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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

関係のバグ

2020-08-24 | Weblog
昔、何やら常に寂しかった時期にも、寂しくない時はあって、
それは寂しさがなくなったのではなくたまたま忘れているだけの時間だったんだけど、
じゃあずっと忘れてたらいいんだ、と意識的に忘れる努力をしてるうちに、
それが普通になって、なんだかあまり寂しくなくなった。
つねに忘れてるので寂しくなくなったのか、本当は別の理由で自分が変わって
(年取って鈍くなったとか何か悟ったとか?)寂しくなくなっただけなのか、
よくわからないけど。

どっちにしてもそれは本質的な寂しさなので、あってもいいと思うんだけど、
今、毎日つらいことは、一瞬忘れてる時だけラクで、それ以外は毎日つらくて
これはどうしたらいいんだろうとずっと考えてる。
何を見ても読んでも考えてしまう。つらい。
今のつらさは多分、自分を鈍くすることで忘れることのできないタイプで、
忘れたフリをしてるうちに自分を損なっていくように思う。

軽い乾杯

2020-08-17 | Weblog
気のおけない人と、気のおけない飲み方をしてて、
それぞれのペースで好きに飲み続けてるんだけど、
何杯目かのお酒を頼むタイミングが重なって、同時に飲み物が出てきたりしたときに
何でもない感じでする意味のない軽い乾杯が好き。
お祝いの乾杯より、1杯目の乾杯より、もっと何も理由のない、軽い乾杯。
そういう時に、リラックスして打ち解けた関係を一番味わえる気がします。

最近は一緒にいる人と飲む時に、飲むスピードが大体同じなので
そう言う偶然の乾杯はあんまりないけど。


立ち上がらない

2020-08-15 | Weblog
雑草の図鑑を見てたら、
踏まれても踏まれても立ちあがるなんてことはしないと書いてあった。
踏まれたら踏まれたまま花をつけ種を残す。
時には踏んだ人間や動物の足の裏について遠くに運んでもらう。
そういう生き方の雑草がたくさんある。
踏まれたらぺしゃんこのままほそぼそと生きる。
・・・わたしのことか。

「礼節ある無関心」って・・・

2020-08-05 | Weblog
そんなことを言ってたら未だにどこにも女性参政権もない世界だったかもしれない。
黒人差別が合法なままだったかもしれない。
必死に声を上げて戦って来た人たちのことを馬鹿にして高いところから涼しい顔で言うセリフだわ。
自分の正義だけで相手をジャッジしない静かな暖かい交流が大事なのはわかるけど
「礼節ある無関心」なんて澄ましてても世界は全然良くなりやしない。
権力者や虐げる側にだけ便利で、弱い人たちに我慢を押し付けるだけのこと。
困ってない人の言い分でしかない。
いわゆるトーンポリシングになるよね。

ただ、鷲田さんの解説をものすごく好意的に解釈すると
〈お互いの正義を振りかざし見解の相違にばかり関心を寄せ声高にぶつかり合うのでなく、
違いを受け流しながら淡々と付き合う方が平和的である〉くらいの意味なのかなぁとは思う。
それでも、声をあげるよりあげないことを良しとする考え方で、
世の中は本当に良くなるのだろうかと思います。
それは都合のいい人や権力に利用されるだけなんじゃないか、とやっぱり思う。



書いて整理する

2020-07-29 | Weblog
考え事があるときには思い詰めるタイプで、頭の中でえんえん文章を作ってるんだけど、
実際に書かないとどんどん冗長になってまとまりがつかなくなるので、
どこかにまとめて書くことが多い。書きながら直し直ししてると最後は結構短くまとまる。
それでも結構冗長なんだけど。

Twitterに書けるようなことならTwitterに書く。
140字をいくつも繋げて書きはするけど、
基本140字ごとのリズムに自分が慣れてるから書きやすい。
だらだらと無駄なことも書いてしまうけど、
それでもTwitterに書くと自分の頭の中では少し整理できる。

