穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

どこまで遡れるか

2023-06-17 08:13:59 | 書評

この問題は本人の主張だけであって検証は出来ない。ほとんどが奇をてらったものであるが、どこまで記憶は遡れるか。作者本人の主張に基づいてリストしてみる。私の乏しい読書範囲であるから見落としはあるかもしれない。

日本では三島由紀夫の仮面の告白であったか、本人の産湯の記憶描写があった。海外で有名なところではローレンス・スターンの「トリストラム・シャンデイ」がある。受胎日にさかのぼる。

幼児三才から五才くらいまでは無数にある。トルストイ、谷崎潤一郎、中勘助など。

いずれも、他人から吹き込まれたものと考えれば分かり易い。乳母、祖母、などが子守のついでに幼児に話して聞かせたものがもとになっているのは間違いない。

ま、occultでは前世記憶と言うのもあるらしい。一説によるとLSDでラリルロ、もとへラリッテいると思い出すらしい。

どうも自分の経験(他人の見聞も含む)だと早くて5歳、大体7歳ぐらいから変形した記憶が残っているようだ。

ついでに報告しておくがプルーストの「失われた時をもとめて」はどう読んでも7歳以前には遡らない。ついでにご報告しておくが、該書は馬鹿らしくて読むのを、したがって書評も中止した。お許しを請う。

最後に私の考えだが、記憶は知覚と結びついている。そうだろう、知覚が伴わない記憶と言うのは考えられない。そう考えると一番早く外界を知覚するのは聴覚らしい。聴覚なら胎内に滞在していても機能が発達していれば、そうして脳の記憶装置が一応機能していれば記憶に残る(脳が記憶装置だという主張はあやしいが、体全体が記憶装置であるとベルクソンはいう)。

生理学者の一部によると胎児の聴覚は妊娠五か月でほぼ完成すると言われる。外界の音は母体の腹膜、外壁をとおして胎児に知覚(そして記憶)される。世に胎教が言われる理由である。