はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場1-2

2014-03-12 17:10:18 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:6時間30分   休憩時間:3時間15分   延時間:9時間45分
出発時間:7時00分   到着時間:16時45分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 磐田駅 0:15> 1番 0:20> 2番 0:10> 3番 0:20> 5番 0:30> 6番 0:25> 7番 0:40> 8番
 0:05> 9番 0:25> 10番 0:35> 11番 0:35> 12番 0:30> 13番 0:10> 14番 1:05> 16番
 0:20> 15番 0:05> 高塚駅

                         5番正醫寺(萬能)
 4番札所は廃寺となり今は札所が変更してとんでもなく別の場所になってしまっている。今回の遍路も出発
だけは1番からとして、後の順番は拘らない事にした。よって4番のお詣りは今日は省略。
3番から5番正醫(しょうい)寺に行く跨線橋を見て思い出した。この道は遠州33観音の札所でもある正醫寺に
行く時に歩いた道だ。今回も同じ道を歩くのでは面白くないと道を変えて失敗してしまった。
跨線橋を渡り太い道を直進すると「日本アルコール産業KK]なる工場があった。そう云えば磐田には専売公社の
煙草工場があった。このアルコール工場もその専売公社の別れなのか? ウーン専売公社の専売品は煙草と
塩でアルコールも入っていたのか、など考えながら歩いていて左折する道を通り過ぎてしまった。
それに気づいたのは次の交差点のライススタンドなる片仮名の米屋を見て、ここは旧東海道だと思いだした。
今更戻るのも馬鹿らしいので暫く東海道を歩いてから右折して正醫寺に向かう事にした。
これで1km弱は遠回りをしただろう。時間にして10分か。マーこの位は仕方ない。

 正醫寺の境内には可愛らしい六地蔵が小さな舟型の石碑に彫られていた。もっと大きく六地蔵が三段なのは
何度か見ているが、このように横一列なのは珍しい。
本堂で般若心経を唱え終えると住職が「この寺の山号は東光山と云いますが、これは釈迦如来様の東方瑠璃光
からきています。寺の正醫はお薬師さまが医の仏様ですので名付けられました」
と説明してくれた。
こんな風に住職が説明してくれるのは珍しい事で私にとっては嬉しい事だ。

 
               正醫寺                           六地蔵
               正醫寺の地図

 ここでのご朱印は49薬師と前回ご朱印を押さなかった33観音を合わせて押してもらうと、
「朱印帳が別々なので申し訳ありませんが薬師さんが200円で観音さんが100円の300円になります。」
これでようやく今回の薬師巡りの朱印料明確になり、1回200円で計1万円朱印料が掛かる事になる。
この正醫寺の御朱印帳を家で見て疑問が湧いてしまった。49薬師には「萬能薬師」。33観音は「萬能観音」
なっている。写してきた写真をみると萬能観音の提灯が下がり仏像の手には薬壺は無かった。
それどころか事前に勉強した如来と菩薩の違いに照らし合わせれば、ここの仏像は全て如来を示していた。
頭部は頂上に盛り上がりがあるボツボツの渦巻状。衣は飾りのない質素な姿。しかも菩薩は基本的に立ち姿と
いうが、この仏像は座禅を組んでいる。印相は親指と人差し指を付けた説法印のようだ。
だとするとこの仏像は阿弥陀如来か。アーア もっと早く気が付いて住職に聞けばよかった。
イヤイヤ「萬能」と云うから観音菩薩になったり薬師如来や阿弥陀如来に変身をするのかもな。
 
 
               萬能観音                       達磨の屏風

                         6番林昌寺(完歩?)
 6番林昌寺は正醫寺から旧東海道に戻り西に向かい国道1号線と合流する北側にあった。1号線と合流地点
までは難なく行けたが、県道と国道の先に見える寺に入るに難渋した。何も交差点まで戻れば何でもない事だが
そこまで戻るのが面倒だ。そこで交通量の多い二つの道を強引に横断したが、きっと運転手は「だから年寄りは
困る」
と思っただろう。反省! イヤイヤ実行できない反省などはしても意味は無い。

 参道の入口に方形の屋根を持つ薬師堂があったが開かなかったので外からお詣りをして本堂に向かった。
タイミング良く洗濯物を干していた女性にご朱印を依頼すると本堂の中に招じられた。そうなっると再度お詣りを
しなければならない。こんな事をしていると結構時間が掛かってしまう。札所の滞在時間は1番で12分、2番が
17分、3番7分、5番15分、6番14分掛かっている。ご朱印をするとほぼ15分は掛かる計算だ。今日は
予定している札所は18寺ある。もうそれだけで270分で4時間から4時間30分は掛かってしまう。
そして今日の予想距離は約33km。これを時速4kmで歩くと約8時間。合わせて12時間になってしまう。
昨夜計画した時は歩行距離だけを考えてお詣りする時間を考慮に入れなかった。しかも札所巡りでご朱印を
受けるときは遅くとも5時前までには最後の札所には行かなければならない。
ウーン! 困った。今日は観歩どころではなく完歩出来るかどうか怪しくなってきた。

        
                    林昌寺                        古仏
               林昌寺の地図
                         7番妙法寺(禁葷酒)
 7番松林寺は6番より北に向かい、有名な熊野の長藤の手前にあった。
その山門の入口に「禁葷酒」の石碑が建っていたが土台は古いが石碑は新しそうに見えた。この「葷(くん)」とは
ニンニク・ネギ・ニラ・ラッキョウ・ノビルなど臭いがくさい野菜のことで、「酒」は誰でも知っている酒で私の大好物。
ついでに言えば葷の中のノビルは春に採れる野草なので、毎年採っては酒のつまみにしている。
だが山門の前にそんな事をわざわざ建てると云う事は、坊さんも反省はするが禁葷酒は中々守れなったのだろう。
そこで「有言実行」で檀家一同に宣言したのかな。
これが古い石碑ならそれで終わりだが、新しい石碑だと住職の考えを知りたくなる。

 ご朱印をお願いしたがお詣りの事は聞かれなかったので、これ幸いとばかりに本堂の前で礼をしただけで
終りにしてしまった。こんな事ではいけないと反省はするのだけど--------

   
       「禁葷酒」                妙法寺              道元禅師
               妙法寺の地図

遠江四十九薬師霊場1-1

2014-03-11 12:12:41 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:6時間30分   休憩時間:3時間15分   延時間:9時間45分
出発時間:7時00分   到着時間:16時45分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 磐田駅 0:15> 1番 0:20> 2番 0:10> 3番 0:20> 5番 0:30> 6番 0:25> 7番 0:40> 8番
 0:05> 9番 0:25> 10番 0:35> 11番 0:35> 12番 0:30> 13番 0:10> 14番 1:05> 16番
 0:20> 15番 0:05> 高塚駅