Twitterにかけないことは、テキストエディットとかメモに書いて置いておくことが多い。
誰にも見せないけど、自分ではよく読み返して頭の整理の役に立てる。
あと、Twitterの裏アカに書くこともあって、それはなにか、つらさがまだ生で、
知らない人に知らない呟きとして聞いてほしい時かなぁ。
裏アカは、もちろん鍵付きで、フォローされてるのはほんの数人なので、
実質誰にも見せてないのとかわりはないんだけどね。

プラマイ相殺

2020-07-24 | Weblog
楽しいことと悲しいこと、いいことと悪いことって、
その時々の気分としては相殺できる気がするけど、
実際は別のもので、単位を揃えてプラマイ相殺なんてできないので、
人生においてプラマイゼロみたいな考え方は本当は違うと思ってる。

でも人生のプラマイということについて、過去になってしまったことはある程度、
いいことと悪いことの単位を強引に揃えて差し引き勘定できる気はする。
そう思うと、自分は今の時点では、だいぶゼロに近づいたと思う。
長い間マイナスだった気がするけど、これから少し取り返す。
それでもやっぱり本当は、そういう勘定の仕方は無理やりすぎるし、不正確だと思ってるけど。
そんなシンプルなものじゃないよねぇと、特に古典文学読むと思う。

そしてそれって、人生じゃなく人間に関してもそうだなと思う。
短所を補ってあまりある長所、みたいな言い方をするけど、
それは本当は差し引きできるものではないんだよなと思う。
10の短所と10の長所があっても、いつまでたっても10の長所と10の短所のままだよね、
と思うのです。
いいところがたくさんあるからと言ってダメなところを我慢できるわけでないことも多い。
逆にダメなところがたくさんあってもいいところが帳消しになってしまうわけでもない、と思う。
距離感を調節できる友達なら、いいところの部分だけで付き合うのは悪いことではないし、
それがうわべの付き合いというわけでもないと思う。
相殺できるわけでない短所と長所を全部丸ごと受け入れるなんてとても大変だし。
でも家族や恋人だとそうはいかないものですよね。
ダメなところはダメなところのまま、いいところはいいところのまま、別々のまま、
どう考えてどう受け入れるか決めるしかないんだよねぇ。

人でも人生でも、いいところと悪いところってどっちもいつもあるので、
どちらかにのまれてしまうこともありますね。
それでも、やっぱり相殺はできないと考えてる。

怒るのが下手

2020-07-20 | Weblog
ずっと、怒れない、正当な主張ができない、常に自分が間違ってる気がする、と思って
おどおどと生きて来たので、50過ぎてそれをどうまともにしていったらいいのかまだ試行錯誤です。
ひとりならなんとかなる気がするけど、ひとりで生きてるわけではないし。
でも、世の中とちゃんと渡り合うには、さて。

怒るのってめちゃくちゃエネルギー使うし、なんなら数週間疲れて倒れるくらいのことなので、
悶々としながら我慢する方がマシだったのです。
たいていのことは自分の気持ちの持ちようでなんとかなるっていう考え方、
大人になれば大概のことはそうやってなんとかなるけど、それでいいの?と
大人でないわたしが自分に聞く。
自分をそんなに曲げて納得していいことなのそれ?

パーンと怒ってパーンとやり返したことって、ほんと、ないなぁ。
基本的に、怒られた瞬間に萎縮して自分が悪いと思ってしまう条件反射が出来上がってるから。
そこまでわかってるので、正当に怒ろうと努力してはいるけど、うまくいかない。
怒るエネルギーがない。我慢して泣き寝入りする方が、その瞬間は楽なのよね。
でも自分の感情も信用できないから、自分で消化しても
それがいいことなのかわかんないのよねぇ。

結果、誰にもぶつけないものは、自分の中にくすぶってて、
納得したつもりでも、後から思うと、できてないものもあるなあと思う。
しかも、自分の側が正しいと確信してればしてるほど、
それでは相手が困ると思って逃げ道を必死で探してあげるのに忙しくて、全然怒れない。
瞬発的に怒れる人たちって、別の人種と思う…

