近代化の徹底とニヒリズム

2005年08月30日 | 歴史教育

 さて、ここからは江藤淳氏のいっていることではなく、私の推測です(といっても西谷啓治先生の『ニヒリズム』〔創元社版著作集第8巻所収〕などの示唆によるところが大きいのですが)。

 戦後、日本の教育界では、伝統的な神仏儒習合のコスモロジーと明治以後その上に乗っけられた天皇制ではなく、それに代えて、欧米、特にアメリカ的なコスモロジー、より具体的にいうと、「個人主義的な民主主義」と「物質科学主義的な合理主義」が教えられました。

 これは、明治以来のこととして考えると、「近代化」の徹底、しかも強制的に徹底させられた近代化といっていいでしょう。

 戦後日本の学校では、アメリカ-GHQの強烈な意志と強制的な指導の下で、そうした近代主義的な世界観があたかも唯一正しい世界観・人生観であるかのように教えられるという事態になりました。

 そこで起こったのは、結局のところ、「すべてのものは物質主義科学によって説明できる物質の組み合わせにすぎない」という結論に到るような知識と、「かつては家や国のために個人が犠牲にされてきたが、それは封建的で間違ったことで、個人の権利を尊重することこそ近代的であり大事なのだ」といった思想が、朝から晩まで、子どもの心に注入されるという事態だったのではないでしょうか。

 これは表のプログラムとしては、理性・科学や民主主義・ヒューマニズムを教えているのですが、その裏で、教える側も気づかないうちに、

 「人間も結局はただの物質であり、だから生きていることには結局意味がないし、人間を超えた神や仏や天などただの神話で、だから絶対的な善悪もない。そして、国や村や家などのために犠牲になるのは、バカげたことで、個人の権利こそ大事なのだ。だから、人間は自分を大事にして、自分の生きたいように生きるしかない。それは人間の権利なのだから」

というふうな人生観を教えた結果になっているのだと思われます。

 これはもちろんうまくいった場合、「人間は誰だって自分が大事だ。だから、人も大事にしなければならない」というヒューマニズムを教えることになるのです。

 しかし、人間を超えたより大きな何ものかの存在という絶対の根拠は考えられていません。

 ですから、ほんの少しずれると「人間は誰だって自分がいちばん大事なのだ。だから、余裕があるときは人も大事にするが、余裕がないときは大事にできなくてもしかたない」ということになります。

 さらにもう一歩進むと「人に迷惑をかけなければ、自分がやりたいことは何だってやっていい」という、小市民的なエゴイズムになってしまいます。

 さらに一歩誤ると「悪いことをしても、ばれなければいい」、さらに「悪いことをしてばれても、自分に力があって社会的な制裁を受けなければいい」というところまで行ってしまう危険を底に秘めています。

 もっと徹底すると、「生きていることには意味がない。だから、自分の好き勝手なことをして、死刑にされてもいい」というところまで行きます。

 恐るべきことに、もうすでに、心がそこまで荒廃した人間が現われていて、それを象徴する事件がいくつも起こっているのではないでしょうか。

 つまり、神も仏も存在せず、個々、ばらばらのモノがあるだけだという世界観は、理屈としてつきつめると必ず、「すべてには意味がない」、「善悪の絶対の基準はない」ということになります。これを「ニヒリズム」といいます。

 そして、人間の命もモノの寄せ集めにすぎないのですから、もちろん意味はないのですが、とりあえずなぜか生きていて、自分の気持ちのいい悪い、好き嫌い、快不快はありますから、それを追求して生きるしかないという考え方に到ります。それを、「快楽主義」といいます。

 しかし、そうしたところで、そういう考え方からすると、「死んだら元のばらばらのモノに帰って、すべて終わり」ですから、結局は意味がないのですが……。

 それを人生観としてつきつめると、うつ病になるか自殺するしかなくなります(実際、アンケートなどの調査から、うつや自殺願望の若者が驚くほど多いことがわかります。)