                         1番国分寺(交差点)

 電車内で暖まっていた体に冷たい風が吹き付ける。気温は9℃もあるがとてもジャンパーやトレーナーを脱ぐ
気にはなれない。これだから冬の遠州を歩くのは嫌なのだ。手袋をした手をポケットに突っ込んで磐田駅を
出ると、早速スクランブル交差点に引っ掛かった。立止っていても寒いので早く渡りたいのだが歩行者用は
赤になったばかりだ。やっと青になって進んだと思ったら、またもや次の信号で赤。
この道はジュビロロード否「ジュビロード」と云いジュビロの選手の手形やサインが敷石にプリントされている。
マスコットの「ジュビロ君」も迎えてくれた。と思ったらこれも訂正で、スカートだかから「ジュビィちゃん」だ。
エー?このマスコットが静岡県の鳥、三光鳥? そうかなー とてもそんな風には見えない。

 オットまた信号だ。車は殆ど走っていないので信号無視をしたいが、今日はお遍路初日なのだから少しは身を
慎まなければ。やっと青で渡ったら、またもや赤信号。ここまで全ての信号に引っ掛かってしまった。
アレーこの交差点は平行に走っている車は青信号で走っているが、歩行者用信号は赤になっている。信号機には
「歩車分離交差点」と書いてあるが斜めの横断歩道は書かれていない。
ということは斜め横断は禁止なのか? でも平気で斜めに歩いている人がいる。
どうもよく分からない。スクランブル交差点は、前と横の車の流れを待てば、斜めに横断できるので、待時間が
長くても場合によってはメリットがある。しかしこの歩車分離交差点は待ち時間が増えるだけでメリットは無い。
何故こんな交差点が必要なのか? しかも磐田のような地方都市で、こんな信号を連続2か所も設置する必要が
あるのか。これでは車が渋滞してしまわないか心配になる。
イエイエそんな心配は必要はなさそうだ。渋滞するほど車は走ってはいない。

          
             ジュビィちゃん                      府八幡宮

 右側に磐田の古社「府八幡宮」が見えているが今日はパス。その府八幡宮の前に1番札所国分寺はある。
国分寺は奈良時代、聖武天皇の命により国ごとに建てられた、いわば国立の寺で、そのため遠江国分寺も
東西180m、南北250mの七堂伽藍を擁した建物だった。それが中世になり国分寺は衰退してしまい、今では
その国分寺の一隅に薬師堂が建っているに過ぎない。

 現在国分寺跡は国の特別史跡に指定されているが、私のような素人には単なる芝生広場にしか見えない。
境内の蛇口が付いた手水鉢の案内板には「この手洗石は国分寺の礎石をくり抜いて作られたものです」
説明してあった。確か駿河の国分寺の礎石も穴が開いていて手水鉢として使っていた。だが手水鉢にする
ために開けたのではなく仏舎利を奉納する舎利孔だとあった。(駿河の国分寺の記事

 調べていて遠江国分寺の礎石が長野県駒ヶ根市にも展示されている記事を見付けた。
磐田と駒ヶ根なら「悉平太郎」の関係で贈ったのだろうが、他国の寺の礎石を貰っても駒ヶ根市も困ったろう。
まして市民はこんな石を見ても左程興味も湧かないのではないか。矢張り礎石などの歴史的遺物は、有った
場所に置いて有る方が自然だと思う。それにして磐田市は駒ヶ根市から何を貰ったのだろうか。

 
            遠江国分寺跡                       国分寺礎石

 遠江49薬師霊場の立派な看板があり、こんな看板があるなら札所も探しやすいだろう。しかも霊場の赤い幟も
立っているので更に探しやすい。遠江や遠州33観音より霊場保存に力を入れているようだ。
国分寺は無住のため堂内でのお詣りは出来ない。お堂の前で簡単にお詣りをしてご朱印を押してくれるという
寺の入口にある自転車屋に向かった。だがその入り口のガラス戸にはカーテンが閉まり鍵がかかっていた。
家の横を見ても起きている気配はしない。時間は7時を過ぎたばかりなので声を掛けるのも憚れた。
仕方ない諦めよう。

 
                遠江49薬師看板                 1番 国分寺 
                  国分寺の地図
                         2番泉蔵寺(ご朱印料)
 2番は東海道線の南側にあるので戻る状態になるが、当然信号の多かったメイン通りは歩かず裏道を行くと
「常夜燈」と書かれた石塔が建っていた。その中央の穴には「可睡斎」のお札が入っていて、塔の上には花弁の
ような中に徳利状の物がある。これで灯りは何処に灯すのか? それともこの常夜灯は飾りに過ぎないのか?

 踏切を渡るとそこが2番札所泉蔵寺の裏参道だったが今日は山門から入ろう。
山門の前に池があり「無量寿の池」と書いてある。この池の水は昔から絶える事無く湧いていて、天竜川が
氾濫し、周辺一帯が泥水になったが、この池の水は濁らず澄んでいたと伝えられている。
泉蔵寺の名前の由来もこの池からきていて、汲んでも汲んでも尽きる事のない泉の蔵という意味だそうです。
山号の「無量山」も無限で尽きない量と云う事かもしれないな。

     
        常夜燈                        無量寿の池          

 池の横の階段を登り境内に入ると六地蔵や西国33観音のお堂がある。六地蔵は九体の地蔵がありどれが
六地蔵なのだろうか。その中の一体に「遠江巡礼供養 同行三人」とある。これも何だろう。
何人で歩こうが、心の中は弘法大師と常に二人ではなかったのか。

 ご朱印をお願いしている間に本堂に入り薬師如来にお詣りをした。予備知識の通り沙弥壇の上には薬師如来を
中央に配し、その両脇には日光・月光菩薩。更に横には十二神将が祀られていた。
最初の事でもあり般若心経を声を出して唱えると、家と違い自分の声がそれなりに聞こえてきた。
ご朱印料は幾らだろう? 駿河一国では無地の御朱印帳だったので300円。
マーこれが世間一般のご朱印の金額だろう。
それが遠江や遠州では、既に本尊や山号などが印刷されている御朱印帳を購入してあるので、3ヶ所の朱印を
押して貰って100円だった。この遠江49薬師も同じように印刷されているので多分100円だと思うが「幾ら
ですか」
と聞くのも憚れる。そこで千円札を「お願いします」と渡すと800円のお釣りがきた。
そうだ思い出した、秩父34観音では2回目以降の朱印だけの場合は、200円だったのでそれもあり得るのだ。
たった100円に何故拘るかって? それはご朱印が1回だけで済むなら300円でもいいが、この49薬師では
番外を含めると51札所を廻る事になる。そのご朱印料は300円なら1万5千円、200円なら1万円、100円でも
5千円掛かってしまう。年金生活者でお仕着せの小遣いしか貰えない身には切実な問題です。

