はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵(宗清寺)4

2014-03-04 12:21:37 | 寺社遍路
      駿河百地蔵(宗清寺から岩本山梅園)        歩行月日2014-2-16(日)

歩行時間:6時間35分   休憩時間:2時間30分   延時間:9時間05分
出発時間:8時00分   到着時間:17時05分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 新蒲原駅 0:15> 義経硯水跡 0:25> 宗清寺(富士川梅園) 0:25> 岩淵間の宿 0:15> 水神社
 0:10> 雁堤 0:25> 実相寺 0:25> 岩本山梅園 1:20> 曽我寺 1:15> 広見公園 0:10> 博物館
 1:30> 富士駅 
                         広美公園(実相寺)

 今回の歩きの目的は宗清寺と岩本山が主で、その先がなかなか決まらなかった。そのまま富士駅に帰るのでは
距離は15kmにもならないし、とは言え他に行くところもない。と、地図を見ていて身延線の入山瀬駅の付近に
「曽我兄弟の墓所」を見つけた。
 そうだ塩の道を歩いているとき、掛川市原谷の長福寺に曽我兄弟の墓を見たし、駿河百地蔵では静岡市手越の
少将井神社で曽我兄弟の敵、工藤祐経の妾だった手越の少将を祀ってある神社にも寄った。これは何か縁がある。
ではここの曽我兄弟の墓もお詣りしておこう。そこから先は無計画の計画だ。

 岩本山から大きな老人ホ-ムの横を通る。ここからは富士山や愛鷹連峰、天守山地などが良く見え、余生を
送るのには良い環境のようだ。しかし登れもしない山を毎日眺めるのも辛いものがあるかもしれない。逆に
街中の施設の方が諦めがついていいのかも。尤も私にはそのどちらも入る余裕はないが。
 そんなくだらない事を考えていたので道を一本通り過ぎてしまったようだ。茶畑の中の道が続き、聞く人も
いない。仕方なく道なりに北に向かって歩いて行くと、リュックを背負った10人ほどに出会った。それでやっと
入山瀬駅に向かう道が判明した。尤も曽我兄弟の墓は分からなかったが。
 教えて貰った道は武田の軍師、山本勘助が子供のころ歩いた「勘助坂」だった。この勘助坂は駿河一国33観音
で歩いた事があったので、道の入口を見てすぐ分かった。別段何があるという訳けでもない坂道だが、途中から
見える富士山や愛鷹連峰の眺めはよかった。
それにしても新東名を走っている車が少ない。特に下り線は1台しか走っていなかった。

 
          勘助坂から天守山地                       勘助坂から新東名と愛鷹連峰

 勘助坂を下って潤井川を渡ると入山瀬の町に入る。途中にあった石仏は双体の道祖神だろう。この辺りは
甲斐の国の影響もあるのか双体の石仏を時々見かける。
 身延線入山瀬駅のホームから富士山が正面に見えていた。駅名表示の先に見える富士山の山肌は依然
雪煙が舞い上がっているのが見えていた。
 
 
              双体の道祖神                      入山瀬駅ホームと富士山

 曽我兄弟の墓所のある曽我寺は駅から近く、入口には寺の看板もあり容易に分かった。
入口の案内板を紹介すると
「曽我兄弟は(十郎・五郎)は建久4年(1193)5月28日夜、富士宮白糸ノ滝の近くで親の仇 工藤祐経を討ち
取っている。兄弟の父が祐経の手下に闇討ちされから18年目に成しとげた仇討だった。
 兄十郎はその場で討たれ、弟五郎は捕えられ鎌倉に護送中 ここより北方500mの地で祐経の子に首を
刎ねられた。首洗井戸はそのすぐ南にあり、遺骸はここに葬られたと伝えられている。」

何々それなら生き残った弟の五郎は、祐経の子供に親の敵として討たれてしまったのか。

 曽我兄弟の墓は関東から九州にかけて14ヵ所もあるらしいが、数が多いのは子供が親の仇討をしたという事で
人気があるからなのだろう。しかし同じく親の敵を討った工藤祐経の子はどうなのか、調べてみると案内板とは
若干イメージが違う説明があった。
「工藤祐経の子 伊東祐時は、曾我兄弟の仇討ちで父祐経が兄弟に討たれたが、五郎の助命の動きもあった
ため泣いて訴えた事により、五郎の身柄は祐経の一族に引き渡されて処刑された。」

