穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

権力への意思

2022-01-17 07:40:07 | 小説みたいなもの

「すると通り魔はその陰画ということですね」
明智博士はじっと立花記者を観察していたが、「そうだね」と答えたのであった。
「梵我一如ということは自分が全能であるということだ。つまり最高権力者であるとも表現できる」。博士は注意深く葉巻を一吸した。
「ところで最高の権力とはなにかね」と問いかけた。
「さあ、総理大臣ですかね」
「ハハハ、いやまったく。即物的に言えばそれも一つの回答だがね。哲学的にというかよりソフィスティケイテッドな言い方をすると生殺与奪の権利だね。人間はだれでも人倫の制約や社会的な制裁を恐れなければ生殺与奪の権力を振るいたいんじゃないかね」
「権力への意思ですな、ニーチェ流に言えば」
「お釈迦様は人間に対して深い愛情を持っていたから、それが全人類を残らず救いたいという願望になった。通り魔は憎しみを大切に温めていたから無差別殺人になる。もし彼が核ミサイルの発射ボタンを押せたら躊躇なく押すだろうね」
「どうも解せないな」と立花は首をひねっていたが、ふと思いついて「集団自殺といえば、昔は一家心中なんてのが多かったが最近はあまりニュースにありませんね。今の話と関係があるかどうかは分からないけど」
どう説明したら頭の悪いジャーナリストにも分かるように説明できるかな、と明智博士はしばらく考えていたが、
「殺人には三種類ある。一つは利欲に原因があるものだ。物取り、押し込み強盗殺人、保険金殺人みたいなね、こういうのはマスコミの知能でもすぐ分かるから記事も書きやすいんじゃないかね」と目の前の立花を茶化すように笑った。立花も苦笑せざるを得ない。
「もう一つは非常に狭いアフィニティーグループ、典型的なのは家族だが、自分や家族が行き詰まると一家心中になる。最近これが少ないのは『家族』と言う紐帯というかアフィニティーが弱くなっているから、一家心中なんてのが古代化しているのだろう。せいぜい安マンションで暮らす若い夫婦が赤ん坊に『権力の意思』を行使する『いじめ、ドメスティックバイオレンス』が目立つくらいだ。
現代日本では個人と社会全体という二極しかない。だから梵我一如の考えは当然社会全体にむかう」
「なるほど、一応説明にはなりますね。しかし、社会全体を滅ぼすなんてことは出来ないから、出来る範囲でなるたけ派手にやろうということですかね」
博士は無言で葉巻を吸っていた。そろそろ燃えカスが落下しそうなのが心配のようであった。

立花は気が付いて「殺人にはいわゆる痴情殺人といわれるものがあるでしょう。あれはどの範疇に入りますかね」と恐る恐る聞いた。

博士は自説の欠陥を突かれたのか、不機嫌そうに葉巻の煙を立花の顔面に浴びせた。

 

 



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