教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

これからの教師・保育者と研究能力―教育・保育をつくるカリキュラム・マネジメントの基礎として

2022年03月29日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 数年前からゼミ生や周囲の方々と議論してきたことや、2月からこのブログで議論してきたことを踏まえて、今考えていることをまとめました。まだ不十分な状態ですが、お礼に代えてお披露目します。

 (この記事にいただいたコメントが素晴らしく、本文のいう教師の教育研究の具体例を示してくれますので、ぜひ合わせてご覧ください)

---
 今後の教師・保育者には研究能力が必要である。今の現場ではチームで教育・保育することが求められている。教師・保育者以外の職種もチームに加わる。その中で教師・保育者はどのような役割を果たすべきか。個別指導や補習なら学習ボランティアや支援員、受験学力の形成や単純な知識一斉伝達なら塾講師(近年、学習塾と連携する公立学校も増えている)、部活動やスポーツ・文化活動指導なら部活動指導員、障がい支援なら言語聴覚士や特別支援コーディネーター、福祉の必要な子どもの支援ならスクールソーシャルワーカー、心理的支援ならスクールカウンセラー、地域住民や外部組織との連携なら地域連携コーディネーターなどとの分担が可能である。このような役割分担を前提にしたとき、教師・保育者の専門性はどこにあるべきか。授業や生徒指導こそ教師の専門的役割と考えることに異論はないが、すべての場面での授業や生徒指導が教師しかできないわけでもない。中でも知識技能の一斉伝達や個別対応は、上記の通り、教師よりも巧みな者は存在する。加えて、AI技術の発展にともなって個別最適化学習が軌道に乗れば、それこそ機械に代替されてしまう仕事である。
 私は、これからの教師・保育者には教育・保育を自分たちでデザインし、それをマネジメントする力が必要だと思っている。すなわち、教育課程の編成能力、カリキュラム・マネジメントの力である。国や自治体の教育目的・方針をふまえて学校・園の教育目標を立て、一回一回の授業や教育活動を教科・領域横断的に組み合わせ、指導要領・教科書や単元・教材、児童生徒や人類・国・地域の課題を徹底的に分析考察して、人的・物的な資源(機械=AI・ICT機器も物的資源である)を効果的に活用できるように長期的な教育計画を組織する。教師・保育者がすべてを行うことを前提とせず、時には他職種やボランティア・支援員に任せ、子どもたちの観察と交流を十分に行って、教師・保育者が直接関わる効果的な場面を見計りながら教育・保育に当たる。このような教育課程・教育計画の編成と運営・実践を確かに進めて行くには、計画の立案時や途中の調査研究が重要である。カリキュラム・マネジメントには、継続的で適切かつ実践的な教育・保育研究が必要であり、計画が行き詰ったときには本質的・体系的な教育学研究を踏まえた根本的な再検討が必要になってくる。国や県がこう言っているからではなく、教育とは何か本質的に考え、自校の環境・児童生徒の実態に応じて適切な教育とは何か考えなければ、よりよいカリキュラムは生まれない。また、学校・園の働き方改革として、現在、教師・保育者の仕事の見直しが行われているが、その学校・園に必要な仕事は地域や子どもの実態、目標に応じて異なってしかるべきである。カリキュラム・マネジメントを前提としなければ、教育上必要な仕事を取捨選択することはできず、真の働き方改革はできない。カリキュラム・マネジメントには教育研究と教育学研究が両方必要である。つまり、今の教師・保育者にとって、これからの専門職のあり方を見極めるためにも、子ども達の教育をよくするためにも、働き方改革を進めるためにも、確かな研究能力が必要なのである。
 私はマネジメントの本や外国の事例を踏まえて述べているのではない。かつての日本では、1940年代末から1950年代にかけて、コア・カリキュラム運動や地域教育計画という、地域に即したカリキュラムを教師たちが協同で作り出し、子どもたちを育てきた実績がある。コア・カリキュラム運動のリーダーの一人であった教育学者の梅根悟は、カリキュラムとは「その土地、そのあずかっている子どもたちに合うように創っていくべきもの」とし、「カリキュラムを作る責任者としての教師」の役割を強調した(梅根1949)。また、同時代に地域教育計画の指導をしていた教育学者の海後宗臣は、「教育者は教育内容編成の専門家として、市民と協力し、児童と共に学習を発展させながら学科課程をその社会から新しい姿のものとして編み上げるのである」と、教師を激励した(海後1947)。梅根・海後が発言した歴史的文脈とは異なるけれども、「カリキュラムを作る責任者」、そして「教育内容編成の専門家」としての教師は、今まさに、ふたたび必要となっている。研究なくしてカリキュラムをマネジメントすることはできず、今の学校・園が子どもたちのために改革されることはできない。教師・保育者は、自らの職責を果たすために、研究能力を身に付けなければならない。
 研究は学者のやることだと思っている読者も少なからずいることだろう。しかし、教師・保育者は、研究を学者の独占的活動とみるべきでない。学校・園の研究の中心を担うべきは、外部から来た教育学や心理学などの学者ではない。学者たちは協力者やアドバイザーではあっても、その学校・園の教育・保育の責任者になることはできないのである。その学校・園の責任者代表は校長・園長であるが、実際の教育・保育を担っているのはその学校・園のチームであり、その中心にいるのはその学校・園の教師・保育者である。学校・園のカリキュラムをつくり、動かすための研究は、教師・保育者自身が中心になって責任をもって行わなければならない。これからの教師・保育者に必要な専門性の一つはカリキュラム・マネジメントの力であるが、その基礎には研究能力がなければならない。

 [略]これからの教師・保育者の専門性を考える上で、カリキュラム・マネジメントの基礎として研究能力に注目するべきことを強調した。1回1回の授業改善はもとより、複数の授業・教育活動のまとまる単元・カリキュラムの改善を担うべきは、教師・保育者を中心とした学校・園のチームである。教師・保育者の長時間労働を分担や業務見直しで解消していこうという働き方改革の方向性に異論はないが、何のために、どのような計画でそれらを進めるかという視点がなければ、非常にあやうい。また、他職種やボランティアを含めたチームで教育・保育にあたる時、チームにいてもいなくてもいいような立場に教師・保育者が埋没するわけにはいかない。教師・保育者が自らの専門性を発揮し、自らの職責を果たし、子どもたちの教育環境をよりよくするために、その研究能力の伸長が望まれる。自分の実践を良くするためはもちろんだが、これからはチームの実践を良くするためにも、教師・保育者は研究能力をますます磨いてほしい。

<引用文献>
・梅根悟『コア・カリキュラム―生活学校の教育設計』光文社、1949年。(『梅根悟教育著作選集』第6巻、明治図書、1977年)
・海後宗臣「新しい学科課程の編成」『日本教育』第7巻第1号、1947年。(寺﨑昌男・斉藤利彦・越川求編『海後宗臣教育改革論集―カリキュラム・教育実践・歴史』東京書籍、2018年、74頁)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする