教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育の議論の出発点―お互いの「教育」の意味を確認すること

2022年03月05日 23時01分00秒 | 教育研究メモ
 毎日忙しくしています。
 今回は教育を議論するときに気をつけるべきことについて、考えてみます。今後の日本では、すべての人が学校のあり方に関する公的な議論に加わる必要が出てくるので、大事なテーマだと思います。

 教育を議論するにあたっては、その目的や対象によって異なる「教育」があるという前提を理解することが大事です。先日問題にした「公教育」は、公共のために将来の国民・市民や社会のメンバーを対象とする教育で、「私教育」は、私事のために将来の家族や特定集団のメンバーや個人を対象とする教育です。私の将来の収入や職業のための教育は、場合によっては社会のメンバー全員の幸せを問題にしないかもしれませんし(自分が良ければよい等)、打算なしで協力することのすがすがしさを経験する教育を時間の無駄として避けるかもしれません。公教育と私教育の共通線を探ることは意義あることですが、どちらかの論理でどちらかのすべてを解消しようとすると無理が生じますし、目的に応じた適切な教育が行えなくなります。両者は区別して考えた方が、よりよい方向性を探れると思います。
 もう一つ重要なことは、乳児・幼児・児童・青年・成人・高齢者などの発達段階によって、または学生生徒・有職者・主婦・地域住民などの立場によって、教育のあり方は異なるべきだというということです。教育には、「(乳)幼児教育」「初等教育」「中等教育」「高等教育」「特別支援教育」という発達や障害の有無程度に応じた教育段階や、「幼稚園教育」「小学校教育」「中学校教育」「高等学校教育」「大学教育」「職業(専門)教育」などの学校種による教育の区分、「学校教育」「社会教育」「家庭教育」という場所に応じた教育の区分、これらの段階・区分をまたいだ「生涯教育(学習)」「幼年教育」「幼小連携教育」「義務教育(小中連携・一貫教育)」「中高一貫教育」「高大連携教育」などの領域などで分けることができます。また、それらの段階・区分・領域の中では、個々の教育内容や方法の違いに応じてそれぞれ異なる教育が存在します。加えて、「塾の教育」「企業内(社内)教育」「自己教育(修養・啓発)」「子育て・しつけ」などの私教育に属するものも含めると、さらに多様です(これらの中には公教育と区別がつかないものもあります)。教育にはいろいろあり、それぞれに大事な観点や留意点があります。たとえば、小学1年生の教育について、高校3年生の教育やサラリーマン1年目の能力開発と同じ次元で語ることは、有効な手だてを見つけるよりも、むしろ気をつけるべき留意点を無視軽視して、新しい問題を生み出したり、問題をより複雑深刻にしてしまったりしてしまうおそれがあります。
 教育を議論するには、教育にもいろいろあるのだ、というところから始める必要があります。教育は専門家や教師だけの問題ではなく、すべての人が関係ある問題であり、すべての人が議論に加わるべき問題です。様々な教育の違いをすべて把握して議論をすることは難しいことです。しかし、様々な目的・対象の教育を認識できるようになったら、少なくとも、自分の使っている「教育」と、相手が使っている「教育」とは、その意味するところが違うかもしれないと、いったん立ち止まって確認することが可能になります。現代日本ではすべての人が教育を経験しているため、教育の問題を議論するときには、つい自分の経験を前提に議論してしまいます。しかし、自分が経験したり考えたりしている教育は、教育のほんの一部にすぎません。お互いの意味するところを確認しあわないと、議論はかみ合わなくなります。教育を議論するにあたっては、まず、何の教育について考えるべき場かよく理解してから意見を出し合い、時々、お互いの前提としている教育の意味するところを確認しあうことが大事だと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする