老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

面白い語源の言葉 その(22) ~仏教に由来する言葉について~

2018年09月12日 19時14分43秒 | 面白い言葉や語源など
 このコラムでは、普段は何気なく使っている言葉で、その語源が判りにくいものなどを紹介していますが、その中で改めて気付いたのが、仏教に由来する言葉が多い事です。

 それだけ、この国における仏教の歴史が長く、生活に溶け込んでいるという事でしょう。
私たちが普段はそうと意識しない所でも、仏教に関係した考えや行事などが浸みこんでいることに改めて気付かされます。

 しかし、長い歴史の故か、或いは私たちが仏教の教えをそれほど真剣に考えなくなった為か、中には5月26日のこのブログでふれた「無学」「無事」のように、現在私たちが遣う言葉の意味が本来の意味と全く180度とでもいうような違いがある言葉もあり、驚かされます。


 この「語源」のコラムも暫く続いたので、一度中断しようかと思っていますが、今日はその区切りとして、仏教から由来した言葉で、私たちがその事を意識せずに、どちらかと言えば違う意味で使っている言葉を4つ程紹介します。


①無念
 現在では、「無念な結果に終わる」とか「残念無念」というように、“くやしいこと。また、そのさま”という意味で、“念が残る” という意味として使われることが一般的です。

 しかし、元々は仏語として、“全くもって念が残っていない、念慮を持っていない状態の事を言い、煩悩や雑念などの「念」がない、つまり、とらわれのない無心・無我の境地”を言うようです。
すると、「無学」「無事」と同じく、本来の意味は、現在の使用法とは全く逆な意味になります。

 尚、上に述べたように、現在慣用語として用いられている「無念」は、「念」にとらわれすぎて悔しくてたまらない心の状態を言いますが、同じく「念」が残って悔しいという意味の言葉に「残念」があります。
この違いは難しいですが、「無念」は「残念」よりもっと「残念」な心のあり方のような気がします。

②観念
 “ 物事に対してもつ考え”として、「時間の観念がない」「固定観念」という使われ方をしたり、哲学で“人間が意識の対象について持つ主観的な像や表象”などにも使われますが、
一般的には、「もうこれまでと観念する」というように、“諦めて、状況を受け入れること。覚悟すること”という意味で使われます。

 しかし、この「観念」は仏教語としては、“真理や仏・浄土などに心を集中して観察し、思念すること。観想”をいうようで、“諦めて状況を受け入れる”というような意味はなかったようです。


③兎に角
 とにかくは、平安時代から江戸時代までは「とにかくに」として用いられてきました。
 とにかくの「と」は「そのように」、「かく」は「このように」で、「あれこれと」とか「何やかや」といった意味で、この為に“いずれにせよ”というような意味で使われるようになったようです。

 また現在使われている「兎に角」はこの「とかく」の当て字で、しかも元々は「兎角」を真似た当て字なのだそうです

 しかも、この「兎角」は仏教語「兎角亀毛」からだそうです。
「兎角亀毛(とかくきもう)」とは、兎に角がなく、亀の甲羅に毛がないように、“この世にあり得ないもの、実在するはずがない物事”の例えのことで、現在の「兎に角」とは全く関係がないようです。


④一大事
 現在では「お家の一大事」のように、“放置できない重大な出来事。容易でない事態。”を意味しますが、仏教語の「一大事」とは“仏が人々の煩悩を取り除いて悟りに導き、苦しみから解き放つ(衆生救済)のためこの世に出現されたという重大事”を意味するようです。(まさ)

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