 
                泉蔵寺の山門                      薬師如来
              泉蔵時の地図
                         3番金台寺(奪衣婆)
 泉蔵寺から線路沿いに西に行った所に3番金台(こんたい)寺は有る筈なのだが分からない。寺の大きな屋根や
大木を探すが見当たらない。結局歩いていた人に聞いて分かったのだが、金台寺は小さな集会所風の建物で、
蘇鉄にしては大木だが背丈が低い蘇鉄では遠くからでは分かる訳が無い。寺付近の地図をもう少し細かく印刷して
おくべきだったと反省。だが「聞く遍路 迷う遍路も 遍路なり」でそれも楽しい。

 金台寺の境内に閻魔大王とおぼしき石仏がある。その横の老婆の像は 「奪衣婆」 (だつえば)のような気が
するが何故閻魔さんと奪衣婆がセットなのか? 調べたらこんな説明を見つけた。
「三途の川の三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことで、この川の辺に「衣領樹」(えりょうじゅ)という木がある。
その木の下には「奪衣婆」という老婆がいて、木の上には「懸衣翁」(けんえおう) という老爺がのっている。
奪衣婆が着ている衣類を脱がせ、木の上の懸衣翁に渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。
枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けである。
その「懸衣翁」「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に陪席しているので、嘘の申告は出来ないのである。」

成程ね。でもそれなら懸衣翁も入れて三人一セットの方が良かったのに。
待てよ、これも思いだした。駿河一国33観音の番外東光寺(熱海十国峠)に矢張り閻魔さんと奪衣婆風の石像が
あった。確かあそこも懸衣翁の像は無かったと思う。きっと恐ろしい形相の奪衣婆は閻魔像とマッチするのだろう。
それにしてはここの奪衣婆像は余り怖い顔をしていないな。

 
               金台寺                      閻魔大王と奪衣婆
               金台寺の地図

遠江四十九薬師霊場1

2014-03-08 12:01:22 | 遠江49薬師
                             遠江四十九薬師霊場
          
                      薬師如来                            薬壺

 今年の遍路は「遠江四十九薬師霊場」にする予定で、遠州三山の初詣をしたときご「朱印帳」(¥1100)と「薬師の
ある ふるさと遠江」
薬師奉賛会編(¥1000)を購入し、無料の札所案内「遠江49薬師参拝御案内」を貰っておいた。
遠江いわゆる遠州の代表的な霊場巡りには「遠江33観音霊場」「遠州33観音霊場」「遠江49薬師霊場」それに
「遠州七福神」などがある。この内49薬師霊場以外は既に打ち終っているが、この薬師霊場は観音霊場と違い
余り聞き慣れていない事と、49ヶ所と云うのも何か水増ししたようで気が進まず、まだ歩いていなかった。
それで調べてみると、これらは自分が思い違いしていた事が分かった。
以下は私が解釈した受け売りですので余り信用しないで聞いてください。

 仏像は、如来、菩薩、明王、天の4つに分けることができます。

如来:悟りをひらいた仏様で仏陀(ブッダ)とも言う。(阿弥陀如来・大日如来・薬師如来・釈迦如来ほか)
   悟りを開いた後なので衣をまとっただけの質素な姿で装飾品ないが、大日如来は例外で冠を冠っている。
   薬師如来以外は持ち物を持っていない。
   頭の頂上に盛り上がりがある。髪型はぽつぽつと渦巻き状。

菩薩:如来になるための修行中の仏(観世音菩薩=観音さま・千手観音菩薩・文殊菩薩・地蔵菩薩ほか)
   如来(仏陀)の手足となって活動する仏(釈迦三尊、阿弥陀三尊、薬師三尊
   釈迦が修行中の王子だった頃の姿が原形なので、冠、首飾り、イヤリングなど装飾品を身に付けている。
   地蔵菩薩は例外の髪型は高く結い上げている。
   他者を救う「行」をしているので、すぐ助けに行けるよう基本的に立ち姿で表され、瞑想には入らない。

明王:如来が姿を変え(化身)修行する者を守る仏。(不動明王・愛染明王・金剛夜叉明王ほか)
   人救うため必死の形相になっている。如来や菩薩は蓮台に座しているが明王は岩や動物などの上や武器を
   手にして、目や手の数が多かったりする特徴がある。
   
:魔物から仏界&仏法を守る仏。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道の天にいる仏。
   (弁財天・大黒天・毘沙門天・吉祥天ほか)

 これらの事で菩薩は如来の手足となって働く仏だと分かった。ようは如来の方が地位が上なのだ。以前私は
薬師観音菩薩とも思っていたが、そんな事はあり得なかった。さらにもう少し細かく薬師如来を調べてみると
薬師瑠璃光(るりこう)如来 =薬師如来
 薬師如来は遥か東方の地面が瑠璃(るり)で出来ていている国の教主です。その名の通り医薬を司る仏で、
 医王という別名もあり、人々のの病気を治す仏とされていて、このため左手に薬壷を持っています。
  一方阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主で、来世での安らぎを約束するのに対して、薬師如来は人々が
 生きている間に、救いの手を差しのべてくれる、現世利益の仏として昔から信仰されています。
 これにより太陽の登る東方は現世利益。日が沈む西は来世の安らぎを得る方向とされています。
 (そうか、そのため朝日を見れば活力が湧き、夕日を見みると心が落ち着くのだろう)
  薬師三尊とは、薬師如来と日光(にっこう)菩薩、月光(がっこう)菩薩の三尊で、日夜人々に救いの
 手を差しのべてくれるとされています。
 また、その救いの手を悪鬼に邪魔されないために、武装した十二神将が薬師如来の守護しています。
 十二神将の十二とは、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るという事から来ていて、
 各神将がそれぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を率い、それは人間の持つ煩悩の数に対応しているという。

 ウーン大分頭が混乱してきたので、この組織を現代風に置き換えて考えてみよう。
 薬師病院の薬師如来総婦長の下には昼間を管理する日光菩薩婦長と、夜間を管理する月光菩薩婦長が居ます。
その二人の婦長の下には時間単位で勤務するチーフ看護婦12名が、それぞれ7000人のパート看護師を管理
しています。このようにして薬師病院では4時間人々の命を守っていてくれてます。と、マーこんな組織になる
のですが、それにしても部下7000人の管理は大変そうですね。

 薬師如来の脇侍の日光・月光菩薩も調べてみます。
日光菩薩:千の光明を発して生や苦の闇をなくすとされる太陽の象徴とされています。
       日光菩薩の持ち物は、蓮弁の上に太陽を模した日輪の円の中に、よく三足カラスが描かれています。
       立つ位置は薬師如来の左手側になります。
月光菩薩:月の光の象徴になります。
       月光菩薩の持ち物は、蓮の上に月を模した月輪の中にウサギが描かれています。
       立つ位置は薬師如来の右手側になります。

 最後に今回遍路をする遠江四十九薬師霊場の49の意味でが、薬師如来は49という数字と非常に関連が深く、
人が重い病に倒れた時に薬師如来の経を49回読み、49の灯りを灯し、49の五色の彩幡を作ると助かるという
言い伝えがあります。また地獄の十王のうち49日目に亡者を裁く泰山王の本地は薬師如来であるとされています。
と、分かったような分からない説明でした。

     

 以上で薬師如来の受売りは終わりますが、次に遠江四十九薬師霊場の事を「薬師のふるさと遠江」を元に
話しておきます。
 遠江薬師霊場の開創はさだかではないが享保10年(1732)に書かれたご詠歌が残っているそうです。
享保と云うと江戸時代中期で、同じ遠江に残っている遠江33観音霊場の戦国時代に比べると100年も新しい
時代になります。この頃になると世の中も落着いてきて、人々が現世利益を求めるようになってきたのでしょうか。

 49の札所の所在地は平成の大合併後では浜松、磐田、袋井の3市になりましたが、合併以前だと浅羽町、福田町
(現袋井市)、豊田町、豊岡村(現磐田市)、天竜市(浜松市)の8市町村に分布してました。
宗派別では曹洞宗が圧倒的に多く27寺、ついで臨済宗10寺、真言宗8寺、時宗2寺、浄土宗1寺、黄檗宗1寺の
計49寺になっていました。
 霊場巡りの総距離は150km程度らしいので、1回に30km歩けば5回で結願できそうですが、私の遍路は駅から
駅が基本です。そうなると30kごとに駅が有るわけはないので上手く行って5回、タイミングが悪ければ6回になる
のではと予想しています。何しろご朱印を受ける遍路は、札所で最低でも10分以上掛かってしまうのです。
 これ以上の事は歩きながら解決する事にして、では行ってきます。
                 

駿河百地蔵(宗清寺)4

2014-03-04 12:21:37 | 寺社遍路
      駿河百地蔵(宗清寺から岩本山梅園)        歩行月日2014-2-16(日)

歩行時間:6時間35分   休憩時間:2時間30分   延時間:9時間05分
出発時間:8時00分   到着時間:17時05分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 新蒲原駅 0:15> 義経硯水跡 0:25> 宗清寺(富士川梅園) 0:25> 岩淵間の宿 0:15> 水神社
 0:10> 雁堤 0:25> 実相寺 0:25> 岩本山梅園 1:20> 曽我寺 1:15> 広見公園 0:10> 博物館
 1:30> 富士駅 
                         広美公園(実相寺)

 今回の歩きの目的は宗清寺と岩本山が主で、その先がなかなか決まらなかった。そのまま富士駅に帰るのでは
距離は15kmにもならないし、とは言え他に行くところもない。と、地図を見ていて身延線の入山瀬駅の付近に
「曽我兄弟の墓所」を見つけた。
 そうだ塩の道を歩いているとき、掛川市原谷の長福寺に曽我兄弟の墓を見たし、駿河百地蔵では静岡市手越の
少将井神社で曽我兄弟の敵、工藤祐経の妾だった手越の少将を祀ってある神社にも寄った。これは何か縁がある。
ではここの曽我兄弟の墓もお詣りしておこう。そこから先は無計画の計画だ。

 岩本山から大きな老人ホ-ムの横を通る。ここからは富士山や愛鷹連峰、天守山地などが良く見え、余生を
送るのには良い環境のようだ。しかし登れもしない山を毎日眺めるのも辛いものがあるかもしれない。逆に
街中の施設の方が諦めがついていいのかも。尤も私にはそのどちらも入る余裕はないが。
 そんなくだらない事を考えていたので道を一本通り過ぎてしまったようだ。茶畑の中の道が続き、聞く人も
いない。仕方なく道なりに北に向かって歩いて行くと、リュックを背負った10人ほどに出会った。それでやっと
入山瀬駅に向かう道が判明した。尤も曽我兄弟の墓は分からなかったが。
 教えて貰った道は武田の軍師、山本勘助が子供のころ歩いた「勘助坂」だった。この勘助坂は駿河一国33観音
で歩いた事があったので、道の入口を見てすぐ分かった。別段何があるという訳けでもない坂道だが、途中から
見える富士山や愛鷹連峰の眺めはよかった。
それにしても新東名を走っている車が少ない。特に下り線は1台しか走っていなかった。

 
          勘助坂から天守山地                       勘助坂から新東名と愛鷹連峰

 勘助坂を下って潤井川を渡ると入山瀬の町に入る。途中にあった石仏は双体の道祖神だろう。この辺りは
甲斐の国の影響もあるのか双体の石仏を時々見かける。
 身延線入山瀬駅のホームから富士山が正面に見えていた。駅名表示の先に見える富士山の山肌は依然
雪煙が舞い上がっているのが見えていた。
 
 
              双体の道祖神                      入山瀬駅ホームと富士山

 曽我兄弟の墓所のある曽我寺は駅から近く、入口には寺の看板もあり容易に分かった。
入口の案内板を紹介すると
「曽我兄弟は(十郎・五郎)は建久4年(1193)5月28日夜、富士宮白糸ノ滝の近くで親の仇 工藤祐経を討ち
取っている。兄弟の父が祐経の手下に闇討ちされから18年目に成しとげた仇討だった。
 兄十郎はその場で討たれ、弟五郎は捕えられ鎌倉に護送中 ここより北方500mの地で祐経の子に首を
刎ねられた。首洗井戸はそのすぐ南にあり、遺骸はここに葬られたと伝えられている。」

何々それなら生き残った弟の五郎は、祐経の子供に親の敵として討たれてしまったのか。

 曽我兄弟の墓は関東から九州にかけて14ヵ所もあるらしいが、数が多いのは子供が親の仇討をしたという事で
人気があるからなのだろう。しかし同じく親の敵を討った工藤祐経の子はどうなのか、調べてみると案内板とは
若干イメージが違う説明があった。
「工藤祐経の子 伊東祐時は、曾我兄弟の仇討ちで父祐経が兄弟に討たれたが、五郎の助命の動きもあった
ため泣いて訴えた事により、五郎の身柄は祐経の一族に引き渡されて処刑された。」

五郎は祐経一族に引き渡された後で祐経に首を刎ねられたかもしれないが、案内板のではあたかも祐経が護送中
祐経が五郎を襲って首を刎ねたように読めてしまう。

 
               曽我兄弟の墓                     曽我兄弟のモニュメント

 曽我寺の境内に「曽我兄弟遺跡案内図」があり、この近くにある兄弟の遺跡7ヶ所を案内してある。
その内の曽我八幡宮・五郎首洗い井戸・工藤祐経の墓・虎御前の腰掛岩の5ヶ所を見に行く事にした。

 最初に行ったのが曽我八幡宮。案内板には「曽我兄弟が仇討を遂げた4年後、頼朝の命により創建した。」
とあるだけ、境内には大きな溶岩の上に幼い曽我兄弟のモニュメントがのっていた。
 境内にあった石仏を良く見ると、あちこちに気泡の穴が開いている。どうやら溶岩のようだ。今日は富士川の
水神社でも溶岩の常夜燈を見たが、石仏も地産地消がおこなわれていたのだ。
しかし常夜灯もそうだったが、ここの石仏も余り細い細工は施されていない。きっと溶岩の細工は難しいのだろう。

              
         曽我八幡宮の曽我兄弟の像                  溶岩の石仏

 次の五郎首洗い井戸は八幡宮から左程離れていない川の畔にあった。井戸といっても今は小さな窪地がある
だけで見るべきものは無い。そこに建つ案内板には「曽我兄弟は親の敵の工藤祐経を討ち本願を果たした。
兄十郎はその場で殺されたが、弟五郎は捕えられ鎌倉に送られることになった。
 護送の武士に連れられて五郎がこの地まで来たところ、祐経の子が「親の敵として五郎を討たせてほしい」
訴えたため、首を切らせてこの井戸で首を洗ったと伝えられている。
 今では水も涸れて昔の面影はないが言い伝えによれば当時はきれいな水が湧きだしており、五郎の首を
洗った際、井戸の水が赤く染まったと云われている。」

 矢張り祐経は首を切らせて貰ったのだ。ここの説明は分かり易かった。それにしてもこんな岩の間の窪地に
水が湧いていたのだろうか? 井戸というより水路の畔の水溜りといった風情だった。
その井戸に立つと水の流れる音が聞こえてきた。そう井戸の先には水の流れている川があり覗き込んでみると
岩礁の川床で渓谷の風情がある川だった。これならわざわざ首洗い井戸などとしないで「血洗川」とか「首洗床」
などにした方が雰囲気が出そうな感じがする。
血洗川を聞いた事があるって? そうでしょうこの血洗川は掛川にある平将門の首を洗った川の名前です。

 
              五郎の首洗い井戸                   首洗い井戸の後ろの川

 次に探したのは工藤祐経の墓だったが見つからない。途中で一度で地元の人に場所を聞いたが知らないと
云われてしまった。仕方ないそれでは次の工藤祐経の愛人虎御前の腰掛岩に行ってみよう、といってももう道は
分からない適当に歩くしかない。
 神社があった。名前は「玉渡(たまわたり)神社」と書いてある。そうだこの神社は曽我兄弟の遺跡案内図に
書かれていた神社だ。ラッキー!
「伝説によれば曽我十郎の恋人虎御前が兄弟の供養のため、兄弟終焉の地 井出の里に行こうとした際、ここに
あった祠で一夜を過ごした。夜中にフト目を覚ました虎御前が在りし日の兄弟を思い出し涙を流していたところ、
曽我寺の辺りから二つの火の玉がふわりふわりと飛んできて虎御前の前まで来ると消えてしまった。
虎御前は兄弟の霊魂を慰めるため、その夜より七日七晩この祠で念仏を唱え冥福を祈った。地元厚原の人々は
若く美しい虎御前が兄弟の冥福を祈るけなげな姿に感じて、虎御前の死後玉渡神社を建立し霊を祀った。」


 なんとけなげな虎御前なのだ。このような女性に慕われる十郎もきっと男らしい正義感に富んだ人物だったと
想像できる。一方敵役の工藤祐経にも心優しい恋人がいた。先程も少しふれたが安倍川の畔手越の里の出身の
手越の少将という女性だ。この女性も虎御前と同様に曽我兄弟の仇討により数奇な運命を辿っている。
「出身地の地名から手越の少将と名乗って白拍子になった少将は、工藤祐経の目にとまり愛人となった。
だが祐経が曾我兄弟に討たれると「生死無常のはかなさ」を感じて出家をする。」
ここまではよくある話だが
ここから先が変わっている。「出家した手越の少将は虎御前と共に信州善光寺にお詣りをする。」その後は
「虎御前と共に大磯の高麗寺に入る。70歳ほどで他界した。」とある。
本来敵同志だった愛人を持つ二人が、一緒に寺参りしたり、同じ寺でお互いが敵になる愛人の菩提を弔うなど
中々できる事ではない。このような女性に慕われた十郎も祐経もひとかどの人物だったと思われる。特に祐経は
曽我兄弟の敵役として悪く思われているが、実像はどうだったのだろう。

 境内にまたもや双体の石仏があった。だが今度の石仏をよく見ると坊主頭だ。これでは神様でなく仏様だ。
なら双体道祖神ではなく双体地蔵なのか?双体地蔵など聞いた事がなかったが調べてみるとある事はあるようだ。
ならばこの石仏は双体地蔵にしておこう。

 玉渡神社からほどない道端にまた双体の石仏があった。今度の石仏も摩耗が激しく明確ではないが、坊主頭
ではない事は確かだ。頭には頭巾のような物を被っている。それならこの石仏は双体道祖神としておこう。

 
              双体地蔵?                        双体道祖神?

 次の虎御前の腰掛岩を探しながら歩いていると富士方面に向かう太い道になってしまった。仕方ないこの道を
下って行こう。(後で地図で見たらこの道は国道139号線だった)さてここから先はどうしよう。このまま富士駅に
出るか、それとも吉原駅に出るか。
まだ時間は2時になったばかりで余裕はある。そんな時に東名のガードになった。そうだ東名の富士インタ近くに
富士市の博物館があったはずだ。そこで今日寄って来た富士川の渡しや雁堤の復習をして帰ろう。と急遽方向を
変えて東名の側道を東に向かった。
 途中一度道を聞いただけで無事博物館のある広美公園に到着。この広美公園は大きな公園で公園の中には
「ふるさと歴史ゾーン」があって富士市の古い家屋を移転展示してあった。

 
           ふるさと歴史ゾーンの案内板                     友好の像

稲垣家住宅:富士市に現存する最古の民家。屋根の形が兜に似ている事から「兜造」と云われる。
  兜造は養蚕を行うため両妻面に窓を開け通風と採光を図っている。

杉浦医院:大正時代に建てられた建物で、一見すると洋風の建物だが、2階は和室になっている。

 
                稲垣家住宅                        杉浦医院

眺峰館:3階建で正八角形、避雷針付きのハイカラな建物は料理屋の玄関だった。3階からは富士山の眺めが
  とても良かったため「眺峰館」と呼ばれ親しまれた。

東平遺跡竪穴住居:東平遺跡は東名富士IC南側で営まれた奈良・平安時代の大集落跡で、このような建物跡が
  400棟以上も発見されている。この東平遺跡は当時の富士郡の役所と係りのある遺跡と考えられている。

          
                眺峰館                      東平遺跡竪穴住居

 建物展示が終った博物館の近くに「春耕道しるべ」が建っていた。
これは地元の農民、仁藤春耕が明治39年から5年間をかけて自費で建てた道しるべで、根方街道から十里木を
経て御殿場方面に向かう道に百数十基建てたという。
そう云えば海から富士山に登るとき4基か5基これを見た気がする。でも江戸時代なら兎も角明治になってから
何故こんなに多くの道しるべを建てたのだろう。この道しるべに従って歩いてみれば、何かが分かるかもな。
アッ!今思い出した。駿河百地蔵や東海道を歩いているときJR東田子の浦の昭和放水路近くで、この道標の
1号を見た覚えがある。早速写真を探してみると有りました。道標には「須津村役場一里 吉永村役場三十一町」
とあり、近くの案内杭に「春耕道しるべ第一号」となっていた。

 他にも「一字一石経王塔」の石碑があり、これは経典を長く保存しようという考えのもとに、石に一字ずつ経典を
書写して経塚に埋納し、その上に石塔を建てたのです。江戸時代には庶民の間で盛んに行われていたという。

 博物館に入館料100円を払って入った。これは私としては珍しい事で、ケチと先を急ぎたい気持ちが強く有料の
施設には殆ど入らない。ここでは富士川の渡しと雁堤の復習をと思ったが、そのどちらの展示も見当たらなかった。
替りに目に付いたのが村山古道の展示だった。鈴川海岸から富士塚を経て村山浅間神社に向かい、そこから村山
古道を歩き富士宮6合、山頂と続くコースを地図と写真で説明してあった。

 私が歩く海から富士山は、同じ海岸を出発し富士塚にお詣りするまでは同じだが、そこですぐに右左に分かれて
しまう。私は左(東)の道を行き、愛鷹山の裾を辿って須山口登山道で富士宮6合で合流する道だ。
5年前初めて海から富士山に挑戦する時に、この村山古道を第一優先で調べたら二つのネックがあった。
その一つは、海から歩きだし宿泊できる山小屋までを1日で歩くのは、私には無理だった。そこで途中の宿泊場所を
探したが富士宮市内でしか見つからなかった。(今は村山浅間神社近くに村山ジャンボがあります)
後一つのネックは、当時と云うか以前は村山古道について環境庁と地元と意見の違いがあり、地元で付けた道標に
対して、環境庁の撤去を促す貼紙を見た事がある。そんな影響で村山古道は整備がされてなく倒木だらけだとの
情報も入ってきた。
そんなこんなで村山古道は諦めて須山口登山道を歩くようになったのだが、こちらは倒木も無く、道は整備され
標識もある。しかも海から1日行程で富士宮6合に着く事が出来るので十分満足している。

 さて富士市の博物館ではその村山古道のルートの展示をしているが推奨しているのか-------
写真の上部にこんな表示がありました。
「現在村山口登山道のうち、国有林部分の入山は、公共的・学術目的以外では許可がおりない状況になっています。
詳細については静岡森林管理署まで問い合わせください。」
となっていた。
ウン? ということは今も登山禁止なのか? しかしネット上には何本も村山古道を歩いた記事があるし、大手
ツアー会社もツアー参加者を募集している。一体何なんだこれは! 正直者が割を食うこういうのが一番嫌いだ。
博物館の係員に質問すると「私有地や国有地ですので基本的に入れませんので自己責任になります」と言う。
だって日本の国の何処でも私有地か国有地だろう。しかも山なら自己責任は当然だ。とは言わなかったが
「黙認状態ですか?」と聞くと「いやそうではなく基本的には入れません」だって。
地元も困っているのだ。ブツブツ言うのは止めよう。


      
      春耕道しるべ             根方街道道しるべ           一字一石経王塔

 博物館に30分近くいて出たのが3時25分。距離も22㎞になった事だから近い駅に戻ろうと、富士駅に向かった。
道はもう全然わからない。だが南に下って行けば国道1号線に出るし、富士駅への道路標識もあるだろう。
で、適当に西寄りに下って行くと伝法坂交差点に富士駅に向かう標識をあった。あとは終盤モードの遅いペースで
富士駅に向かった。途中に腰の部分が細くなった石仏や、賽の神だろうか祠の中の石仏の写真を写しながら行く。
東海道に出て線路沿いの道を西に向かって行くと、イスラムのモスクの様なドームと尖塔を持った建物があった。
何だろうと考えながら行くと「曹洞宗成安寺」の石碑が建っている。どうやらこの寺の建物ようだった。
そこから数分で富士駅に到着。コンビニを探したが駅付近には見当たらない。たまたま交番の前で立哨していた
お巡りさんが私の方を見ていたので「この近くにコンビニは有りますか」と聞くと「少し離れた所になるけど
何を買うのですか」
と逆に聞き返された。「ビ-ルを買いたいですが」と正直に言うと、お巡りさんはニヤリとして
「それなら駅のキオスクにありますよ」と教えてくれた。
いい年寄りが困ったものだ。

      
     腰が締った石仏                賽の神?             イスラム風お寺

藤枝瀬戸川右岸の低山縦走2

2014-03-02 11:53:29 | 低山歩き
高尾山・笠張山・菩提山・椿山                        歩行月日2014/02/26(水)

歩行時間:8時間00分 休憩時間:1時間30分 延時間:9時間30分
出発時間:8時30分 到着時間:18時00分
歩  数: 40、312歩  GPS距離:29.5km
行程表
 蔵田大杉 1:00> 高尾山 0:45> 笠張山 1:10> 菩提山 0:40> 桧峠1:35>  不動峡 0:40>
 中山公園 2:10> 藤枝駅

