はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場2-2

2014-03-22 15:33:43 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         22番心造寺(西郷局)
 大厳寺を過ぎても西側は全てJR関連の土地のようで、この中に新幹線の浜松工場があるのだろうか。
太い雄踏街道を越すと道は賀茂真淵記念館に向かう急な坂になった。短いけどかなり急な坂を登りきると、
記念館の入口と別れるのだが、今日は当然寄る気は無い。だいたい賀茂真淵と云う人も、江戸時代の国学者で
万葉集の研究者、程度の知識しかないし、浜松出身の事も何となく知っている程度だ。

 時折東の方向にアクトタワーが見えるのだが、木や屋根が邪魔をして写真を写す事が出来ない。前回の遍路では
北に見えたタワーだが今回は東に見える。それが今日の終わりには南に見えるだろう。この様な目標物が有ると
自分の位置関係が分かるので歩き甲斐も増す。

 オヤ真っ赤な神社風な建物が見えてきたが、あれは一体何だ、と手持ちの地図を見るが載っていない。ただその
奥の方に鴨江寺と書いてある。若しかして?と思い近づいてみると鴨江観音だった。地図上では歩く道と鴨江寺の
卍マークは離れているが、これは鴨江寺が広い境内を有しているからで、実際は歩く道とは隣接していた。
鴨江寺は前回紹介した比叡山の僧兵と騒動を起こした事もあり、一度寄ってみたいと思っていたが、想像していた
真言宗鴨江寺と、今見ている鴨江寺とは大きな隔たりを感じた。それでも赤い山門を潜り境内に入ると、またもや
赤い大きな建物がある。これでこの寺への興味は半減してしまい早々に境内から出てしまった。

 私の親は家の近くの寺の墓地を購入したため、宗派を変えるくらいの無信心者だった。その子供の私も推して
知るべき程度だが、それでもスタンプラリー感覚の四国遍路をしたせいか、真言宗には親しみを持っている。
今も静岡県内の霊場巡りをしていて、山奥で真言宗の寺に出合うと好感を感じる。
 だが四国のお礼回りで訪ねた高野山で、大旅館のような立派なお寺の宿坊を見てガッカリしてしまった。最近も
高野山真言宗で投資による損失が問題になったり、朝鮮総連の建物を真言宗寺院の住職が落札したが不調に
なった問題も発生している。どうも真言宗は金持の観光寺と、貧乏な山寺がハッキリ分かれているのではないか。
そしてこの鴨江寺は金持の観光寺だ。と勝手な想像をしてしまった。

        
             鴨江寺成田山不動堂                アクトタワーが東に見えた

 22番心造寺は大きな五社神社の隣にあった。両側の建物が接近した狭い入口の奥に赤い山門が見えていた。
薬師霊場の看板は、1番で見た金属製の横書きの物は時々しか見なかったが、白地に縦書きの大きな看板は
大概の札所にあった。どちらの看板にしろ、それと赤い幟を見ると札所に着いたとホッとする。

 心造寺の開基は徳川秀忠の生母の西郷局で、寺の正式名称は「先照山西郷院心造寺」だという。
そして西郷局の戒名は「心造寺殿松誉貞寿大姉」となっていた。
しかし西郷局の墓は駿河百地蔵で寄った静岡市の宝台院にあり、宝台院のHPには戒名は「宝台院殿一品大夫人」
となっている。また「徳川将軍家墓碑総覧」には、当初「龍泉院殿松誉貞樹大姉」と贈諡され、その後息子秀忠が
二代将軍になったので、従一位の「宝台院殿松誉貞樹大姉」と改諡号されたとあった。

 さてさてどれが正しいやら門外漢の私には判断がつかないが、素人目には墓碑総覧の説が正しそうに思える。
しかし菩提寺の宝台院のHPが間違っているとは思えないし-------
たしか宝台院に寄ったとき見た西郷の局の墓には、戒名などは彫られてなかったと思う。

 本堂に祀られている薬師三尊をお詣りする。ここの薬師如来は小振りな立像だったが、それより気になったのは
三尊を祀る台に彫られていた丸に十の字の紋だった。この寺は薩摩に縁があるのか ---------

 
             22番心造寺                            心造寺の薬師三尊
               心造寺の地図
 心造寺の境内の横は切通しになった道を挟んで五社神社の社が見えていた。中々大きな神社で寺に寄る前に
見てきた神社の由緒書には「天正7年4月7日徳川秀忠公浜松城内にて誕生、産土神として崇敬し、社殿建立す。
大正3年国宝建造物に指定されるも、昭和20年戦災に依り焼失せり。」

静岡市もそうだが浜松市も戦災により街中は焼失してしまったようだ。

 心造寺の裏には名園があると案内されていたので、回ってみたが高い塀の扉は閉められていて中を覗く事は
出来なかった。代りに目に付いたのが宝珠を捧げ持つ地蔵さん。では穴地蔵かと思ったが、地蔵の他にも狐が
何匹かいる。お稲荷さん? かもしれないな。

 
              隣の五社神社                          穴地蔵?穴稲荷?

