はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場2-3

2014-03-25 12:06:19 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         24番小林寺(白達磨)
 天林寺から24番少林寺には国道152号線の通称秋葉街道を北に向かった。この秋葉街道と言う名称もあちこちに
あるが、ようは秋葉神社方面に行く道と思えばよい。その太い味気ない道を20分も歩くと少林寺の入口に着いた。
ウワーあの先に薬師堂があるのか、と恐れをなしてしまったのは正面に見える「百段坂」の階段だった。いつもなら
得意になって登るのだが今日は何となく嫌だった。ここまでの距離はまだ17kmだが、ここで体力を使ってゴールが
最悪のケースになってしまっては困る。ここは自重しないとと思っていた。幸いあの階段の上には神社だけだと聞き
ホッとした。
 少林寺の山門の前には大きなヤシの木のようなビロウ(?)の木があった。この木は九州宮崎の青島海岸や近く
では御前崎海岸にある木だと思うが確かではない。
 葉の枝を切り落とした所には寄生樹だか宿り木だか、これまた確かではないが別の葉がビッシリ生えていた。
しかしこれだけ高くなると葉を切り落とすにはどうするのだろう。ヤシの実取のように木に登るのでは、途中にある
別の葉が邪魔になるし、クレーンを使うのでは金が掛かる。それとも葉の枝は衰えて来ると自然に落下してくるのか、
またくだらない疑問が湧く。

 境内に白い達磨が祠に入って祀られていた。祠には「南無達磨大師」とあるが謂れは分からない。達磨大師なら
中国嵩山少林寺で、壁に向かって9年も坐禅を続けたと云うがそれが縁? でも白達磨の意味が分からない。
ここは矢張り案内板が欲しいところだ。

   
           百段坂              少林寺山門              白達磨
               少林寺の地図
 本堂に祀られた薬師如来は金色の立像だが、横に立つ両菩薩と十二神将は木彫りの、どちらかと云えば
民芸風な素朴な仏像だった。中でも十二神将たちは武器も持たず武将にはととても見ない。中には驚いたのか、
真ん丸い目をしている仏像や、頬被りをしているように見える神将もある。
更にその下の段には極彩色の衣装をまとい、手には武器を持った小さな十二神将も並んでいた。

 
          位牌堂の中の薬師三尊                         薬師三尊と二十四神将

                         20番福厳寺(小粥家)
 八坂神社の裏にある福厳寺の参道には、サッパリと剪定されたサルスベリの木が並んでいた。これだけあれば
夏には多くの花が楽しめるだろう。しかし毎年これだけ選定されても夏になれば枝が伸び、百日間も長い間花を
咲かすのだから、凄く生命力のある木だ。
 本堂の入口に掲げられている「祇園林」の扁額は山岡鉄舟の書で、明治の神仏分離令で、八坂神社と福厳寺が
分離されるときに書いたと云われる。何故祇園林か、それは本家本元の八坂神社が祇園さんと呼ばれているからか。

 
            20番福厳寺参道                        「祇園林」
             福厳寺の地図
 薬師堂に入るとまず目に付くのは、薬師三尊の両側の棚に並べられている無数の地蔵たちだ。
これは徳川家康と武田信玄が戦った三方原合戦の戦死者を供養する千体地蔵とか。それにしても凄い数だ。
三方原の戦いと云えば、家康が三方原の戦場から浜松城に逃げ帰るときの逸話が残されている。
「徳川軍は三方原の戦いで武田軍に大敗。家康は命からがら逃げる途中、すっかり腹が空いてしまった。
空腹に耐えきれず家康は、近くの農家に飛び込み食べ物を求めたが、農家の老夫婦は
「今煮ているのは、粗末な粥で、とてもお侍にあげるようなものではありません」と断った。
しかし家康はそれでもいいと粥をもらい食べ終わった家康は「いずれ恩返しをする」と言い残し走り去って行った。
その後天下を取った家康は、その老夫婦を召し出し、お礼にと「小粥」(おがい)の姓を与えた。
後に小粥家は庄屋を務め家は大いに栄えた。小粥の家紋は丸に二引。これは粥を食べたとき、茶碗の上に
箸を置いた形だという。」
浜松の伝説より
 福厳寺にはその小粥家の子孫の墓があると聞いたので墓地に行ってみると、有りました。
確かに家紋は丸に二引で、名字は小粥家。話が本当か嘘かは分からないが上手くできている話だ。

 福厳寺の薬師如来は少し剥離しているが風格を感じる仏像だった。また、仏像の下の岩のような台や、三尊の
後ろには踊るような形の十二神将たちも趣がある。古い時代の仏像なのだろう。

 ご朱印を貰うとき昼飯を境内で取る許可を貰った。すると住職がポットに入ったお茶と茶碗、それにミカンを
持ってきてくれて 「寒いのでお堂でどうぞ」 と招いてくれた。
さすがそれは断ったが、お茶とミカンは有りがたく戴いた。ありがとうございました。