   
                      椿山から(昨年撮影) 
                
                          歩行ルート2
 観歩記
 桧峠の地蔵堂には古い新聞の切り抜きが貼ってある。それから紹介すると
「桧峠は桧が多いのでついた名前で、標高441mの峠は、昔から藤枝と伊久美を結ぶ重要なルートだった。峠に
建つ地蔵堂は寛仁二年(1018)に建立したが安政の大地震で大破し、文久元年(1816)に、現在の大井川町吉永
の庄屋が寄進している。これは「吉永塩」の行商人が、この峠を越えて川根方面に入っていたことを物語っている。
江戸時代には伊久美から島田の町に出る道は無く、この峠越えが生活ルートだった。そのため藤枝の商圏は
大井川中流左岸まで広がっていて、藤枝からは米、味噌、醤油、衣類などの日用品が運ばれ、山地からは茶、杉
皮、木炭などが人に背負われて運び出されていた。
そのため大正になると川根電力索道会社が設立され、千頭までの35.2kmの索道が完成した。これにより物資を
大量かつ短時間で運ぶことができ発電所建設に貢献した。そのため島田・千頭間を走る大井川鉄道が早期に開通
する事には役立ったが、索道会社は経営が悪化し、自分の首を絞める結果になってしまった」


 峠の地蔵堂についての言い伝えも紹介されていた。
「寛仁元年(1017)に大津波があり峠の麓の滝沢まで及んだ。村人たちは桧峠まで非難した。津波が引けたあと
草むらの中でピカピカ光り、良い香りのする場所があり、掘ってみると貝殻や小石が張り付いた地蔵が出てきた。
桧峠にあった寺の僧が「小石や貝殻を天然痘を患っている子供の身につければ病気は軽くすむ」とお告げを受け
地蔵を桧峠に移してお祀りした。地蔵堂に安置されている不動明王の像は役の行者の作だと云われている」


 幾らなんでも津波が海から直線距離で12km以上もあり、しかも海抜90mもある滝沢まで来たとは思えないが、
そんな言い伝えがあったのだ。しかも津波で流されてきた仏像が役の行者の作だとは中々面白い話だ。

 
               桧峠の地蔵堂                       地蔵堂内部

 桧峠を下りだし次の目的地椿山の入口に来て気が変わった。椿山からは富士山を始め、駿河湾や今日歩いて
来た山々を見る事が出来るが、ウーン! 止めよう。折角行っても景色が見えなければ仕方がない。
さっき笠張山では 「大変でも登るとことに意味がある」 などと恰好を付けたが、ここでは「意味の無い所には
行かない」
に変わってしまった。何とも融通無碍といえばこれまた恰好付で、単なる我儘勝手な奴だ。

 桧峠からの道は一応県道だが車は殆ど通らなかった。だがその急な坂道には驚いてしまった。
これでは逆コースはとてもではなく、こんな県道の上りや笠張山の登りを考えると、私の足では逆コースは
完歩出来そうもない。
県道の傾斜が緩やかになった辺りに紅白の梅が咲いているのが見えた。近づいてみると「ヤマメの里梅園」
看板があった。そこには「紅白梅200本」とも書かれている。とてもそれ程あるとは思えないが見れば分かって
しまう現地で、誇大な事は書かないだろうから、きっと200本はあるのだろう。
                      
 
               歩くのを止めた椿山                    ヤマメの里梅園

 内心椿山を省略したことに無念感を抱いていたようで 「滝ノ谷 不動峡 ⇒」 の看板を見ると、ここに行けば
椿山のように登りは無いが距離は長くなるだろう。と寄って行く事にした。
何処にでもあるような川に沿った道を歩いていると川に太鼓橋が架かっていた。今は通行禁止になっているが
石造りの立派な太鼓橋で、対岸にもシッカリした石垣や階段が見える。何があったのか表示は無いが太鼓橋が
あるのなら神社があったのだろうか? 不動峡を観光地としたいなら、こんな物でも案内すればよいのに --------

 県道から20分で磨崖仏に着いてしまった。これでは距離が長くなったとしても往復でも4km程度に過ぎないが
椿山を経由するより長くなりそうだ。高低差では去年より劣るが距離では負けたくない。
 ここの磨崖仏は平成元年に開眼し、高さ10m巾7mあるという。案内には「不動明王の磨崖仏としては日本一の
大きさで、頭上のブロンズ像が原型である。」
と書いてある。ウッ? 頭上のブロンズ像が原型って何だ?
頭上って私の頭上か、それとも磨崖仏の頭上か、そのどちらの頭上にもブロンズ像などは有りはしない。
待てよ、磨崖仏の右下に不動明王の立像が見えるが、あれがブロンズ像なのか。それにしても頭上とは???
疲れが出ているので思考力が低下してきている。そのためこの文を理解できないのだろう。答えは次回に持越しだ。

 磨崖仏から3分も歩くと水車村の入口に着いた。水車村というからには水車が何基もあると思ったが、案内板を
見るとどうやら2基しかないようだ。1基はこの入口にある観光用に作ったものだが、今は故障をしているようだ。
これでは先に行っても多寡が知れている、ここで戻る事にしよう。

          
               太鼓橋                      不動峡磨崖仏

 朝バスで通ったゆらくや蔵田方面に行く県道と合流する所の中山公園で一服する。ここにはバス停があり
普通ならここから藤枝駅まではバスで帰るのだろうが、歩行距離はまだ19.5kmに過ぎない。もう少し頑張ろう。
中山では県道も合流するが、川もここで桧峠方面からの滝沢川と蔵田方面からの瀬戸川と合流する。
歩く道は県道と別れて瀬戸川沿いに遊歩道や交通量の少ない狭い道が始った。

 瀬戸川と滝沢川が合流する中山橋の袂に石仏を祀った祠が建っていた。そこの案内板に
紀伊国川中島小長谷八兵衛供養塔 昔は瀬戸川と滝沢川では、上流で疾病が発生すると下流でも病気が
流行した。特にこの地域ではその発生率が高く、その昔、小長谷八兵衛の薬により助けられた人々の感謝の
念が供養塔建立につながったといわれている」

 川中島八兵衛については、今までも紹介しているが簡単に説明すると
「川中島八兵衛は紀州の生まれで、元禄のころ志太(島田・藤枝・焼津)地方に訪れたが、当時、志太地方は
大井川の氾濫などで疫病が蔓延することが多く、人々は困っていた。
その時八兵衛の行動には色々の説があるようで
 1・「自分の死後に祀ってくれれば、川の氾濫を防ぎ疫病がおきないようにする」と言って集落を回った。
 2・疫病発生の折、八兵衛の薬により助けられた人々の感謝の念が供養塔建立につながった。
 3・大井川の堤防構築のとき八兵衛が人柱になった。」  
などがある。