五郎は祐経一族に引き渡された後で祐経に首を刎ねられたかもしれないが、案内板のではあたかも祐経が護送中
祐経が五郎を襲って首を刎ねたように読めてしまう。

 
               曽我兄弟の墓                     曽我兄弟のモニュメント

 曽我寺の境内に「曽我兄弟遺跡案内図」があり、この近くにある兄弟の遺跡7ヶ所を案内してある。
その内の曽我八幡宮・五郎首洗い井戸・工藤祐経の墓・虎御前の腰掛岩の5ヶ所を見に行く事にした。

 最初に行ったのが曽我八幡宮。案内板には「曽我兄弟が仇討を遂げた4年後、頼朝の命により創建した。」
とあるだけ、境内には大きな溶岩の上に幼い曽我兄弟のモニュメントがのっていた。
 境内にあった石仏を良く見ると、あちこちに気泡の穴が開いている。どうやら溶岩のようだ。今日は富士川の
水神社でも溶岩の常夜燈を見たが、石仏も地産地消がおこなわれていたのだ。
しかし常夜灯もそうだったが、ここの石仏も余り細い細工は施されていない。きっと溶岩の細工は難しいのだろう。

              
         曽我八幡宮の曽我兄弟の像                  溶岩の石仏

 次の五郎首洗い井戸は八幡宮から左程離れていない川の畔にあった。井戸といっても今は小さな窪地がある
だけで見るべきものは無い。そこに建つ案内板には「曽我兄弟は親の敵の工藤祐経を討ち本願を果たした。
兄十郎はその場で殺されたが、弟五郎は捕えられ鎌倉に送られることになった。
 護送の武士に連れられて五郎がこの地まで来たところ、祐経の子が「親の敵として五郎を討たせてほしい」
訴えたため、首を切らせてこの井戸で首を洗ったと伝えられている。
 今では水も涸れて昔の面影はないが言い伝えによれば当時はきれいな水が湧きだしており、五郎の首を
洗った際、井戸の水が赤く染まったと云われている。」

 矢張り祐経は首を切らせて貰ったのだ。ここの説明は分かり易かった。それにしてもこんな岩の間の窪地に
水が湧いていたのだろうか? 井戸というより水路の畔の水溜りといった風情だった。
その井戸に立つと水の流れる音が聞こえてきた。そう井戸の先には水の流れている川があり覗き込んでみると
岩礁の川床で渓谷の風情がある川だった。これならわざわざ首洗い井戸などとしないで「血洗川」とか「首洗床」
などにした方が雰囲気が出そうな感じがする。
血洗川を聞いた事があるって? そうでしょうこの血洗川は掛川にある平将門の首を洗った川の名前です。

 
              五郎の首洗い井戸                   首洗い井戸の後ろの川

 次に探したのは工藤祐経の墓だったが見つからない。途中で一度で地元の人に場所を聞いたが知らないと
云われてしまった。仕方ないそれでは次の工藤祐経の愛人虎御前の腰掛岩に行ってみよう、といってももう道は
分からない適当に歩くしかない。
 神社があった。名前は「玉渡(たまわたり)神社」と書いてある。そうだこの神社は曽我兄弟の遺跡案内図に
書かれていた神社だ。ラッキー!
「伝説によれば曽我十郎の恋人虎御前が兄弟の供養のため、兄弟終焉の地 井出の里に行こうとした際、ここに
あった祠で一夜を過ごした。夜中にフト目を覚ました虎御前が在りし日の兄弟を思い出し涙を流していたところ、
曽我寺の辺りから二つの火の玉がふわりふわりと飛んできて虎御前の前まで来ると消えてしまった。
虎御前は兄弟の霊魂を慰めるため、その夜より七日七晩この祠で念仏を唱え冥福を祈った。地元厚原の人々は
若く美しい虎御前が兄弟の冥福を祈るけなげな姿に感じて、虎御前の死後玉渡神社を建立し霊を祀った。」


