「フェアウェル」にしても「キム・ジヨン」にしても、
無条件で愛してくれて味方になってくれる母や祖母がいる主人公は、
どんな苦労をしていても羨ましくて少しつらい。
「フェアウェル」のビリーの苦労も、ジヨンのつらさも同じように経験してきたけど、
わたしは彼女らが羨ましい。
無条件の愛で見守って泣いてくれる母親がいて強く戦っている姉がいて
理解して評価してくれる仕事仲間がいるジヨンのことは、
社会に疲れて壊れて行くのさえ羨ましいのです。それだけわたしもずっとつらかった。
壊れることができるのは恵まれているなあと思ってしまうほどの、わたしの歪みっぷり。
こじれっぷりよ。
とは言いつつ共感でグショグショに泣いたんだけど、本も映画も。
特に映画は原作以上に、ジヨンのお母さんを思ってつらかった。
社会の土俵に上がろうとして傷ついたジヨンより前に、
土俵に上がるなどという考えさえ持たせてもらえなかった母親の、
より深く根本から翼をもがれた人生を思って、つらくてつらくて。
という自己憐憫に沈む…のはやめて映画の話にもどりましょうか。
映画は原作ととにかくラストが違います。
原作は一見理解者に見えた人が全く何もわかってなかったということが
さらりと書かれて絶望感さえ感じる終わり方ですが
映画の方は微妙に希望のあるラストです。
原作本の絶望こそが現代の社会を表しているという点で見ると
映画のラストは生ぬるいのではなく、感動ドラマの枠にハマって
売らんかなの姿勢に迎合し、ふんわりといい話にしてしまっているのではないかと
すごく心配したんだけど、実際に見てみると、さほど悪くはなかったです。
原作の、気味の悪い絶望感の持つ威力はないけど、
より多くの人に、あっさりとでも受け入れられるわかりやすさはある。
挑戦が足りないと不満を言うこともできるけど
現実の世界で理解の足りない人に、こちらの絶望をそのまま伝えても理解されないし、
そこは相手のわかる範囲の近くで伝えていくしかないのです。
こういうやり方を批判する人も多いです。
なんでマイノリティの被害者側が、そんなに忖度して思いやって伝える必要があるのか
努力すべきはマジョリティの強い側の方だろう、と言うのは正論だけど
現実に目の前の人と見解の相違ではなく共通理解のところから話を始めようと思うと
わかってる側が、わかってない側に、わかりやすく伝えるしかない。正しくなくても。
そう言う意味では、この映画はまあまあよくできていると思います。
ラスト以外ではかなり原作のエッセンスは取り入れてたし
理解のある優しい旦那様の、実はわかってなさもよく描かれてたと思う。
でも、映画見て良かったと思う人には、できれば原作も読んで欲しいなぁと思いました。
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