 しかし、たいていの人はなぜか生への執着はありますから、そこはつきつめないでごまかして、日々のいろいろな「気晴らし」で生きてくしかないということになるのです。

 近代主義(理性・科学や個人主義的な民主主義など)には、もちろん大きなプラス面があります(それについては次回述べていくつもりです)。

 しかし、近代主義的なコスモロジーを徹底すると、必然的にニヒリズム-エゴイズム-快楽主義に陥ってしまうという致命的なマイナス面があるのです。

(少し前まで若者に相当数の支持者がいたらしい宮台真治氏の主張などその典型的なものだと思います。私も寄稿している『宮台真治をぶっ飛ばせ』コスモス・ライブラリー、参照。)

(話を先取りしていっておくと、それは、人類が人類=ホモ・サピエンスとしての歩みを始めたときからずっと抱えていた〈分別知〉がもっとも発達したからこそ達したその限界だともいえるのですが。)

 欧米では、もっと早い時代に、近代的な理性・科学によってキリスト教の神話が批判され、もはやそのまま信じることはできないというふうになり、ニーチェという思想家の言葉でいうと「神の死」と「ニヒリズム」がやってきたわけです1) 2)

 そして、日本では開国-明治維新と敗戦という二段階のプロセスを経て、そういう欧米的な近代的な理性・科学が社会に浸透し、いまや「神仏儒習合」の世界観が決定的に崩壊しつつあって(いわば「神仏天の死」)、遅れて本格的なニヒリズムが社会を脅かしつつあるのではないでしょうか。

 現代日本の大人も子どもも陥っているように見える心の荒廃は、いちばん深いところでいうと、近代主義的なコスモロジーが必然的にもたらすニヒリズム-エゴイズム-快楽主義の問題なのだ、と私は捉えています。

 格言風にまとめてみましょう。「時代が病んでいるから、個々人も病む」と。

 したがって、個々人を癒すためには、時代(のコスモロジー)を癒す必要があるのです。

 「時代のコスモロジーを癒すなんてことができるのか?」という疑問が出てくるでしょう。

 できる、と私は考えています。そのことを示すのが、本講義全体の大きな目的の1つなのです。

 しかし、近代のコスモロジーの病を癒す、新しいコスモロジーを創造するというのは、大変な作業です。

 ブログ向きではないかもしれない、長い話にならざるをえませんが、時代と自分の心の病を癒したい方、ぜひ、根気よく付き合ってください。

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4 コメント

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遅ればせながら (Sho)
2005-08-30 23:21:33
やっと出席コメント出せました

ブログで講義は、新鮮です。読み返すこともできるし、いいなぁ。
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Unknown (豆タンク)
2005-08-30 23:47:24
「時代が病んでいるから、個々人も病む」、そうか、と思いました。

だいたい誰に聞いても、今の社会っておかしいよ、日本はお先真っ暗、と言います。



時代の病の治癒、たいへんそうだけど、解決がありうるとのことで、期待しています!



しかしあたりまえなのかも知れませんけど、学校ではこういうことはまったく教わりませんでした。ていうか、学校自体がそういうプログラムで成り立っているのだから、そりゃ当然か。



しかし「裏のプログラム」、そうだったよなあ、ってすごい眼からウロコでした。よそよそしい表のプログラムより、ひじょうに実感がありませんか?みんな。



Shoさんのおっしゃるように、こうやってブログで授業受けられるってのは、かなり意外に楽しい。いいすね。
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聴講しています (YOKO)
2005-09-01 18:12:24
授業を公開していただき有り難いことだと思っています。近代については、「前のものを含んで越える」というウィルバーの進化の法則を押さえながら読んでいます。近代にとどまることなく、良いところは保持しながらも近代を越えて行こうとする試みなのですね。そのための分析であり腑分け作業なのだと理解します。
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受講ご苦労さま (おかの)
2005-09-01 18:46:25
 今のところ、あまり楽しくない話ばかりしていますが、もう少し待っててください。



 これから次第に明るい話になっていきますからね。



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