般若経典のエッセンスを語る53――無分別智と慈悲

2024年05月17日 | 仏教・宗教

 しかし分別をやめるといっても、陶酔や恍惚、泥酔や気絶という状態というふつうの意味での分別の無い状態になることでは、目覚めることはできない。しっかりと目覚めた状態でありながら、言葉を使わない、分別をしないという瞑想をせよ、と。それが「云何が般若波羅蜜を行ずべきか」という問いへの答えである。

 そういう瞑想を行なっているときには、「これが般若波羅蜜だ」などという言葉も意識ももうない。「私が般若波羅蜜の実践をしている」と思っているときには、それは思考・名詞が巡っているわけだから、それらを巡らせないということである。

 そういう言葉・思考が巡るのを止める分別知は、サンスクリット語で「ヴィジュニャーナ」という。それに対して、それを超えた無分別を「プラジュニャー」といい、それがパーリ語化したのが「パンニャー」という言葉である。そしてなぜか漢訳では、プラジュニャーではなくパンニャーのほうを音で写して「般若」と訳したのである。つまり般若とは「分別を超えた智慧」という意味であり、この「般若」「無分別智」こそ大乗仏教の智慧なのである。

 先ほどから述べてきたように、体験が空まで深められ、さらに一如というところまで深められたら、「私と私以外のものは実は分離していない。つながっている。一如だ、一体だ」ということになる。そしてその一体性の自覚から、改めて人を「あの人は私と区別はあるけれども分離していない。一体なのだ」と思う。また例えば、いちおう私と猫とはちゃんと区別はできるけれども、「あの猫も私と一体なのだ」と思う。そうした一体性が実感されたとき、生きとし生けるものすべてに対する慈悲が生まれてくる。すなわち、空・一如の実感=無分別智(より詳しくは後述するように無分別智と無分別後得智)から慈悲が生まれてくるということである。

 それに対して、もともと「私と他の人は分離している」という思いを前提に、「今、私は元気でお金を持っていて体力があって等々で、向こうに体が弱った貧しいかわいそうな人がいて、私はいい人だから……」という思いで行われるのがいわゆるボランティア・慈善だと思われる。

 私の見るところ、ボランティアをしている方にはみな、心の底に程度の差あれ「私はいい人」という思いがあるようだ。それがあまり意識的だと偽善的に感じられるが、それにしても「私は悪い人だ」と思いながらボランティアをしている方はいないだろう。あまりに「私いい人」という気持ちでボランティアをするととても嫌味な人になってしまうが、あまり嫌味の感じられない人でも、よく探っていくと、心の底にはやはり「私いい人」という思いがあるように見える。それはやはり「私いい人、私豊かな人。私はいい人だから貧しい人に恵んであげましょう」という分離意識に基づくボランティアである。

 布施あるいは慈悲は、行なうことは似ているし、時にはまったく同じようだが、ボランティアと本質的には似て非なるものである、と筆者は考える。「私とあなたは実は一体だ。一体であるにもかかわらず現象としては私のほうが豊かであなたは貧しい。それは本質的におかしい」と、自然に私の豊かさを他の人と分かち合わざるを得なくて行なうのが慈悲の行為である。

 とはいえ、私たち分別知に囚われている凡夫にはなかなかできないので、練習をするのが布施である。つまり、布施は智慧から慈悲へというトレーニングだと言っていいだろう。


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