わたしのデフォルト感情は諦めだと思う。
でもそれより何より、自分の中のバランス最優先という感じになってきました。
怒るということが下手なままやっていくしかないなら
正しい怒りでも自分の得にならないなら、スパッと切り捨てて忘れる方がいいのかな。
とにかく疲れきって自分が壊れてしまわないようにするのが一番大事。

滅びていい国などない

2020-07-15 | Weblog
6年前に呟いた言葉ですが、6年経って状況は全然良くなってないなぁと思う。

時々音楽や映画についてやりとりをしていた人をブロックしました。
原発反対者は日本を出てシベリアにでも行け。
日本にいるなら電気を使うなよ、というようなこと何度も書かれていて、
わたし自身の原発に対する姿勢がどうあれ、こういう人とやりとりするのはしんどい。
また、隣国など滅びてよいとも書かれていたんだった。残念でした。
別にそういう話題に触れず普通に挨拶や音楽の話だけ続けることができないわけではないけど、
やり取りのある人がこういうことを呟くのを見るのはいやだししんどい。
こういう理由でブロックする人が少し増えてきた気がして、本当に残念です。
そもそも、
普通の市民がたくさん住んでいるどんな国も民族も、
滅びていいものではないと思っています。
滅びていい支配者は多いかもしれないけど。

ずっと雨の中で

2020-07-07 | Weblog
あまり雨が続くと
晴れていた日なんてわたしの妄想で
本当はここは雨の国で
生まれたときからずっと雨の中で生きてきたような気がしてくる。
じっとりと重い空気。
エアコンの効いた家の中の軽く乾いた空気は
人工のものでしかなくて。

罪と責任

2020-06-25 | Weblog
映画「ナイチンゲール」の感想にも書いたようなこと。
アメリカの黒人差別の映画はたくさん見たけど、
イギリスの植民地での原住民への虐待も酷くて、
黒人を同じ人間と思ってないのがよくわかる。
映画の中では、原住民の男を遊びで殺すし、女と見たら強姦して、騒ぐとすぐ殺すような
イギリス軍の兵士たちを見て、なんでそんなことができるのかと恐ろしいと同時に、
オーストラリアやアメリカに住む白人たちは、
自分たちの先祖がどんな酷いことをしてその土地を掠奪したのか考えると、
どんな気持ちがするのだろう、と思う。
自分のそう遠くない先祖が奪ったのです、先住の人々の土地や言葉や文化や平和を。。。
もちろん今の人たちに罪はなくても、そこでのうのうと暮らす自分たちは、
それらの酷い掠奪の上にいるわけで、わたしならどう思うだろうか。

近代日本がアジアでしてきたことを思うと、
わたしが日本人なら自分の罪でなくてもいたたまれない。
韓国も、他国を侵略したことはなくてもベトナムには行ったし、そこでひどいこともしただろう。
わたしの父の世代は、まだそんな遠い過去ではない。
自分に罪はないのはわかるけど、責任もないと言えるだろうか?
侵略した側の人間は、その個人の罪ではなくても、
少なくとも覚えていないといけないし伝えていくという責任くらいはあるんじゃないかな。
先祖の罪で自分を責める必要は全くないけど
歴史を否定せずに向き合うくらいの責任はあるんじゃないかな。

映画では、原住民への虐待だけでなく、同じ白人であるアイルランド人に対しても、
同じ人間と思ってないような扱いで平気で殺すイギリス兵たちが描かれていて、
その時代の大英帝国の貴族の優雅な映画を楽しむ時にも、
その裏ではこういうことが行われてたんだなぁと思わずにいられないのは残念。

食洗機と水の音

2020-06-23 | Weblog
食洗機は、女子の友達はみんな絶対いると言うし、
今うちにいる人も食洗機買えばいいのにと言うけど、
食器洗うのは家事の中でだいぶ好きなものなので、その気にならない。
水をさわりながら水の音を聞いてるのが楽しい。
ただ油だらけの鍋とかだけは食洗機に突っ込みたい気ははしますけどね。

アクリルたわしを編むのも好きで、基本的に食器用洗剤も使わないので、
食器洗う時は洗う順番やお湯を出すタイミングや(手が荒れるので
よっぽど油汚れのひどい食器や鍋以外は洗剤使わない)
頭も使うけど、流れる水の音、チャプチャプ言う桶の中の音など聞くのが好きなのよ。
お米を研ぐ音、ボールの水をザーッと流す音、
水を張った桶の中で葉っぱ野菜を洗う時の、チャプンチャプン言う音。
水の音は楽しい。

そういうわけで、家にいる人が洗い物を手伝おうとしても、わたしのルールはややこしいし
洗い物好きなので結局自分でやります。
家にいる人は、かわりに洗い物のあとで、わたしの肩をもんだりすれば良いと思う。
(やってくれないけど。笑)

でも、水に触ってるのが何しろ楽しくて食器洗いが負担でないというのは、
多分一般的ではないし、今子供もいない静かで余裕のある日常なので思えることだし、
食洗機が必要な人が多いのはよくわかる。
必要な人は、食器洗わない人が何言っても食洗機を持てるといいと思います。

誠実な謝罪

2020-06-21 | Weblog
最近京都にもオープンして映画好きを喜ばせた、映画館「アップリンク」。
そこの代表がパワーハラスメントで元従業員5人に訴えられました。
ずいぶんワンマンな人だったようで、訴状の内容や、元従業員の書かれた文章を見て
ああ、なるほど、こういう人いるねぇ、という気持ちになったけど
その後その代表の謝罪文が出たので、それに関することを少し書いておきます。
記事のリンクはこちら→「元従業員として思うこと」
→「謝罪と今後の対応について」

アップリンク代表の謝罪文を誠実だと褒める人も多い。
わたしもその内容を真っ当だとは思いました。
真っ当ということは、当たり前で、かくあるべしということで、
当たり前のことをしてなかった人の当たり前の反省に、わたしはそんなに甘くなれない。
当たり前のことを反省する人は少ないとしても、それを褒める気持ちにはなれない。
多分自分が虐げられる側だったからだろうなぁ。
これを読んだ被害者の人たちが、これを信じることができるのだろうか。
そこを知りたいな。信じられるのかどうか。

個人的な話ですが、10年以上前に離婚の話をした時、元夫は、
自分が間違ってたことも酷かったことも全部認めて、多分結婚して初めて謝った。
そしてわたしの言い分を全部認めて、自分は変わるから許してくれ、と言いました。
でもわたしが離婚の意志を変えなかったら、すっかり態度を変えて
子どもの親権を持ち出してわたしを冷たく脅すようなことを言い出した。
わたしの経済力のなさをあげつらい、お前に一人で子どもを育てるなんてできるはずない、
離婚するなら子どもは渡さないと言われて、
あの謝罪と反省の言葉は上辺だけのもので
口や態度でどんなに誠実で真っ当なことを言ってても、
中身は全く何も変わってなかったんだとわかったのでした。

アップリンク代表の謝罪文が、それとは違うと言い切ることは、わたしにはできないな。
知らない人の言葉は判断できないですからね。
この代表にもまたチャンスは与えられるといいと思うし、
これからの彼を見ないと何も言えないと思うだけ。

ちなみにわたしは元夫をもう恨んでないし怒ってもいないし、
幸せになってくれたらいいと思ってる。
先日、法的な離婚の手続きのために10年ぶりくらいにメールのやり取りをして、
とても丁寧な謝罪と感謝の返事をもらい、その気持ちは今は特に疑っていません。
というか、もう別に上辺だけの言葉だったとしても構わないし、疑うだけの関心もない。
ただ、この先二度と関わりたくはないとは、今も思ってます。

アップリンク代表に対して、被害者の人たちがわたしと同じように思うかどうかは、
また別の話でそれはわたしにはわからないし何も言えないことです。
良い謝罪文だと思いはしたけど、謝罪文に感心はしても、
この代表に感心するのはまだ早い、とやっぱり思うだけ。

我慢と優しさ

2020-06-20 | Weblog
強い人になるというのが乱暴な人になるのとは違うということはとっくにわかってたのに、
やさしい人になると言うのが、我慢する人になることと違うというのは、
最近わかった気がする。