  
           千体地蔵                  薬師三尊                小粥家の墓

                         25番白華寺(坂上田村麻呂)
 相変わらず冷たい風が吹き荒れている。幾ら歩いていても体は温まらず、今日もトレーナーもジャンパーも
脱げないでいた。時折太陽が隠れる事もあったが雨の恐れは無さそうだ。ところがどうした事か急に辺りが暗く
なってきたか思ったら雪が落ちてきた。いや違う舞ってきた。いやこれも違う。ぶつかってきたが相応しい。
ともかく小さな雪が風に飛ばされ猛烈な勢いでぶつかってくる。風花?かもしれないが遠くから舞ってくる感じ
ではなく、上空の黒い雲から降ってくるのだから雪なのか。
 今日の降水確率は20%なので当然合羽は持ってきていない。折り畳みの傘は持っているが、こんな風の中では
さすことは出来そうもない。雪の降るのは今年初めて見るので嬉しいが、何と云っても場所が悪い。早く止む事を
願うしかない。
 それから5分後に白華寺に着く頃には雪は止んで陽が射してきた。黒い雲は無くなっていたので、あれが雪雲
だったのか。雪が降り続けば困るくせに何か惜しい気がした。

 25番白華寺(はっかじ)は朱色のお堂だった。境内の案内板を見ると
「平安初期征夷大将軍坂上田村麻呂東征のみぎり、遠江国岩田の海に赤蛇が住み、渡海の旅人に危害を加えていた。
田村麻呂将軍は住民の難渋を救うべく、遠江国小笠郡の潮海寺より薬師如来を歓請し、当地に薬師堂を建立し祈願。
佛力に依り赤蛇は将軍の子を産み、形見として将軍に預け、以後岩田の海の航行往来の安全を約し、二俣鹿島の
椎ヶ脇の渕に沈むと伝えられる。 境内には田村麻呂の子・二代将軍俊光公誕生の産湯の池があります。」

 坂上田村麻呂は日本武尊より馴染みが無いが、富士宮浅間大社を山宮から現在の場所に遷宮した人物として記憶
にある。その将軍がここでは蛇退治をして二代目の子供を産んでいたとは。
早速二代将軍俊光公を調べてみると アレーヒットするのは白華寺と浜松周辺の場所ばかりだ。
しかも将軍の子孫を調べても俊光公なる人物はいなかった。
マー当然といえば当然の話か、赤蛇は将軍とは契りも交わさず子を産んだりと、神話の域を出ないのだから。

 それでもこの辺りの昔話に何かないかと探していると「中遠昔ばなし 袖ヶ浦由来記」にこんな話が載っていた。
「遠江国岩田梅袖ヶ浦で、村人を苦しめている赤蛇の話を聞いた坂上田村麻呂は、船岡山(現浜松市)の館で赤蛇
退治の作戦を練っていた。そんなある夜、美しい女が館をたずねてきた。
 将軍はその女を館におくが、日を送るうちに女に魅せられ、いつしか情けを重ね女は身重になった。女は将軍に
「お産の最中は絶対に部屋の中を見ないでください」と言ったが、将軍は七日目になると好奇心から中を覗いて
みると、そこには大きな赤蛇が赤ん坊を真紅の舌で嘗めていた。
 驚いた将軍が中に入ると赤蛇は女の姿にもどり、自分は袖ヶ浦に住む大蛇であると打明け、赤ん坊に千珠の玉を
握らせると自分は岩田の海に姿を消した。
 それから後、赤蛇丸と名付けられた子は俊光と改名され、再びこの地を田村麻呂と訪れると、岩田の海が大荒れ
しているところに出くわした。俊光が母の形見の千珠の玉を海に投げ入れると海は静かになり、水が引くと渕に
あの赤蛇がいた。将軍父子は、いたわるように上流にある椎河脇の渕に赤蛇を移した。」

へー「部屋の中を見ないでください」なんてまるで夕鶴の一場面のようで中々面白い。白華寺の話と若干違いも
見られるがマーいいだろう。面白ついでに、両方の話に出てくる「椎ヶ脇の渕」も探してみると、天竜川の上流の
鹿島に「椎ヶ脇神社」があり、その由来書にこんな事も書いてあった。

「椎ヶ脇神社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷反賊の征伐のため下向の折、天竜川が洪水氾濫し、磐田の海と
重なって大海となった。東岸に渡ることも出来ず困っていた。その時、住民が筏を作ると将軍は大変喜ばれ、
この地で減水を祈った。これが現在の椎ヶ脇神社祭神である。」

 こちらには坂上田村麻呂が登場するが、赤蛇は出てこない。そのためか昔話というより史実と云った感じがする。

 探しついでに袖ヶ浦由来記にあった浜松の「船岡山」も探してみると、船岡山の案内板にはこんな説明が。
「坂上田村麻呂が蝦夷地で起きた反乱を平定しての帰りに、天竜川袖ヶ浦の西岸の舟岡山にしばらく滞在した。
その間に里の美女との間に子供をもうけた。だがその美女は実は袖ヶ浦に住む大蛇の化身であり、ある日その
正体を田村麻呂に見られたので、子供を残して渕に姿を消した伝説がある。」

矢張りここにも蛇の話が伝えられていた。

 赤蛇伝説はまだまだ続きがあるが今回はこれにて終了。天竜に行けばまた続きの伝説が有るかもしれないから。

         
           雪が降っているのだが                    25番白華寺
               白華寺の地図
 アラアラ赤蛇が龍に変身したのか、頭上に龍を掲げた木彫りの観音さんがいた。
昭和63年に奉納されたものだが、それならせめて龍だけでも赤くした方が面白かったのに。

 赤いと云えばおびんづるさんは何故赤いのだろう? ここのおびんづるさんは破顔一笑の好々爺の趣で中々良い。
でも何処を撫でようか、撫でなければならない所が多すぎるので全体になってしまう。マー止めておこう。

 浜松市の保存樹になっている大杉。樹齢600年とあるがそれほど古木とも大木とも思えなかった

  
       龍女菩薩               おびんづるさん              大杉

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