老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

言葉の語源など その(69) ~呉 服~

2021年06月06日 19時30分22秒 | 面白い言葉や語源など

 約1か月前の5月8日付け毎日新聞の「語源由来紀行」と言うコラムで「呉服」と大阪府池田市の事が取り上げられており、興味深く読ませて貰いました。

 そういえば、昔は町のあちこちに「呉服屋」があり、大抵はその地の旧家などが経営されていましたが、服装の洋装化に伴い「呉服屋」はどんどん姿を消していき、最近は殆ど見掛けなくなりましたね。

 さて、「呉服」という言葉ですが、その意味を正確に答えられますか?
私は、「服」と言う字が入っているので「和服(着物)」のことだと思っていたのですが、元々は織物の事だったようです。

<Goo辞書>や<WIKIPEDIA>によると、
・中国の呉から日本に伝わった織機の意味から、当初は呉織・呉服(「くれ はたおり」)と呼ばれていたのが、「くれはとり」に変化し、後に「ごふく」と音読されるようになった。

呉服(ごふく)は上述のように呉から日本に伝わった絹織物の織り方によって作られた反物に由来し、それ以前からあった綿織物や麻織物を意味する太物に対し、絹織物を意味する語として使われるようになった。

・近代になり、洋服の普及と共にハレの衣装となった和服用反物の呼称となり、そこから和服そのものの呼称ともなり、現在では和服用の織物の総称としても使われている

ということのようです。


 さて、池田市との関係ですが、池田市や池田市図書館のホームページなどによれば、
・1500年以上前の応神天皇・雄略天皇の時代に呉の国(中国の江南)より縫工女呉織(きぬぬいめ、くれはとり)(呉服)・漢織(あやはとり)(穴織)が渡来し、優れた絹織物を生産したという「クレハトリ・アヤハトリ伝承」が定着してようです。

・また池田市内にはこの伝承に呼応するように、次のような関係ある地名が残っているようです。
呉服神社・呉服町・呉服小学校:(何れも、「呉服」は「くれは」と呼ぶようです
唐船が渕(とうせんがふち):呉織と漢織が到着したと言われる猪名川のほとり
染殿井/星の宮/絹掛け松

・この伝承がいつ頃できたか確定する史料はありませんが、元禄14年(1701)にできた『摂陽群談』や寛政10年(1798)刊行の『摂津名所図会』などに、この伝承に関する記述があることから、江戸時代前期までには現在伝えられているような姿になっていたと考えられますし、謡曲「呉服(くれは)」もこの伝承継続に一役買ったと言われています・

・呉織・漢織の伝承は、池田だけでなく、西宮市などにも同様の伝承が残されているが、池田のように完成度の高い伝承として現在まで伝わったものではないようです。

 カップヌードルミュージアムだけでなく、池田市が誇る古代のロマンを秘めた夢多い伝承です。(まさ)


<追記> 呉羽紡績の事
 この項を書いていて、かって「呉羽紡績」という会社があったが、この「呉羽」というのも、呉服(くれは)に由来していたのかが気になり、少し調べて見ました。

 呉羽紡績は、近江商人伊藤忠兵衛の次男2代目忠兵衛により、自ら経営する伊藤忠商事の出資で、1921年(大正10年)に富山紡績として設立された紡績会社ですが、1929年(昭和4年)に増資と共に富山県西呉羽村に工場を新設し、呉羽紡績と言う新会社として設立されました。

 その後、紡績大手として拡大し、呉羽化学工業株式会社(現:クレハ)を設立したりしていくが、1949年(昭和24年)に過度経済力集中排除法の適用を受けて、伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績、尼崎製釘所(現アマテイ)の4社に分割された名門会社です。
その後、呉羽紡績は、1966年(昭和41年)に 東洋紡績と合併という経緯を経ていますが、私が気になっていた、「呉羽」は「呉服(くれは)」に由来するのかという疑問はどうも関係なかったようです。
上述通り、呉羽紡績が富山県西呉羽村に工場を設立したことに拠るのでしょう。