穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

村上春樹プロとコン3、背後に巨大なエスニック買い集団か

2009-08-08 09:33:20 | 村上春樹

ブログを見ていて気になることがある。村上春樹賛美に一定の色が付いていることである。

臭みと言ってもいいし、ワンパターンと言ってもいい。言葉まで同じだ。

まるで巨大な集団が構成員に同じことを言わせているような印象をうける。

さて、讃美派のもっとも多く言うことは、村上春樹の例を見ないような名文のことである。私が村上春樹に感心するところがあるにしても、それは名文であるからではない。彼の文章が名文であるという見方にも同意しがたい。

第二は、比喩が卓越しているというのである。これも全く同意しがたい。比喩は多用していても決して、おもわず膝を打つようなうまい比喩ではない。この種のファンの讃美はまったく理解を超えている。

比喩の名手といえば、村上が讃美するチャンドラーである。これはまったくその通りである。しかし、村上春樹にチャンドラー級の比喩のキレがあるなどとはとても言えない。

かれの小説が優れているならもっと他の点を探すべきだろう。その一つが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる<<シャッフル>>だろう。本当のテーマを巧妙に何重にも変換し、ロックする。それでも一応の物語としての質を保つ。その技である。

しかし、何重にも変換するゆえに、それは寓話的になり、おとぎ話的になる。人物名は記号的になる。プロットが唐突になるのは避けがたい。真正迫真のリアリズムは保ちがたい。

それでも200万部の売上は達成しがたい。創価学会の池田会長が本を書くとベストセラーになる。学会員が皆書店に買いに走るからである。

200万部のコアになる集団と言えば日本ではエスニックグループぐらいだろう。あるいは被差別集団か。中核は100万かそこいらでも、あとはニュースに釣られた一般読者が食いついてくる。バーゲンセールと同じだ。あとは惰性で雪だるま式に売上はふくらむ。

おりしも、韓国では1億円を超える値段で版権が売れたそうだ。ブームのきっかけを作ったNHKも調べる必要がある。もう半島の植民地化しているという情報もある。

村上春樹はなにを恐れて、そんなに韜晦するのか。そんなライフスタイルをとるのか ??


村上春樹プロとコン2

2009-08-08 08:06:59 | 村上春樹

どういう表現だったか忘れたが、最も影響を受けた作家だったか、はフィッツジェラルド、チャンドラー、ドストエフスキーという。

影響を受けた、感銘を受けたからといって似たところがなけらばならないということはないが、ドストエフスキーと村上春樹に通底するところはありえない。長い小説、目方の重い長編を書きたいと言うあたりが村上がドストエフスキーを目標にする理由かもしれない。

彼にはチャンドラーの訳が二冊ある。なかなかいい訳だと思う。しかし、村上の創作と似ているところはない。

わずかにフィッツジェラルドと、甘苦い青春の感傷のムードが似ているといえないことはない。主人公が出所不明なところも似ている。

ほかのところで、ヴォネガットの影響を受けたと述べている。こちらのほうは見えやすい。唐突に火星人が出て花火みたいにあっという間に消えてしまうところなど。


村上春樹プロとコン

2009-08-08 07:30:46 | 村上春樹

これから何回かコンのほうを書こうかと思う。もっとも小生はきわめて中立的なつもりだが熱狂的な村上ファンにはコンととられるかなと。なにしろ村上ファンの属性データが手元にないので、まっぴら御免なすって。

村上春樹って少女小説っぽい。少女小説とはどんなものかと言われると困ってしまう。読んだことがないから。だけど世の中にはよくあるでしょう。詳しくなくても、あれってあれねー、てのが。そして大体当たっている。

この頃書店は少女小説とマンガの植民地が急速に膨張している。大型書店はとくにそうだ。表紙、背表紙くらいは目に入ってくる。村上小説のにおい(おっと香りか)はあんな感じがする。