 なんとけなげな虎御前なのだ。このような女性に慕われる十郎もきっと男らしい正義感に富んだ人物だったと
想像できる。一方敵役の工藤祐経にも心優しい恋人がいた。先程も少しふれたが安倍川の畔手越の里の出身の
手越の少将という女性だ。この女性も虎御前と同様に曽我兄弟の仇討により数奇な運命を辿っている。
「出身地の地名から手越の少将と名乗って白拍子になった少将は、工藤祐経の目にとまり愛人となった。
だが祐経が曾我兄弟に討たれると「生死無常のはかなさ」を感じて出家をする。」
ここまではよくある話だが
ここから先が変わっている。「出家した手越の少将は虎御前と共に信州善光寺にお詣りをする。」その後は
「虎御前と共に大磯の高麗寺に入る。70歳ほどで他界した。」とある。
本来敵同志だった愛人を持つ二人が、一緒に寺参りしたり、同じ寺でお互いが敵になる愛人の菩提を弔うなど
中々できる事ではない。このような女性に慕われた十郎も祐経もひとかどの人物だったと思われる。特に祐経は
曽我兄弟の敵役として悪く思われているが、実像はどうだったのだろう。

 境内にまたもや双体の石仏があった。だが今度の石仏をよく見ると坊主頭だ。これでは神様でなく仏様だ。
なら双体道祖神ではなく双体地蔵なのか?双体地蔵など聞いた事がなかったが調べてみるとある事はあるようだ。
ならばこの石仏は双体地蔵にしておこう。

 玉渡神社からほどない道端にまた双体の石仏があった。今度の石仏も摩耗が激しく明確ではないが、坊主頭
ではない事は確かだ。頭には頭巾のような物を被っている。それならこの石仏は双体道祖神としておこう。

 
              双体地蔵?                        双体道祖神?

 次の虎御前の腰掛岩を探しながら歩いていると富士方面に向かう太い道になってしまった。仕方ないこの道を
下って行こう。(後で地図で見たらこの道は国道139号線だった)さてここから先はどうしよう。このまま富士駅に
出るか、それとも吉原駅に出るか。
まだ時間は2時になったばかりで余裕はある。そんな時に東名のガードになった。そうだ東名の富士インタ近くに
富士市の博物館があったはずだ。そこで今日寄って来た富士川の渡しや雁堤の復習をして帰ろう。と急遽方向を
変えて東名の側道を東に向かった。
 途中一度道を聞いただけで無事博物館のある広美公園に到着。この広美公園は大きな公園で公園の中には
「ふるさと歴史ゾーン」があって富士市の古い家屋を移転展示してあった。

 
           ふるさと歴史ゾーンの案内板                     友好の像

稲垣家住宅:富士市に現存する最古の民家。屋根の形が兜に似ている事から「兜造」と云われる。
  兜造は養蚕を行うため両妻面に窓を開け通風と採光を図っている。

杉浦医院:大正時代に建てられた建物で、一見すると洋風の建物だが、2階は和室になっている。

 
                稲垣家住宅                        杉浦医院

眺峰館:3階建で正八角形、避雷針付きのハイカラな建物は料理屋の玄関だった。3階からは富士山の眺めが
  とても良かったため「眺峰館」と呼ばれ親しまれた。

東平遺跡竪穴住居:東平遺跡は東名富士IC南側で営まれた奈良・平安時代の大集落跡で、このような建物跡が
  400棟以上も発見されている。この東平遺跡は当時の富士郡の役所と係りのある遺跡と考えられている。

          
                眺峰館                      東平遺跡竪穴住居

 建物展示が終った博物館の近くに「春耕道しるべ」が建っていた。
これは地元の農民、仁藤春耕が明治39年から5年間をかけて自費で建てた道しるべで、根方街道から十里木を
経て御殿場方面に向かう道に百数十基建てたという。
そう云えば海から富士山に登るとき4基か5基これを見た気がする。でも江戸時代なら兎も角明治になってから
何故こんなに多くの道しるべを建てたのだろう。この道しるべに従って歩いてみれば、何かが分かるかもな。
アッ!今思い出した。駿河百地蔵や東海道を歩いているときJR東田子の浦の昭和放水路近くで、この道標の
1号を見た覚えがある。早速写真を探してみると有りました。道標には「須津村役場一里 吉永村役場三十一町」
とあり、近くの案内杭に「春耕道しるべ第一号」となっていた。

 他にも「一字一石経王塔」の石碑があり、これは経典を長く保存しようという考えのもとに、石に一字ずつ経典を
書写して経塚に埋納し、その上に石塔を建てたのです。江戸時代には庶民の間で盛んに行われていたという。

 博物館に入館料100円を払って入った。これは私としては珍しい事で、ケチと先を急ぎたい気持ちが強く有料の
施設には殆ど入らない。ここでは富士川の渡しと雁堤の復習をと思ったが、そのどちらの展示も見当たらなかった。
替りに目に付いたのが村山古道の展示だった。鈴川海岸から富士塚を経て村山浅間神社に向かい、そこから村山
古道を歩き富士宮6合、山頂と続くコースを地図と写真で説明してあった。

 私が歩く海から富士山は、同じ海岸を出発し富士塚にお詣りするまでは同じだが、そこですぐに右左に分かれて
しまう。私は左(東)の道を行き、愛鷹山の裾を辿って須山口登山道で富士宮6合で合流する道だ。
5年前初めて海から富士山に挑戦する時に、この村山古道を第一優先で調べたら二つのネックがあった。
その一つは、海から歩きだし宿泊できる山小屋までを1日で歩くのは、私には無理だった。そこで途中の宿泊場所を
探したが富士宮市内でしか見つからなかった。(今は村山浅間神社近くに村山ジャンボがあります)
後一つのネックは、当時と云うか以前は村山古道について環境庁と地元と意見の違いがあり、地元で付けた道標に
対して、環境庁の撤去を促す貼紙を見た事がある。そんな影響で村山古道は整備がされてなく倒木だらけだとの
情報も入ってきた。
そんなこんなで村山古道は諦めて須山口登山道を歩くようになったのだが、こちらは倒木も無く、道は整備され
標識もある。しかも海から1日行程で富士宮6合に着く事が出来るので十分満足している。

 さて富士市の博物館ではその村山古道のルートの展示をしているが推奨しているのか-------
写真の上部にこんな表示がありました。
「現在村山口登山道のうち、国有林部分の入山は、公共的・学術目的以外では許可がおりない状況になっています。
詳細については静岡森林管理署まで問い合わせください。」
となっていた。
ウン? ということは今も登山禁止なのか? しかしネット上には何本も村山古道を歩いた記事があるし、大手
ツアー会社もツアー参加者を募集している。一体何なんだこれは! 正直者が割を食うこういうのが一番嫌いだ。
博物館の係員に質問すると「私有地や国有地ですので基本的に入れませんので自己責任になります」と言う。
だって日本の国の何処でも私有地か国有地だろう。しかも山なら自己責任は当然だ。とは言わなかったが
「黙認状態ですか?」と聞くと「いやそうではなく基本的には入れません」だって。
地元も困っているのだ。ブツブツ言うのは止めよう。


      
      春耕道しるべ             根方街道道しるべ           一字一石経王塔

 博物館に30分近くいて出たのが3時25分。距離も22㎞になった事だから近い駅に戻ろうと、富士駅に向かった。
道はもう全然わからない。だが南に下って行けば国道1号線に出るし、富士駅への道路標識もあるだろう。
で、適当に西寄りに下って行くと伝法坂交差点に富士駅に向かう標識をあった。あとは終盤モードの遅いペースで
富士駅に向かった。途中に腰の部分が細くなった石仏や、賽の神だろうか祠の中の石仏の写真を写しながら行く。
東海道に出て線路沿いの道を西に向かって行くと、イスラムのモスクの様なドームと尖塔を持った建物があった。
何だろうと考えながら行くと「曹洞宗成安寺」の石碑が建っている。どうやらこの寺の建物ようだった。
そこから数分で富士駅に到着。コンビニを探したが駅付近には見当たらない。たまたま交番の前で立哨していた
お巡りさんが私の方を見ていたので「この近くにコンビニは有りますか」と聞くと「少し離れた所になるけど
何を買うのですか」
と逆に聞き返された。「ビ-ルを買いたいですが」と正直に言うと、お巡りさんはニヤリとして
「それなら駅のキオスクにありますよ」と教えてくれた。
いい年寄りが困ったものだ。

      
     腰が締った石仏                賽の神?             イスラム風お寺