 ここの供養塔は2、の八兵衛さんの薬によって助かったお礼の供養塔のようだ。
この八兵衛の碑が志太地方に60基もあるそうなので、その所在地を調べてHPで紹介したいと思っていた。
だが最近少し考えが変わってきて、歩きながら石碑を見つけるのはよいが、その時期を今ではなくて、もっと
歳をとった老後(?)にしたいと思いだした。若い(?)時は長距離を、年を取ったら堤防の遊歩道を、と
そんなふうに思いだした。

 次に八兵衛さんの碑があったのは寺島集落で、ここの案内には
「寺島野仏群 馬頭観音、延命地蔵、八兵衛さん、西国巡礼記念碑などを地蔵堂に集め供養している」
八兵衛さんについては簡単に名前があるだけだった。

 次の八兵衛さんは堀之内集落にあり、こん説明が書いてあった。
八兵衛さんの供養塔 今まで不明であった八兵衛さんの出身地は最近郷土史家の調査で三重県尾鷲市の
『中嶋八兵衛』ではないかと判明された。
 八兵衛さんは元禄のころ土井家五代目の八郎兵衛に認められ、回船問屋として材木や薪炭を「八郎兵衛船」
に積んで、江戸と紀州を行き来して商いを行っていた。
 江戸への途中、この地において高野山などの霊場巡りをしたときの良薬をいつも持っていて病気の人に与え
助け、人々から弘法大師の再来といわれ敬われていた。」


オヤここの案内板には八兵衛さんについて新説が書いてある。今まで八兵衛さんは、六部(ろくぶ)の巡礼の途中
当地で川の氾濫で人々が困っているのをみて援助の日々を送った。というのが一般的だったのだが、この案内板の
八兵衛さんは回船問屋の主になっている。
 案内板には丁度良く「八郎兵衛船」なる言葉があったので調べてみると、三重大学の「尾鷲回船の消長」の中に
載っていた。そこには船の名前は回船問屋の名前を使っていて、例えば土井八郎兵衛の持船なら「土井八郎兵衛船」
となり、省略して「八郎兵衛船」とも書いてあった。しかもこの土井家は大回船問屋なのか何回も船の名前が出てきた。
 案内板には八兵衛さんも回船問屋とあるので、本来なら船の名前は「小長井八兵衛船」となるのだが、その名前は
載っていなかった。

 一方八兵衛六部説は郷土史家川村辰巳さんの「川中島八兵衛見聞の記所在地一覧 」に載っている。そこには
八兵衛の出身地は和歌山県で、元禄時代に六部(ろくぶ)として志太地方に訪れて、大井川町(現焼津市)の
小長谷家の婿養子になる。そこで河川の氾濫で疫病が蔓延していて人々が困っているのをみた八兵衛は、
「自分の死後に祀ってくれれば、川の氾濫を防ぎ疫病がおきないようにする」と言って集落を回ったとある。
著者の河村さんは和歌山県でも調査をして「川中島」の根拠や、八兵衛さんの先祖の菩提寺も見つけている。

 だがこの説も私としては疑問の多い説だと感じていた。先ず元禄時代に廻ってきた六部を名字もある名家が
婿養子に迎えるだろうか。六部とは「法華経を66回書写して、一部ずつを66ヶ所の霊場に納めて歩いた巡礼者。
仏像を入れた厨子を背負って鉦を鳴らして米銭を請い歩いた者。江戸期には、六部僧の多くは乞食坊主に堕した」

だそうです。そんな乞食坊主を婿にする分けはなく、氾濫や疫病を防ぐ実績をあげた六部の八兵衛さんを婿にした
とした方が納得ができる。
 次に分からないのが八兵衛さんは「自分を祀ればを見守る」と言って石碑を建てさせたとあるが、果たして
何の実績のない六部の言うことを「ハイ分かりました」と言って金の掛かる石碑を建てるだろうか。
冊子の中にこんな事も書いてあった。「焼津市石脇城跡に祀られている八兵衛さんは薬売りの墓と伝わっている」
これを読んで私は「八兵衛さんの薬により助けられた人々の感謝の念が供養塔建立につながった」と考えた。
ただこれも六部でありながら多数の人に与える薬をどうしたのか疑問だった。若しかして八兵衛さんは薬の製法を
知っていて作りながら配ったのかと思ったが何の根拠もない。

 それがここ堀之内の案内板には八兵衛さんは回船問屋として紀州と江戸を行き来していた。とある。
今度は乞食坊主どころか船持ちのお大尽だ。それなら薬を調達する金はあるだろうが果たして回船問屋の主が
志太地方を歩き回る時間があったのだろうか。疑問だ。一度この郷土史研究家の説を聞いてみたい。

   
     中山の八兵衛さん           寺島の八兵衛さん        堀之内の八兵衛さん

 話が後先になるが寺島の八兵衛さんより前に「清酒志太泉」の酒造所がある。
志太泉は昨年度も「全国新酒鑑評会金賞」を受賞した老舗酒蔵で地酒の酒蔵として有名だ。
その酒造所の前は桜並木の堤防があり、春の桜の時季に来れば試飲をさせてくれる。なんて話は無い。

「西向地蔵尊」はあたかも泥棒が頬かむりをしたようなお地蔵さんで、何ともユーモラスだ。目や鼻などは
摩耗していて判別できなので、悪戯なのか丸い黒い小さな団栗眼が描いてある。それが余計に笑いを誘う。
余計な事を一言。方位磁石は西ではなく南西を示していた。

 西向地蔵を過ぎた場所から去年は更に清水山を越えて行ったが、ウーン! 今年は止めよう。もう大分疲れた。
この後は瀬戸川の桜トンネルを通り、旧東海道の瀬戸川の一里塚を廻って藤枝駅に戻ろう。

 
         志太泉酒造所                           西向地蔵尊

 瀬戸川の桜トンネルの桜はまだ全然ダメ。そんなのは当たり前で桜の時季はまだ一ヶ月先だ。
一里塚に5時半到着。フー! 疲れた。いつもは休憩しない場所だが一休みしてしまった。
藤枝駅には6時丁度に到着。距離は29.5km。
昨年は二山余計に越して距離は30.2kmで時間は5時40分に着いていた。悔しいが仕方ない。
ただ今年の夏の「海から富士山」まではなるべく老化を押さえたい。神様お願いします。