実際若い女性の読者はむかし少女小説を読んでいたんじゃないかな。


シャッフルはいつ終わったんでしょうか

2009-08-07 20:45:49 | 村上春樹

仮説をたてましてね。別に村上春樹を読むのに仮説もいらないわけですが。

風の歌を聞け、1973年のピンボールあたりでシャッフルが終わったんでしょうか。

世界の終わり、あたりが洗い出しで、それから後が本格生産という仮説はどうでしょうか。

何をシャッフルするかって、手持ちのカードですよ。それは記憶しかありませんな。頭骨に入っているものです。夢という言葉を使う場合もあるようです。私は感心しませんが。

本格生産というのは某女にはネタの使いまわしに見えるわけです。


だんだんよくなる法華の太鼓

2009-08-07 06:25:12 | 村上春樹

村上春樹読書実況中継:

現在「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(以下「世界のおわり、」)192ページ。

前回退屈だと書いたが千野帽子さんの情報を得て、少し進んだところですが、これは法華の太鼓だね、だんだん良くなってきた。

村上作品には最初から固定ファンがいたというから、そのへんからの読者には「世界の終わり、」を受容する下地は出来ていたのだろう。それともいきなりの処女作でもあの調子でいけたのかな。ちょっとわたしにはわからないところだ。


象と一角獣のはなし

2009-08-06 20:15:53 | 村上春樹

この前のシリーズで村上春樹さんを象に例えたわけだが、べつに村上氏が偉大だとか巨大だとかいうつもりではない。一つの作品に蟻のように無数の書評家が群がり、瑣末なことをあげつらっているだけで、結局1Q84という小説の全体的つかみを読者に与えていない有様を評したまでのことである。1260円をかえせ。

さて、この「1Q84をどう読むか」の中に千野帽子さんの文章がある。二つのプロットが相互に提示されて交わることなく進行するというのは、村上氏の作品でも他にあるそうで、それが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だそうだ。

ほかにも「1973年のピンボール」や「海辺のカフカ」も同じスタイルらしい。

偶然だがこの間何となく本屋の書棚の前でカンが働いてこの「世界の終わりと、」を買ったわけ。いま最初のところをちょこっと読んだところだが、まったく退屈な文章。それに交互に関係のない話が延々と入れ替わるが、どこで二つの話が交わるのかまったく分からないと言うのもばかばかしくなる話だ。

それでも、ちりばめられたエピソードとか章のそれぞれが面白ければいいのだが、全然面白くない。

ところが書評家以外の人達の声をブログで拾うと、1Q84は断然面白いという意見がおおい。あっというまで、気がついたら読み終わっていたなんてのがある。それじゃ「世界の終わり」から[1Q84」の間に文章がうまくなったんだ。あるいはストーリー・テリングが。

それとも、純文学からエンターテインメントになったのかな。


群盲、村上春樹を撫でる6

2009-08-06 08:42:38 | 村上春樹

もっとも女学生的なのは大森某と豊崎某女と対談「1Q84めった斬り」、というヤツ。

何ページにはどうかいてあった、何ページにはどうか言ってあった、って女学生がポストイットの付箋をつけたノートを見ながら言っているみたいだ。

大森望がいっているが、月が二つあるのがSF的におかしいんだそうだ。それで前に書いたことを思い出したが、これが「総合小説」のいいところかな。SF小説20戒見たいのがあるのかどうか、知らないが。

いちゃもんをつけられたらこれはSFではござんせん、総合小説です、なんてね。

まったく、何ページの何がどうのこうの、と脚注を作っているみたいで、こんなことをしているのが書評家と言えるのか。


群盲、村上春樹を撫でる5

2009-08-06 08:18:00 | 村上春樹

さて、<<<村上春樹<1Q84>をどう読むか>>をどう読むか>>>第五回である。

前回ネタ本さがしに狂奔する書評家の姿を紹介したが、同様の重複、混乱がモデル探しで起こっている。

やれ、オームがモデルだとか、山岸会だとか、やれ南野垂兵衛が教祖のカルトだとか、執筆者諸君は自己の知識を競っている。そんなことはどおでもエエ。ある程度は参考にしてもいいがの。


