如来と云うより観音さんの雰囲気が
強かった。何故如来の立位が多いのか考えてみたが、多分お祀りしてある場所の関係ではないか。
如来を座位にして隣の菩薩より大きくするには横幅を広くしなければならない。その点、立位なら上に延びても
横は左程広がらないので場所を取らない。狭い沙弥壇のでは立位の方が都合が良いのだろう。

 

                         18番二ツ御堂(言い伝え)
 先程歩いたばかりの国道1号を逆戻りをして18番二ツ御堂に行く。この道は旧東海道なのだが国道1号線と
なったため過日の面影はないが、それでも所々に名残の松が残っていた。
 18番札所二ツ御堂には奥州の覇者藤原秀衛と愛妾の話が伝えられていた。
「平安時代末期藤原秀衛が京に参内したが大病を患ってしまった。それを聞いた愛妾が京に向かって、この地を
歩いているとき秀衡の悲報を聞いた。嘆き悲しんだ愛妾はここにお堂(北堂)を建て秀衡の菩提を弔っていたが、
自身もここで死んでしまった。だが秀衡の死は誤報で、秀衡は病気が回復し奥州に戻る事にした。そしてここを
通った秀衛は愛妾の話を聞くと感激して街道を挟んでお堂(南堂)を建て薬師如来を祀って愛妾を弔った」
という。
フーンでも死んだ人に病気回復の薬師如来では少々遅すぎるのではないか、と茶々を入れたくなる。
 15番地蔵寺から18番の二ツ御堂まで札所の宗派が連続して臨済宗方広寺派だった。さすが地元だけの事はある。

 
              二ツ御堂(南堂)                        二ツ御堂(北堂)
              二ツ御堂の地図

                         19番大厳寺
 19番大厳寺(だいごんじ)へは二ツ御堂から旧東海道を歩く。途中に江戸から66里目の一里塚や天台宗と
真言宗の僧兵が争った場所に「鎧橋」の案内板も建っていた。それによると
「平安時代末期に戒壇設置の件で、比叡山の僧兵が地元の鴨江寺を攻めて来た折に、鴨江寺の軍兵がここで
鎧を着用して迎え撃ったという。その時の双方の戦死者千人を鎧橋の近くに葬ったと言い伝えられている。」

この中にある戒壇設置とは「戒律を授ける(授戒)ための場所」だそうだが、簡単に言えば「僧の資格を認める
機関」
ではないか。日本では最初は国分寺が僧を管理していたが、822年勅許で延暦寺に戒壇が建立された。
そのため延暦寺では既得権を守るため他派とたびたび騒動を起こしている。
鴨江寺も「平安時代には三百余の寺々があり勅許を得ずに戒壇を作り殷盛でした。このため比叡の僧と戒壇の
ことで争い戦をした」
と伝えられています。

 旧東海道と別れ新幹線のガードを潜ると広大な敷地に「西浜松駅」の看板が立っていた。西浜松駅は初めて
聞く名前だが、きっとJRの貨物駅なのだろう。浜松は静岡県一製造業が盛んで、車やバイク、楽器など日本を
代表する工場があるのだから大きくて当然なのだろう。
次にあった在来線のガードを潜りぬけた所に大厳寺はあった。だがその山門は閉じられていた。ウンどうしよう?
一瞬困ったがよく見れば通用門が開いていた。アー助かった。
通用門から境内に入ると正面に宝形造りのスッキリとした水色の屋根の本堂が見える。庭園もその本堂にマッチ
した植込みだった。この寺も蘇鉄が植えられていた。

 
              大厳寺山門                           大厳寺本堂
              大厳寺の地図
 本堂に上がりお詣りをしたが薬師如来は見当たらず、代わりにあったのが写真の仏像。
残念ながら名前は分からないが、左側の仏像は装飾の無い衣や螺髪、白毫があるから如来と思のだが。
一方右の仏像は宝冠を被り、右手に水瓶、左に宝珠を持っているが何観音か分からない。
幾度となく霊場巡りをしているが、実際に仏像をお詣りする機会は多くないし、靴を脱ぐのが面倒で自らその
機会を放棄する時もある。こんな事では一生仏様の名前は覚えられないだろう。

          


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 昨日(19日)4回目の遠江49薬師霊場巡りに行き結願しました。

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