                         21番宗源寺(迷い道)

 心造寺の前の道を北に行くと太い道に合流した。その右側をみると大きな道路標識に天竜と方面とある。今日の
最終予定は天竜なので深く考えずに右の道を下る。更に少し下ると連雀交差点に出て天竜方面の左に曲がる。
この連雀の交差点は旧東海道の時に通っていて、その時はこの交差点を東から来て南に曲がったが、今日は
西から来て北に曲がった。賑やかな通りをキョロキョロしながら歩くと「浜松城大手門跡」の案内板もあった。
次の市役所前交差点に付近の案内図が建っていたので次の行先を探してみた。だがおかしい。心造寺を出る時
次の目印は開誠館高校と思ったのに、この付近や前方に開誠館高校は載っていなかった。そして手持ちの地図には
連雀も市役所前の交差点は無かった。ウーンまたもややってしまった。仕方ない最初に出合った太い道まで戻ろう。
 最初の交差点の紺屋町に戻り手持ちの地図を方角を合わせて置いてみる。アーアさっきは天竜の案内に誘われて
右に曲がったが開成高校は反対の左側方面だった。今日は朝一番い間違ったので注意をしようと思ったのに、又もや
やってしまった。今回の間違いは往復で1km程度で済んだのが救いだったが以後注意しよう。

 姫街道と表示があるこの道は、東海道の脇街道で浜名湖を迂回して三河の御油宿に通じる街道だ。
以前姫街道は磐田の見附宿から御油宿まで歩いたが、この浜松からの道は三方原の追分で見付からの姫街道に
合流している道で、云わば姫街道に通じる街道と言った感じの道だ。この道の行先は標識には引佐方面とあるが、
引佐も天竜も浜松の北にあり、まさか道が正反対に別れるとは思わなかった。

 姫街道を歩き出すと右側に変わったデザインのキリスト教教会が見えてきた。後には時計台も見えている。一応
写真を写して先に進むと、何と教会の隣は結婚式場の出雲殿だった。するとあの十字架の建物は結婚式場なのか。
産まれた時は神社に宮参りをし、結婚式は教会で、そして死んだときは寺でやる。私の宗教観もそうだが、日本人
全体の宗教観も少々狂っているようだ。

 姫街道と別れ、台地を下った所にある21番宗源寺は、木に覆われた参道の奥にあった。

        
           教会?式場?                      21番宗源寺参道
               宗源寺の地図
 宗源寺の境内の中には動物の顔を模した幼稚園のバスが2台も停まっていて、その横に赤い幟の並ぶ薬師堂が
ある。まず観音堂をお詣りして中を覗きこむと、赤い提灯が幾つもぶら下がっていて、中央にある5個の提灯には
「開運不動明王」
と書かれていた。その横は「南無弘法大師」とあり、一番外側の2個が「南無薬師如来」となっていた。
どうやらこの寺での薬師如来の地位は低いようだ。

 
              薬師堂?                       薬師堂内部

                         23番天林寺(十三哲)

 宗源寺の横にあった幼稚園は蜆塚幼稚園で、この辺りの地名は蜆塚。蜆塚遺跡の標識もあると云うことは、
あの悪名高かった佐鳴湖が近くにあると云うことか。佐鳴湖は何年か前までは汚染度全国ワースト1で有名に
なったが、最近では聞かなくなったので汚染は改善されたのだろうか。
マー何れにしろ遺跡も佐鳴湖も今日は行く気は湧かない。

 宗源寺から23番天林寺へは住宅地の中の細い道を辿って行った。途中西来寺や普門寺などの横を通るが、
藪だけで寺の建物は見えない。けれど随分広い境内のように思える。
住宅地の中の道が急に車が通れない道になった。本当にこの道だろうか心配しながら進むと、下には舗装路が
見えている。マーいいか、と狭い道を下って舗装路に降りると、そこはインターロッキングが敷かれた道だった。
遊歩道?かもしれないが少し行った先はトンネルになっている。その横には階段もあり上にも建物が見えていた。
地図は近くに浜松文芸館があるとだけ分かるが、階段やトンネルの表示は無い。ここでもマーいいか、でトンネル
を潜ってみた。トンネルの出口に「懐かしの奥山線」とあり軽便の写真が飾られていた。どうやらこの道は浜松
から引佐奥山を走っていた軽便鉄道の跡地なのだろう。
トンネルを抜けた先に浜松文芸館の標識があり、ここからホテルコンコルド、浜松消防本部など目標になる建物が
あり天林寺には容易に着いた。

 
             この道で大丈夫だろうか?                    奥山軽便鉄道跡

 イヤー!これは大きなお寺だ。天林寺のある高台に登りビックリした。山門は入母屋造りの楼門で、この様に
大きな山門は静岡県内では初めて見た。HPを見ると山門と本堂は市内随一とあるが、文化財の事は書いてない。
これは古い建物の一切が昭和20年の戦災により全焼してしまったからだった。
 天林寺のHPを見ると天林寺も宗源寺も曹洞宗で、途中にあった普門寺の門弟十三哲が開創の寺だった。
そう云えば中部地方には榛原に曹洞宗の石雲院があり、その寺の高弟七哲が全国に800の末寺を開いたと云う。
静岡県に曹洞宗が多いのは、この様に優秀な僧が多かったからなのだろう。

 
             天林寺山門                     23番天林寺
               天林寺の地図

 広い本堂の左側に薬師如来は安置されていて、その左には花山観音と弘法大師、右には手引観音なる仏像が
お祀りされている。厨子に入った座像の薬師如来と、厨子の扉に半分隠れれるように日光・月光菩薩がある。
何回も書いて申し訳ないが、曹洞宗のお寺になぜ他宗の教祖の像があるのか。このようにお祀りすということは
その人の教えを信じる、ということにならないのだろうか。どうも理解できない。
因みに弘法大師は「浜名湖岸 新四国八十八ヶ所 第五十番」、手引観音には「第二十七番 浜松手引観音」とあり
薬師如来には勿論「遠江四十九薬師霊場 第二十三番 真徳山天林寺」とあった。

   
        花山観音                 薬師如来                弘法大師