群盲、村上春樹を撫でる4

2009-08-06 07:20:52 | 村上春樹

この本「*1Q84をどう読むか」は薄っぺらな本なのに数十人が書いている。ひとり、二、三枚から数枚といった割り当てだ。

多くの執筆者が狭いスペースでネタ本探しに狂奔している。異様な印象を受ける。実にいろんな人物や著書が出てくる。そんなに大事なことなのかね。肝心の村上の本の内容がわからん。

編集者のコーディネイションが取れていないから重複もおびただしくある。

別にいつものように提灯を持つ必要はない。批判的であっても、それを通して本の内容を推測させるところがなくては書評とはいえまい。

まるで、これまでに人が指摘していない、人を驚かすようなネタ本を指摘して自分の知識を見せびらかす女学生の競演のようである。

じつにいろいろな名前、典拠が明かされる。ああ、そうかい、ああ、そうかい、てなものである。

各執筆者は一般読者よりも同業者に対する自己の知識の誇示に執心しているのだろう。読者はいい迷惑である。

昔の、他の本に似ているからどうしたというのだ。人間の考えること、書くこと、つくるものは似たようなものになるのだよ。違うのは小生の文章ぐらいだ。これだけは他では絶対に見ることが出来まい。あぶない、あぶない。


群盲、村上春樹を撫でる3

2009-08-05 08:41:06 | 村上春樹

総合小説というのは野暮ったい語感だが、総合小説を目指すと言うんだね。

むかし総合雑誌ってなかったっけ。

村上春樹本人も前述モンキービジネスのインタビューでも言うし、いまここで俎上に上げている本でも何人かが言っている。

総合小説とは、村上の言うところでは、社会の様々な人の意見を小説に取り入れて、全体として読者に時代の感じ(掴み)を与えたいということらしい。本人の言うところではドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟のような小説ということらしい。ま、おなじみの手あかのついた言葉で言えばポリフォニーだな。

それはそれでいい。しかし、この言葉は小説の手法上のアプローチでもある。そう捉えたほうがこの言葉は、彼の作品を見ていると分かり易いのではないか。

つまり、SF風味であり、サスペンス味あり、ハードボイルド・タッチあり、要するにエンターテインメント調のサービス怠りなく、そして寓話風あるいは寓話臭を前面に押し出したものといえる。人物の名前を記号か、記号的なもので表わすのも寓話ならある程度あり、かもしれない。

何種類ものスパイスを入れたカレーライスみたいな、ごった煮みたいなものと言えばいい。それが総合小説だ。

以上が河出書房新社の値1260円也および単行本「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を百ページほど読んだところでの感想である。


群盲村上春樹を撫でる2

2009-08-05 07:56:48 | 村上春樹

「村上春樹1Q64を読み解く」という本には無慮数十人が書いているが、これはモノグラフなの。

本の売り方、宣伝の仕方からすると一般の本のつもりらしいが、そうであれば読むに値する文章は一つもない。

もし、モノグラフとすれば、甘く見て数人の文章が合格かな。


群盲村上春樹を撫でる1

2009-08-05 06:20:42 | 村上春樹

出版前重版決定!! という広告に驚いて書店に走った。「村上春樹1Q84をどう読むか」河出書房新社刊1260円なりである。

これから1260円を回収する。

小生は彼の本を読んだことがない。しかし、最近の騒ぎである。NHKのニュースが原因か、本自体の魅力が原因かよく分からないが、とにかく、これを読まないと「教養」にかかわるんじゃないかと不安になった。

当ブログに書評カテゴリーを持つ下拙としても、上辺だけでも撫でるかなめるかしとかなければなるまいというわけである。

ハナ書いたように彼の小説になじみがないからいきなり読むのもどうかな、と思ったわけ。もちろんそれもありなのだろうが。

この前に、モンキービジネスというあまり書店に置いていない(ポピュラーでない)、たしか不定期発行か季刊の雑誌に村上春樹本人のインタビューがのっていた。これを読んだが、座談だが、村上の話し方はなかなか要領がよい。頭のいい男と見受けた。