若い頃から優しくなろうと頑張ってきたけど、間違えて、我慢強くなっただけだったかもなと
自分のひどい胃潰瘍の胃カメラ写真を見ながら思う。
映画でもリアルでも、この人すごく優しいなと、憧れるような悔しいような思いで見る人って
我慢強いのではなく、やっぱり本当に優しい人なのだった。
この違いか、とふと気づいたのでした。

でも形から入るというやり方もあるよねぇ。あかんかな。

不安というのではなく、自分の人生を信じてないから、我慢してしまうのだろうな。
でもよくないよね。


プライベート

2020-06-08 | Weblog
映画館が開いてきて映画もまた見始めて、書きたいことはたくさんあるので
またおいおい書きますが、最近は書けない日が続いてました。
真っ黒な胃が治ってきてるのかも不安だし、
世の中も自分自身の生活も先が見えなくてどうしていいよくわからない。

あんまりここで、進行形のプライベートなこととか書いたことないと思うけど、
春先から少し日常の生活が変わって、それに順応するのでいっぱいいっぱいだった。
そもそも順応していいのかも、まだよくわかってない。
楽しいことも多いけど、しんどいことも多くて多くて、かなりつらい日々もありました。

わたしは友達に、間口は広いけど奥行きは狭いと言われる人間で
誰でも軽くウェルカムしてしまうけど、すぐに行き止まりで、誰も奥までは入れない。
そういう人間が、最大限の努力で奥まで開け放して、自分のこだわりも捨てて
なんとか受け入れようと頑張って、それでもどうにもうまくいかないと、
結局少しずつ扉を閉めて行くことになる。
何も言わなくなって、コミュニケーションを諦めてしまう。
それが怖いから、できるだけなんでも話し合おうと思ってきたけど、
何度かとことん疲れて、もう無理、と思ったこともありました。
今の状態も、自分ではよくわかりません。
今のところ、なんとかうまく楽しくやってると思うけど、
実はもう小さい扉を閉じてしまっているのか、それともまだ大丈夫なのか不安になる。
自分の気持ちがよくわからないし、自分を大事にすると言う観点では
これは間違っているような気もして、どうするのがいいのかよくわからないまま。

その一方で、心からしあわせな時間もあり、気分の浮き沈みが激しいです。
更年期的なものもあるかもしれませんね。

プライベートで何があっても、ブログを書くことで自分を取り戻すこともあるので
ぼちぼち書くと思うけど、当分休みがちになるかなぁ。

部分的に

2020-06-07 | Weblog
差別の問題でほんとうに辟易するのが、
ある問題には真っ当で鋭く寛容で真摯な意見を持つ人が、
別の問題だと軽やかにヘイトしてしまうことの多さ、しかもヘイトの自覚が全くない。
フェミニストの人のトランス差別などもそれのひとつであることが多いですね。
そういう人を、イシューごとに信用したりしなかったりするか、
あるいはいいこと言ってても、もう人として全面的にダメと判断するかは
わたしの場合ケースバイケースかなぁ。

ツイッターなどで見かける有名人の発言は、よっぽどその人全部を拒否してないと
シェアしたりすることはありますが、
たとえば三浦瑠璃は女性の性被害問題に関してまともなことを言ってても、
もう見直すということはないですね。基本的なところで差別主義者だし、
全方位差別主義者と思ってた人がまともなこと言うとむしろ驚きます。

逆に他はまともなのに、何かに関してだけおかしいという人も多くて、それも悩ましいです。
トランス差別はこっちが多いかもな。

でもリアルの知り合いや友達などは、もっと難しいです。
考えがいくらか違っても普段の付き合いの中では問題なく気持ちよく付き合える人も多い。
でも差別や人権に関することで、どうしても受け入れられないところがあると悩みます。
友達の中には、そういう相手はバシッと切り捨てるという人もいて
しっかりした態度だと思うんだけど、自分には難しい。
自分の態度はもうはっきりさせるべきだし、そうしようとは思ってるけどね。