経済の活性化を図ることが、各国政府の最重要政策であることは間違いない。
日本では、民主党政権が3年半の期間において、地方経済の疲弊に対して有効な政策を打てずに、中央官僚との権限争いに終わってしまった。
自民党政権では、従来の様な中央官僚が作った政策集を、気に入った順番に予算を配分する「中央政府の施し型の公共事業」を、繰り返して行くだけである。
地方財政は軒並みに逼迫しているので、新規の事業を育成する余力もなく、県単位、市町村のレベルでは、「町おこしレベルの新事業育成」が精いっぱいだ。
日本の中央官庁の政策立案は、国家レベルでの取り組み課題においては、それなりの能力を発揮する。
例えば、日本の将来の国創りの成否を左右する『海洋国家型の新産業育成』について、海中の探査を進める「深海探査船の開発」や、「メタンハイドレード」の開発調査など、長期間に渡っての取り組み課題を進める能力がある。
また、自動車産業における【電気自動車の育成】において、「充電設備の普及促進」は、国の予算を配分して、統一規格によって先行的な投資で推進している。
この様な長期間の国家レベルでの課題を「中央官僚の政策遂行能力」に依存するのは、適切な政策であろう。
しかし、だからと言って、中央政権の選挙対策に左右される様な当面の景気対策まで、「中央官庁の役割」の範ちゅうに取り込むのが、間違っているのだ。
地域の資源を適切に利用する「地産地消型」の農業や林業分野でも、「現地の状況を把握できない東京の官庁」が、予算配分権限を持っているのが問題だ。
地域の気候や地形、周辺産業との連携によって「より高付加価値の農林業」を進める役割は、市の行政・県レベルの仕事にすべきで、さらに広域的な取組課題は、「地域連合の州政府」のレベルに権限と予算を移譲するべきである。
今の行政単位の県組織は、市町村の直接的な住民行政組織と国の間にある行政単位としては中途半端な規模で、人材的にも財政的にも、「新産業育成の遂行能力」には、不足する感は否めない。
それだから、自分たちのできる範囲だけを「知事を担いで進めている」のが現状で、それ以上のことは、「国の中央官庁頼り」の習性がついてしまった。
地域社会の経済的な疲弊を、中央政権の政策に依存するのは間違っている。
アメリカの州政府が、中央の連邦政府たよりにする様なブザマなことはしない。
日本は明治時代に分割した府県単位の行政組織を、未だに進化できないのだ!