彼の初期の作品から当時(今年の春刊行の雑誌だった)完成直前らしい題名の明らかにされていない作品(おそらく1Q84のことらしい)まで自作を解説している。

しかし、もっぱら手法についてであって、人称の問題とか、リアリズム的な手法とか非リアリズム的な手法への転換の工夫とか、そういった話だった。それなりに彼の語り口は興味があった。

その後の1Q84ブームで「解説本、攻略本」が雨後の筍のように出てきた。

本体をいきなり読むのはシャク?だから、なにか一冊と思ったら「出版前重版決定」にガーンとやられたわけである。

つづく


思想家としてのドストエフスキー

2009-08-04 08:47:13 | ドストエフスキー書評

思想家としてのドストエフスキーはB級である。小説家としてのドストエフスキーは超弩級である。あの長大な小説を巻をおかずに終わりまで読ませるのは並みのわざではない。

巻をおかず、といっても飯も食わず、眠りもせずという意味ではない。一日何ページかずつ読んで長い中断をおかず、興も失わずに、という意味だ。あの半分の長さの小説でも同じペースで終わりまで放擲しないで読めるものは滅多にない。

納豆みたいな小説家だ。こねまわせばこねまわすほど、切れ目なくネバネバ・ベトベトした泡というか糸が出てくるみたいだ。それでもって、本を放り出させない。まずは他にいない。長い小説はいろいろあるが、下拙が休まず読み続けられたのは、ディッケンズのデヴィッド・コパーフィールドくらいかな。

たしかに、ドストエフスキーは色々な「思想」を語るのがすきだ。しかし、ニーチェや実存哲学のさきがけというのはどうかな。かれの思想は極めて時事的、そしてロシア的だと思うね。つまりポリフォニーだ。

おっと失礼、ニーチェは同時代人だったかな。


ピンク・キャットこと大江健三郎

2009-08-03 13:00:28 | 書評

レフティというかピンキーというかレディッシュというか、左翼の諸君は宣伝のためにはいくらでも嘘をつく。

前々回に紹介した「大審問官」の中に出てくるブルガリアの幼児の話に関連してだが、それの矮小化された例がピンク・キャット大江健三郎君の例である。

すぐる大戦における沖縄戦で日本軍が住民に自決を強要したという主張があって、裁判であらそわれた。そのとき、その話を事実のように書いた大江健三郎が証人として召喚されたのである。

しどろもどろになった大江君は、みょうな言い逃れをしている。そういう雰囲気があったことが「事実」でそれを書いたまでだ、てな言い逃れをしたらしい。ようするに主義主張を同じくする人間からのまた聞きだったのである。


ドストエフスキーと蛮族2

2009-08-03 10:02:10 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーが晩年の父子三部作で登場人物の青年たちをして言わしめていることは、ロシアは西欧をモデルとして追いかけているということである。

さらに、当時ほの見えていた「西欧の没落」を救うのはロシアであるという、なんとも結構な気分である。このような気分を吐露するインテリ青年が一番目立つのは悪霊の青年たちであり、未成年これにつぐ。カラマーゾフは教養ある父親ではなし、息子もあまり教養のあるのがいないから目立たないが、同じような意見が散見される。

このパターンは明治維新後の日本の青年と同じなんだね。西欧をモデルにする。機械文明、物質文明ではモデルにするが、精神文明では西欧の欠点を補って世界を救うのは日本だというメシア思想ね。ほぼ、パラレルと言ってよい。

そしてヒンターランドには済度しがたい蛮族が控えている。ロシアの場合は回教圏であり、清である。日本の場合はシナ、朝鮮の土民ということになる。ほぼパラレル・ワールドだ。

1870年の農奴解放は日本の明治維新に相当する。明治維新は1868年。ロシアは二百年も前にピョートル大帝が西欧モデルを標ぼうしていたにもかかわらず、明治維新で開国した日本に40年後にキャッチアップされて手ひどくやっつけられている。

徳川幕府は鎖国といっても長崎出島を経由して管理された情報収集分析を蓄積していたから、なんなく、3,40年でロシアを抜き去ったわけだ。